SPORTIST STORY
RACING DRIVER
平中克幸
KATSUYUKI HIRANAKA
STORY

辿り着けなかったF1、それでも走り続けて到達した現在地

ドライバーとしてレーシングカーのステアリングを握り、代表としてチームの舵を取る。ふたつの役割を同時に背負いながら、平中克幸は今もコースを走り続けている。F1という夢の舞台に届かなかった現実と挫折に向き合いながらなお、前を向き走り続けてきた。そして今、直面する人材不足やレース活動におけるさまざまな壁ーー。それでも現役ドライバーとして、そして運営の一員として奮闘を続ける平中の言葉には、勝負の世界で培った覚悟と、応援の力に支えられてきた実感が静かに宿っていた。

Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga
Photo / Naoto Shimada
Interview date / 2025.06.17



「競争って楽しい」その感覚がレース人生の出発点になった





――平中さんは小学6年生からカートを始められたそうですが、レースの世界へ足を踏み入れたきっかけについて、詳しく教えていただけますか。

僕の父親がもともとレース好きで、北海道で草レースをやっていたので、小学校低学年くらいの頃から父の出るレースをサーキットへ見に行っていました。週末になるたび、わりと頻繁にサーキットへ通っていた記憶があります。

僕自身がカートに乗り始めたのは、小6から中1に上がるくらいのタイミングでした。僕には兄と妹がいるのですが、上の兄とは年が近かったので、2人でよくレンタルカートのあるサーキットへ連れて行ってもらっていました。

だけど、あれって1回ごとにすごくお金がかかるんですよ。当時僕自身は子どもだったのでまったく気にしていませんでしたが、親は「これは毎回レンタル代を払うより、いっそカート1台買ったほうがいい」と思ったらしく。そんな流れでカートを買ってもらったことがきっかけになって、カートを本格的に始めました。

――カートを本格的に始めてから、すぐにレースにも出場するようになったんですか?

いえ、カートを買ってもらってから実際にレースに出るまでには、1年近くかかりました。初めて出たのは耐久レース。兄と、仲のいいご近所さんと3人でチームを組んで出場したんです。

それまでも、カートに乗っているだけで楽しかったのですが、実際にレースに出てみたらさらに面白さが増しました。「これはめちゃくちゃ楽しいな」と思ったのを覚えています。

――ちなみに、レース以前に、趣味や習い事としてやっていたことはありましたか?

北海道には東京の砂浜とはちょっと違った、ジャングルみたいな雰囲気のある砂浜があるんですよ。カートに乗り始める前は、そういった砂浜でモトクロスや四輪バギーに乗っていました。だから、実はモータースポーツそのものには小さな頃から親しんでいたんです。

モトクロスって、でこぼこした道を走ったり坂を登ったり、ぐるぐるとコースを回ったりする中で感じるスピード感が、とにかくすごいんですよね。実際には最大でも時速70〜80キロくらいしか出ないのですが、乗っていると体感的にはもっと速く感じて、初めて乗ったときはその感覚に感動しました。

だからモトクロスやバギーをやっていた頃は、あくまでモータースポーツは「自分ひとりで楽しむもの」だったんです。だけど、そこに「競争」の要素が加わってくると、より面白くなった。

カートを始めてからは誰かと勝ち負けを争う緊張感や高揚感が楽しくて、気付けば「競うこと」そのものに惹かれるようになっていました。

ーーその頃からレーサーになりたいと思っていたんですか?

いえ、最初は「レーサーになりたい」とまでは思っていませんでした。単純に「競争が好き」くらいの感覚でしたね。

ーーでは当時、レーサー以外の夢はありましたか?

その頃は、将来NBA選手になりたいと思っていたんです。小3でミニバスチームに入って、中学まではけっこう真剣にやっていたので。

小学校の後半でカートを始めてからしばらくは、バスケとカートの両方をやっていたのですが、バスケはけっこう早い段階で「これは自分には無理だな」と思って諦めました。

ミニバスで札幌の地区選抜選手として試合に出場したのですが、選抜の試合って当然いろんな地域の選抜チームが集まっているので、背の高い選手やすごくうまい選手もいるんです。僕は身長も高くなかったし、突出した才能も無いなと実感して、試合後に「これはちょっと無理だな」と思っちゃって。

ちょうどその頃カートに出会っていたこともあって、バスケをやりつつも、気持ちはどんどんカートの方にシフトしていきました。

それに、やっぱりカートと部活の両立も難しかったんです。カートの予定があると、土日の練習に出られないこともあって。当時の部活って「練習に来ないやつはダメ」みたいな空気がすごく強かったんですよね。それで、ある日練習中に先生から「そんなんだったら部活を辞めろ」って言われたので、そのまま「じゃあ辞めます」って言って帰っちゃったんです。

その後、家に着くくらいのタイミングで先生から家に電話がかかってきて、「いや、そういうつもりで言ったわけじゃなかったんですけど」って謝るような感じだったらしく、そこで親が改めて「実はカートもやっているので、土日に練習に行けないことがあるんです」と説明してくれたそうです。

先生も、「そういう理由があるんだったら」と納得してくれて、そこからは練習も試合も出られる時は出るという形でやらせてもらえるようになりました。

ーーカートをやっていることは、あまり周りに話していなかったんですね。

隠していたわけじゃないんですけど、周りに同じようにやってる人もいないし話題も共有できないから、別に言う必要もないかなって思ってたんですよね。



ーー中学以降は、さまざまな土地に遠征したり、全日本カートFAクラスで優勝されたりと、本格的にカートに軸を置いて活動されていくわけですが、今振り返ってみて、カートをやって得られた学びとしてはどのようなものがあったと思いますか?

当時僕は北海道に住んでいたので、全日本カートに出るとなると、だいたい木曜か金曜にはサーキット入りして、練習して、レースをして帰る、という流れになるんです。

毎回飛行機で本州に飛んで、慣れ親しんだ場所でもなければ普段一緒にやっているメンバーもいない、まったく知らない環境の中に身を置いていたことは、今振り返るとすごく良い経験だったなと思います。

というのも、今もレースに出ると同じようなシチュエーションになることが多いんですよね。実際に僕は今も、全国各地のレースがなければ行かないような土地で走っています。

キャリアを積んだ今となってはそういった状況にもさすがに慣れましたが、若い頃は初めて行くアウェイな場所も多かったので、当時どんどん新しい土地に飛び込んでいった経験が役に立っているなと実感する場面が多々ありました。

ーー中学生や高校生当時、初めて行く場所に対しての不安はありませんでしたか?

それはあまり無かったです。北海道から全日本で優勝したのは僕が初めてだったので、地元の方々はすごく期待を寄せてくれて、応援もしてくださいました。だから、地元ではいわゆる「ホーム感」をすごく感じられるんですよね。

でもそれ以外の地域では、当たり前ですが完全にアウェーです。当時は予選落ちも普通にあったし、参加台数も多い時だと60台を超えることもあるなど、競争が非常に激しかったので、僕自身も初めて全日本カートのレースに出たときは「予選通過できれば十分だよ」と言われていました。

でも、僕はそんな気持ちでは行っていなかった。期待されていない場所でのレースだからこそ、その予想を良い意味で裏切りたいという気持ちが強かったんです。「すごい場所に来たぞ」というワクワク感もあって、不安よりもむしろ楽しみのほうが大きかったですね。

ーー モータースポーツの世界で、しかも北海道から全国各地への遠征となると、費用も相当かかっていたのではと思うのですが、その点については当時から意識していましたか?

いや、それはなかったですね。たぶん、金銭的なことを気にして走れなくなるような環境にはしたくないという父の思いがあったんだと思います。

それに、少しずつ成績が出るようになってくると、カートの部品を安く買えるようになったり、ちょっとしたサポートがついたりするようにもなってきて。環境も徐々に変わっていきました。

これは今だから話せる話ですけど、さっき話した「予選は通らないだろう」と思われていた大会に出た際、あるシートメーカーの方がいたんですよ。僕、まだ子どもだったんで、自分のマシンにステッカーを貼りたくて、別にスポンサーをしてもらっているわけでもないのに「ステッカーください!」って言いに行ったんです。

そしたら、当たり前なんですけど「うちが君をサポートしてるわけでもないし、あげられないよ」ってバッサリ断られて、「わかりました……」ってしょんぼりして帰ったんですけど、そのあと出た予選で3位になったら、さっき「あげないよ!」って言ってた人が急に寄ってきて「ステッカーやるから、車に貼りなよ」って言われて(笑)。

「あぁ、カートの世界ってそういう場所なんだなあ」って思いました。でも、そういう出来事も含めて楽しんでいましたけどね(笑)。

ーーここまでお話しいただいたのは平中さんがプライベーターとしてレースに参加されていたときのエピソードですが、一方で、ワークスのカートチームでも活動されていましたよね。読者の中には、ワークスとプライベーターの違いが分からない方もいらっしゃると思うので、平中さんから簡単にご説明いただけますか?

すごく簡単に言うと、プライベーターは個人で活動しているチームのことで、ワークスはメーカーがバックアップしているチームです。

たとえば、エンジンやフレームをたくさん使えるのがワークス。メーカーの支援があるので、いろんなパーツを試すことができます。でもプライベーターの場合は、自分でお金を出してエンジンやフレームを買わなければならない。だから、どうしても使えるものに限界が出てくるんです。

この違いは今も昔も変わりません。この業界では、ずっと続いている構造ですね。

ーー プライベーターとして出場されていた当時、「ワークスはいいな」と羨ましく感じることはありましたか?

それはもう、ずっと思っていましたね。たとえばフレームって、走っているうちにすごくしなったり沈んだりするので、亀裂が入ったりもするんです。エンジンと並んで速さに直結する重要なパーツで、レースでは毎回のように影響が出るんですよ。

タイヤはみんな同じものを使いますが、速さを左右するのはやっぱりフレームとエンジン。ワークスのチームはそれらを毎レースのように交換していたり、エンジンも10機以上持っていたりする。でも僕らプライベーターは、2機とかでまわしているわけです。その物量の差は圧倒的で、「いいな、ワークスに入りたいな」とはやっぱり思いましたね。



「F1に手が届くかもしれない」そう感じた瞬間に芽生えた目標と苦しみ





ーー その後、カートからフォーミュラへとステップアップされたタイミングで、トヨタのワークスチームに加入されたんですよね。しかも、フォーミュラトヨタレーシングスクールではスカラシップも獲得されたと伺いました。

それも本当にたまたまだったんですけどね。1999年、僕が高校3年生の頃に「フォーミュラトヨタ・レーシングスクール」が鈴鹿で発足したんです。

当時は普通免許を持っていないと参加できなかったんですが、父が「免許はまだ取れていないんですけど、受けさせてもらえませんか?」と主催者に連絡してくれて、最初はやはりダメと言われたそうなんですが、最終的に上の方々が「面白そうだからいいよ」と言ってくださって、特別に受講させてもらえることになりました。

ちょうどそのスクールに通っている頃、鈴鹿で開催されたテストにも参加させていただいて、さらに翌年にはトヨタがF1ドライバーを育てる目的で創設したフォーミュラトヨタレーシングスクールが始まりました。

そんなタイミングでテストが北海道・十勝で開催されることになったんです。ですが、僕はその情報をまったく知らなかったのでエントリーしていませんでした。すると逆に向こうから、「北海道開催なのに、どうしてエントリーしていないの?」と連絡が来て。そこで初めてテストの存在を知って、急いで応募しました。

開催場所は十勝インターナショナルスピードウェイだったのですが、今まで全国を転戦してきた自分にとって初めてホームで挑戦できるような感覚で、すべてがとても良いタイミングだったなと思います。

ーー平中さん以外の参加者の方々は、当然スカラシップ獲得を目標にエントリーされていたと思いますが、その頃には平中さんご自身も「スカラシップを獲りたい」と考えるようになっていたのでしょうか?

いえ、まだその頃はレーサーになりたいと思っていなかったんです。スクールが開催されたのは8月でしたが、僕はその年の春に高校を卒業して、父の会社で働いていました。

ただ、全日本カートやオートスポーツといった雑誌は読み続けていたので、自分が以前カートで争っていた仲間たちが少しずつキャリアを進めていく姿は目にしていました。もちろん若干の悔しさはありましたけど、だからといって「自分もレーサーになりたい」という気持ちは特に無くて。

だから、エントリーを決めた時も「スカラシップを絶対獲りたい」というよりは、「そういう制度があるんだ、じゃあ受けてみようかな」という、けっこう軽いノリだったんです。

ーーなんとなくギラギラした闘志あふれる人ばかりが参加しているようなイメージだったのですが、平中さんはちょっと違うスタンスだったんですね。

確かに、闘志あふれる雰囲気はありましたね。すでにワークスに所属している人や、レースでチャンピオンになっているような実力者も多くエントリーしていて、「すごい人たちが集まっている」という空気感を強く感じていました。

ーーそんな中、見事スカラシップを獲得し、F3へとステップアップして……と順調にキャリアを進めていくわけですが、「レーサーになろう」と思うようになったのはどのタイミングだったのでしょうか?

フォーミュラトヨタレーシングスクールのあとにフォーミュラ・トヨタシリーズでレースを始めたのですが、その頃はまだ「プロのレーサーになりたい」という気持ちは特にありませんでした。

気持ちが変わってきたのはF3に上がってからです。ステップアップしていく中で、「F1」という頂点に少しだけ近づいてきているような感覚を持てたんですよ。

フォーミュラ・トヨタやF3という車は、当時のミドルフォーミュラの中でも上位のカテゴリーだったんです。そこにステップアップできた時点で、「もしかしたら自分にもチャンスがあるかもしれない」という気持ちが芽生えてきて。

そこから「ちょっと頑張ってみようかな」と思うようになっていきました。

ーー具体的な目標ができると、気負わずにやれていた頃に比べて、焦りや不安も出てきそうなものですが。

それが意外かもしれませんが、そういったものはあまり無かったんです。本当に目の前のレースだけに集中していたので、焦りも不安も感じませんでした。良くも悪くも、その時は目の前のことしか見えていなかったんでしょうね。

ーーF3になってからは、世界選手権のような国際大会にも参加されるようになったんですよね?

F3にステップアップした年に、オランダで開催された世界大会にも出場させてもらいました。それがちょうどF3での1年目、20歳の時だったと思います。その時に、「世界」というものを肌で感じて、「これに挑戦してみたい」と思ったんです。

バスケをやっていた頃は、早い段階で「これは無理だな」と思ったんですけど、レースに関しては「自分でも行けるんじゃないか」と思えるようになりました。



ーーその翌年にはヨーロッパへと活動の場を移されました。

日本でF3を1年やったあと、ヨーロッパに渡って2年間活動しました。

ヨーロッパでの経験は、本当に刺激が多かったですね。ヨーロッパでは、すべてがF1に直結しているような環境でレースをやらせてもらえました。朝から夕方まで、フィジカルトレーニング、メンタルトレーニング、英会話など、すべてがレースのため。平日は毎日そういったスケジュールで過ごしていて、週末以外は基本的に休みも無しです。

しかも、周囲には同世代のドライバーたちがみんな本気でF1を目指している。「その姿勢がスタンダード」という環境で過ごした毎日は、とても刺激的でした。

ーーF3の3年目でランキング2位という成績を残された時、「F1がもう目の前にきている」という感覚は、ご自身でも感じられていましたか?

いや、それが全然そんなふうには思えなかったんです。

ヨーロッパのシリーズで表彰台に上がれたのは1度きりだったし、年間成績も全然ふるわなかった。結果がすべての世界で、結果がなかなか出せなかったので、精神的にもきつい2年間でした。

だから、2003年のF3マカオGPは「もうここで結果が出せなかったら、先は無いかもしれない」という覚悟で、本当に背水の陣で臨んだレースでした。

結果として3位にはなれたけど、それだって優勝ではないですし。嬉しさもありましたけど、満足しきれない気持ちも残って、複雑な心境だったというのが正直なところです。

ーー当時、結果が出せなかった理由は、今振り返ってどこにあったと思いますか?

やっぱり僕は、目の前のことにしか集中できないタイプで、当時は周りが見えていなかったんです。今、キャリアを積んできた中で改めて思うのは、やはり「視野が狭かったな」と。
そこは、明らかに良くなかった点だったと感じています。

ーー「周り」というと、メカニックの方なども含めて、ということでしょうか?

そうですね。やっぱり「結果を出す」というのは、自分ひとりでは絶対にできないことなんです。だから、周りをどうやって動かすかが重要だったと思うのですが、その「動かし方」がまったくわかっていなかった。

自分はドライバーとして、「自分が1番速い」という信念を持って取り組んでいました。ただ、それは他のドライバーたちも同じですよね。その中で結果を出すには、信念を貫くだけでは足りなくて、味方をどれだけつくれるかが鍵になってくると思います。

尖りすぎていると、味方はできるかもしれないけど、それ以上に敵もできてしまう。そういった状況もあって、なかなか良い環境を整えられなかったんです。

ーーすごく難しい問題ですね。それが自身の弱点だと解ったとしても、改善するための方法を見つけられるかも、その方法が果たして正しいのかもわからないし。

本当に、もどかしいヨーロッパ生活でした。「もっとできるはずなのに」と常に思いながらも、それがなかなか形にならない。サーキットに行っても、レースではまるで壁にぶつかってばかりのような感覚でした。

レースが終わって帰ったあと、仲の良いメカニックの方たちと過ごす時間が少しの癒しにはなっていましたが、でもやっぱり自分はレースのためにヨーロッパに行っているので、結果が出ない毎日は本当に苦しかったです。

ーーピットを含めたチーム全体の空気感は、ドライバーの成績と直結するような印象があります。そうした空気感は、ドライバーにとってプレッシャーになるものですか?

それはやっぱりありますね。レースって、実は走行時間がかなり限られているんです。たとえば、1日にあるセッションは2回程度で、各セッションも1時間とか1時間半ぐらい。その2回が終わったら、もう予選と決勝です。

だから、いちばん最初の走り出しで出したタイムがとても重要になります。最初にパッと走ったタイムが良くないと、「これはまずいぞ」ってすぐにチームの空気が悪くなるんですよね。

ーー観戦している側からすると、「いろいろな作戦を試しているからこのタイムなのかな?」と考えてしまうこともあるのですが。

もちろん、そういうパターンもあります。最初は全然タイムが出ないけれど、いろいろ試していく中で良くなっていくというケースですね。でも、正直それは本当に稀です。やっぱり最初にある程度パッと走った時に、ある程度の速さが出ないとダメなんですよ。そこが基準というか、そこからスタートしないと勝てないんです。

結局、最初からある程度の位置にいる人とどん底からスタートする人が、同じ1時間の中で同じようなことをしていくわけです。そうなれば、両方が同じように速くなっていったとしてもポジションは変わらないですよね。だからこそ、最初の走り出しのタイムがものすごく重要なんです。

で、良いタイムを出すために、工場やファクトリーで車を作ってサーキットに持ち込むんですが、サーキットで走らせる前に行う「持ち込みのセッティング」がまたすごく重要。そこでいかに、エンジニアやメカニックなどのチームメンバーと話し合って、その時の状況やコースに合った仕様を決められるかが、勝つためのとても大きなカギになります。

だからやっぱり、周りとの関係性が大事なんですよね。



F1テスト走行の日、心の中には「これが最後」の覚悟があった





ーーF3をやりながら、2004年にトヨタのF1テストドライバーとして参加されたと読みました。そのときは、どういったきっかけだったのでしょうか?

僕はフォーミュラトヨタ・レーシング・スクール(FTRS)の一期生だったこともあって、ある意味「道をつくる」というのが自分のミッションでもあったんですね。そういった流れの中で、F1のテストに参加させてもらえる機会を得られたという感じです。

実際には2回ほどF1マシンに乗ったんですけど……もう、本当にすごかった。別次元の車で、衝撃を受けました。そのF1テストより前に、フォーミュラ・ニッポンにも乗ったりはしていたんですけど、F3からフォーミュラ・ニッポンにステップアップした時は「そんなに速さは感じないな」と思ったんです。

でも、F1はまったくの別物で、「これは毎日ちゃんとトレーニングしないとダメだわ」と本気で思いました(笑)。

ーーこの頃には、さすがに「F1が目の前にきている」と感じておられたのでは?

いや、全然そんな感覚じゃなかったですね(笑)。F1に乗ることはできましたが、僕の意識としては「これがF1との関わりとしては最後になるだろうな」と割り切っていました。さっきも話しましたが、ヨーロッパで結果を出せなかった。それがすべてです。

だから、テストには「今回限りのチャンスだな」という思いで臨んでいました。

それこそF1のテストって、ほんの1時間くらいなんですよ。そんな短い時間で、すぐに速く走れるような甘い世界じゃない。だから「このテストが自分のF1キャリアの終わりだ」と思いながら、ある意味で覚悟を決めて乗っていました。

ーー当時の心境を想像すると、かなりつらい時間だったのでは。

そうですね。挫折でした。

ーーそれまで順調にステップアップしてきたからこそ、余計に苦しさもあったのではないでしょうか。

まあ、それまでのステップアップが早すぎたというのもあるかもしれません。

当時の時代背景から見ると、僕はかなり早いペースで進んでこられたほうだったと思います。でも、だからこそ突然ポンと上がって、そこから急激に落ちたような感覚になりました。本当に、急に浮上して急に沈んだというか……そんなイメージです。

ーー「もう辞めよう」とは思わなかったですか?

自分から辞めようと思ったことはなかったです。ただ、「このままレースで乗れなくなっちゃうのかな」という不安はありました。

国内に戻ってきてからも、一応シートは用意してもらえたんですけど、2005年にフォーミュラ・ニッポンとかスーパーGTに出ても、やっぱり結果は出せなくて。

少しは光った部分を見せられた場面もあったとは思うんですけど、でも最終的なリザルトとして残せたかというと、そうではなかった。良い走りができた瞬間は確かにあったけど、それがちゃんと結果に結びついたかといえば、そうでは無かったので。

言い方が難しいんですけど、速いドライバーと強いドライバーってまた違うんですよね。

だけどその一方で、フォーミュラ・ニッポンのデビューイヤーの予選では、フロントローとかを獲れるなど結構良い結果を出せたりもしたんです。その翌年も別のチームから声をかけてもらえたり、それこそ星野一義さんに「お前、速いな」と声をかけてもらったり、そういう嬉しい出来事もちらほらあったんですよね。

そのおかげで、「まだ自分もいけるな」と気持ちを切り替えることができました。

ーーじゃあ、その頃にはもう挫折からは完全に立ち直れたと感じていましたか?

うーん……でも、やっぱりどこかで引きずってましたね。若い頃って、「F1に乗れなかったら意味がない」みたいな気持ちがすごく強かったんです。だから、「もう自分はF1には行けない」と感じた時点で……どこかでずっと挫折感を抱えながらレースに出ていた部分はあります。

ーーそれは今でも残っていますか?

いや、今はもう無いです。でも、GTで結果が出なかった頃、特にワークスで走っていた時なんかは、結構ずっとそんな感覚がありましたね。

ーーその後、トヨタからホンダへの移籍がありましたよね。

トヨタではGT300に乗って、その後、GT500でも2年間走りました。そして2008年にホンダに移籍したんですけど、これは自分の意思で決めた移籍でした。

実はその前の年、2007年に中島悟さんから突然連絡があったんです。知らない番号から電話がかかってきて、「誰だろう?」と思って出たら、「中島だけど」と。その時に「うちのチームに来ないか」と誘われました。

正直、内心めちゃくちゃ行きたかったんですけど、すでにその年はトヨタ系のチームで契約が決まっていたので、お断りせざるを得なかったんです。

でも、次の年になってから今度は自分の方から電話をかけました。「去年誘ってもらったんですけど、今年はどうですか?」って。そしたら「いいよ」と言ってもらえて、それでホンダに移籍することになったんです。

ただ、もともとトヨタ系のドライバーがホンダに乗るということ自体が異例だったし、ホンダ側はホンダ側で若手育成の方針もあったので、結果的には1年だけの在籍になりました。でも、それはある程度覚悟していた部分でもありました。



止まりかけたキャリアを繋いだGAINERでの13年 信頼が自信を与えてくれた





ーー日本に帰ってきてからGTなどのレースにも多数出場していましたが、その頃も、先ほど話されていた「挫折感」はまだ拭えないままでしたか?

気持ちは、全然回復できていませんでした。要所要所で速さや光る部分も見せられていたとは思うのですが、それでもどこか満足できない。ずっと引っかかるものを抱えていましたね。だから自信もまったく持てなくて。

帰国後もメーカーに所属して500に乗ってはいましたが、そんな思いを抱えながら走っていたので、当然結果もついてこなかったです。

ーーしかし、その後GT300に転向されてから、10レースで優勝したり表彰台に登ったりといった活躍を多々見られるようになりました。気持ちを切り替えるきっかけがあったのでしょうか?

メーカーとの仕事が2008年に終わった後、翌2009年からはプライベートチームである300クラスに参戦することになって、そこで出会ったのがGAINERというチームだったんです。

正直なところ、500クラスから300クラスへの転向だったので、「拾ってもらった」という気持ちもどこかにありましたし、「300か……」という迷いも少なからずありました。

でも、チームはとてもウェルカムな雰囲気で迎えてくれたし、当時のチーム代表は僕を信頼して、「お前は速い」とずっと言い続けてくれました。

そうやって周囲に認めてもらえることで、少しずつ自信を取り戻すことができたんです。その自信は走りにも表れるようになり、結果にも繋がっていきました。1年ごとに信頼関係をより強固なものにしていくことができて、その結果として13年間もチームで走らせてもらえたのかなと思っています。

ーー良いチームに巡り会えたおかげで、レーサー人生を繋ぎとめられたのですね。

そうですね。それに、彼らの考え方や姿勢からもすごく刺激を受けました。オーナーが常々言っていたのは、「チャンピオン争いができなくなった時点で撤退する」ということ。その言葉からもわかるように、本気度が強く伝わってくるチームでした。もちろん僕らも同じ覚悟で、1戦1戦を本気で戦っていました。

その甲斐あって、ほとんどのシーズンで最終戦までチャンピオン争いに加わることができていましたし、年間で2勝するような年もありました。常にやりがいを感じられる環境で、本当に良いチームだったと思います。

ーーそういった環境に身を置くことは、平中さん自身のメンタルや技術にも良い影響をもたらしたのでは?

合流初年度にオーナーの考えを聞いた時点で、「このチームは本気で向き合っているんだな」と強く感じましたし、僕自身も「しっかりやらなくては」と心に火が点いたような感覚がありました。

それに、チームスタッフやメカの方々とも海外時代と違ってしっかりと信頼関係を築くことができたんです。自信を失うきっかけになった自分の弱点を克服したうえで結果を出して、自信を取り戻させてくれたのがGAINERでした。今の自分があるのは、間違いなく彼らのおかげなんです。

多分、海外で感じた挫折感や、国内でも拭いきれなかったモヤモヤを抱えたままで走り続けていたら、きっとどこかで限界が来て、レーサーとしての僕は終わっちゃっていたと思うんですよね。

レーサーとしてひとつめのターニングポイントはメーカーと出会えたことだったと思いますが、気持ちを切り替えてレーサーとしての自分を今へと繋げるきっかけとなった、レーサー人生ふたつめのターニングポイントは、確実にGAINERとの出会いでした。

GAINERでの13年間が無ければ、きっとSHADE RACINGで走ることも、代表という立場に立っている今も無かったはず。今僕がここにいられるのは、間違いなくGAINERでのキャリアがあるからこそだと思っています。

ーー少し話は逸れますが、2010年には再びフォーミュラに復帰されていますよね。これはどのようなきっかけで?

あるチームがフォーミュラ・ニッポンに新規参入するというタイミングで、声をかけてもらったことがきっかけでした。僕がもともとトヨタ系のドライバーで、そのチームもトヨタエンジンでの参戦を希望していたことから、自然と話が繋がったんです。この参戦にあたっても、当時所属していたGAINERがバックアップしてくださって、復帰を実現することができました。

ーーそんな経緯があったのですね。それにしても、2010年はフォーミュラ・ニッポンとGT300の両方に参戦するという非常にタフな1年だったようですね。

そうですね。自分でもなかなか貴重な1年だったなと思います。あの年は、たしか2年ぶりのフォーミュラ参戦だったんですよ。だから久々に乗ると「やっぱり速いな」って驚きました。以前乗っていた時は全然速く感じていなかったのに、久々に乗ると「こんなのに乗ってたんだ!」ってすごく刺激的に感じたのを覚えています(笑)。

ーーやっぱりフォーミュラは他のレースとは違うものですか?

違いますね、やっぱり。まず、フォーミュラは走り出したら自分ひとりのレースですから。GTは2人で交代しながら走りますが、フォーミュラは完全にスプリント形式なので、そこが大きな違いです。

レース形式の違い以外で言うと、やっぱり速さも全然違います。体感的なスピードは、フォーミュラの方が圧倒的に速い。そこがいちばんの違いかもしれませんね。GTはどちらかというと耐久要素が強い印象です。

ーー言ってしまえば、フォーミュラってドライバーの体がむき出しの状態で走るじゃないですか。体感速度もすごそうですが、怖さは感じないんですか?

普通に走っていて「怖い」と思ったことはないですね。ただ、例えば雨で前がまったく見えない中を走るとか、前の車が突然ブレーキ踏んだらどうしようとか、そういうシチュエーションではちょっと怖いなと感じる時もあります。でも、それ以外では基本的に恐怖心はあまりないです。

ーー現役中、大きなクラッシュを経験したことは?

幸いにも大怪我につながるような大きなクラッシュは経験していません。腰を痛めたことはありますが、いわゆる派手な事故は一度も無いですね。

ーークラッシュしてしまった時って、レーサーとしてはどんな気持ちになるのでしょうか。

やっぱりいちばんは「申し訳ないな」っていう気持ちですね。特にチームに対してはそう思います。

ただ、レース中の接触って本当に面白くて、どんな状況でも、なぜか「相手にぶつけられた!」って、双方が言うんですよ(笑)。どっちもが「自分は悪くない」って主張する。だから当然後から映像を見てみたら、「いや、完全にお前がぶつけてるじゃん」ってことも普通にあります。

若い頃なんかは「なんでぶつけてくるんだよ!」って、プンプン怒ったりもしましたけど、でもどっちに非があったとしても、レース中に止まってしまえばそれで終わり。

だからこそ、そういう事態を避けることがドライバーの大事な役割でもあると思います。

ーー平中さんはレース中、リスクを取って攻めるタイプですか?それとも完走を最優先するタイプ?

僕はどちらかというとイケイケなタイプだったと思うんですけど、でも、本当に「行ける」と思わない限りは行かなかったですね。そこは結構慎重でした。

ーーその「行ける」と判断する感覚って、瞬時の判断が求められると思うんですが、それはやっぱり経験によるものですか?

いや、それはもう完全に個人の感覚だと思います。僕が「ここは行ける」と思うポイントでも、他人から見たら「いや、無理でしょ」って思われることもある。

だから若い頃なんかは、「今のところで抜くんだ?」って驚かれたり、「すごいタイミングだったね」なんて言われることもありましたけど、自分としては別に特別なことをしている感覚はなかったんです。

ーー自分としては当然いけると思ったからこそ動いているわけだから。

そうですね。自分の中では自然な判断だったと思います。ただ、今は年齢や経験を重ねたこともあって、より慎重になったかもしれません。もちろん「行ける」と確信が持てれば行くことは変わっていませんが、前だけじゃ無く後ろの動きも含めて、全体を見ながら走るようになったり、全体を見るようになりました。

やっぱり、レースが止まったらそれで終わりですから。そういう意味では、経験を積む中でレース中の管理をより強く意識するようになってきたと思います。

ーーそういった部分も含めて、昔よりも周りが見えてきたのかもしれませんね。

そうですね。いろんな意味で周りが見えてきた。チームが求めているものも、だんだん分かってきたように思います。

レースって「パッケージ」なんですよ。もちろん理想は優勝ですけど、今のチームの戦闘力やドライバーの戦闘力も含めた全体の状況を踏まえたうえで、「このパッケージなら何位を目指すのが現実的か」という判断軸もあるんです。

たとえば、走り出しの段階で全然タイムが出なかったら、「今回はちょっと目標達成は厳しいかもな」っていうのはある程度見えてくる。でも、その厳しい状況の中でも、いかに想定を少しでも上回って終われるか。それがすごく重要になってきます。

きっとそういう部分が、多分若い頃はあまり見えていなかったんですよね。だから今は、「周りや全体を見通して考えること」、そして「自分をマネージメントすること」について、すごく気をつけるようになりました。

ーー2021年に13年間所属してきたGAINERを脱退し、現在代表を務めるSHADE RACINGへ加入されました。この移籍の裏にはどのような考えがあったのでしょうか。

最初は、「いずれはドライバーとしてのキャリアの終わりが来るから、ドライバーキャリアを終えた後を見据えた、セカンドキャリアに向けたチャレンジとして考えてみませんか」という形でお話しをいただいたんです。僕にとっても魅力的なチャンスだったので、いろいろと悩みましたが、最終的に移籍を決めました。

ーー13年もの間所属してきたチームからの移籍を決めるのは、葛藤も大きかったのでは?

それはもう。僕の中でも、本当にさまざまな葛藤がありました。一度は「やっぱり移籍は断ろう」と思ったこともあったし……。信頼できる先輩ドライバーやレース関連の知人に相談する中で最終的に移籍を決めましたが、チームへの想いが強かっただけに、かなりタフな決断でした。



レース業界の人材不足 モータースポーツ経営の現実とチーム代表の挑戦





ーー現在の平中さんは、SHADE RACINGのドライバーとして走りながら、同時にチームの代表も務めていらっしゃいます。この立場は「自分をマネジメントすること」と「周りや全体を見通して考えること」の両方が、必要不可欠な視点であるように感じます。

そうですね、どちらも常に考えています。ドライバーの気持ちもわかるし、チームスタッフとしてメカニックやエンジニアの気持ちもわかる。そして代表という立場でチーム事情もある程度は把握しているので、全員の「ちょうどいい間」をいかに取るかが肝要ですね。

ーーもはやセルフマネジメントどころか、チームマネジメントですね。

そうですよね(笑)。

ーー今のチームは、どういったメンバー構成なんですか?

現場で言うと、まずドライバーがいて、エンジニアとデータエンジニアがそれぞれ2人ぐらいずつ。メカニックも2、3人ほどいます。

メカニックは、エンジニアからの指示を受けて車の調整を行う人たち。データエンジニアは、走行データを基にエンジニアにアドバイスを出す役割。エンジニアは、そのデータをもとに車のセットアップを考え、最終的な仕様を決める設計者のような存在ですね。

それから、ドライバーをサポートするチームマネージャーもいます。マネージャーもそれなりの人数がいて、チームを支えてくれています。

ーーSHADE RACINGのチームメンバーは、それぞれ別のお仕事もされているんですか?

SHADE RACINGの場合は、ほとんどがチームの社員として専業で働いています。メカニックについては、「レーシングメカニック」という職業があって、彼らはレース現場専門のメカニックとしてSHADE RACINGと契約しています。そのため、別のカテゴリーのレースにも携わっている人が多いですね。

ーーなるほど。フリーに近い立ち位置で、複数のチームを掛け持ちしている方もいらっしゃるんですね。

そうです。ただ、メカニックは今、レース業界全体で人材不足なんですよね。

ーー人材不足は深刻な問題ですね。チーム運営の難しさは他にもいろいろあると思うのですが、他にはどういった点が大変ですか?

金銭的な問題はどこも大変だと思いますが、たとえお金があっても人材がいないという課題がやっぱりいちばん大きいですね。

ーー人材不足の理由として、はっきりしている原因はあるのでしょうか?

やっぱりレースの世界って特殊なんですよ。どういう仕事なのかイメージがつかない人が多いと思いますし、そもそもレースに興味を持つ人が、昔より少なくなってきている気もします。

ーーいわゆる「車離れ」も関係しているのかもしれませんね。

そう思います。やっぱり車が好きな人じゃないと、この業界にはなかなか入ってこないですしね。だからお金があるだけでもチームの継続って難しいんです。

そんな状況なので、こちらとしても今後は自動車大学校の卒業生などが興味を持って来てくれるよう、いろいろ発信していきたいなと思っています。

実際、先日の24時間レースの時、自動車大学校の生徒さんたちが他のチームの応援に来ていたんですが、「別のチームも見てみたい」との声があがったそうで、うちのピットの中を見学してもらいました。

今年、うちに新卒で入ったメカニックのひとりも自動車大学校の卒業生なんです。24時間耐久レースでは、彼にタイヤ交換も任せています。

タイヤ交換って、メカニックにとっては花形のポジションでもあると思うんです。それを入ってすぐに任せられるのは本人にとって大きな成長に繋がるのではないかと考えて、任せてみることにしました。

ーー実戦からしか得られないことも多いですからね。

そうですね。本人もすごく喜んでいましたし、毎日、練習に取り組んでいるみたいです。

ーー人材をいかに集めていくかという点も重要ですが、チーム運営においては経営をどのように回していくかも大きな課題だと思います。現在チームはどのようにして収益を得ているのでしょうか?

いや、それがですね。収益だけでチームをまわすのは、正直なところかなり難しいんです。
レーシングチームとしてレースに出場するだけでは、収益はほとんど上がりません。

なので、たとえば車のメンテナンスを請け負ったり、他のレースに出場するオーナーさんの車を整備して、サーキットサービスを提供するという形で経営を支えています。

あとは、SHADE RACINGとしては「カーボンコンポジット」の製造ですね。カーボンパーツを作るための専用の窯を保有しているので、今後はその分野に力を入れていきたいと考えています。この設備ができたのは2年ほど前なので、これから本格的に取り組んでいく段階です。

ーーレースの賞金だけでは、やはり厳しいんですね。

賞金だけでチームを維持するのは、正直難しいです。スーパーGTでチャンピオンを獲ったりすればある程度の賞金は得られますが、それでも十分とは言えません。

ーーやはりそのあたりは、ドライバーだけでなく代表としての視点があるからこそ、特に気を配られるところですよね。

そうですね。やっぱり使うだけではダメで、「この体制がいつまで続けられるか」ということを常に考えるようになりました。

ーーそうした運営面での責任やプレッシャーが、レースに悪影響を及ぼすようなことはないのでしょうか?うまく切り離せていますか?

それは大丈夫です。レースと経営はしっかり切り分けて考えられています。ただ、運営はやっぱり大変ですね。

ーー日本国内では、モータースポーツがなかなか世間に浸透しきれていない印象を受けるのですが、その点はどうお考えですか?F1の世界的な人気と比べても、国内では注目度に差があるように感じます。

やっぱり日本国内では、モータースポーツの露出が圧倒的に少ないんですよ。たとえば、今日本で1番人気のカテゴリーであるスーパーGTですら、地上波での放送がないんですレースを観ようと思ったら、有料放送に加入しなきゃいけない。そうなると、本当に興味を持ってる人しか観ないですよね。

たまたまテレビをつけていたら目に入る、というような偶然の出会いがない。つまり、レースの存在自体が「知られていない」状態なんです。

知られていなければ、当然そこから興味が芽生えることもない。だから、全く関心がない人たちにとっては、モータースポーツって存在していないのと同じだと思うので。まず存在を知ってもらわない限りは広がっていきませんよね。

ーーそう考えると、サーキットに応援に来てくれる方や、すでにモータースポーツを知っている人たちによる発信っていうのも、すごく重要になってきそうですね。

大事ですね。だから発信してくださっている方や、応援してくださっている方々の存在は本当にありがたいです。

ーー平中さんは、応援してくださっているファンの方々に向けての、いわゆるファンサービス的な活動にも力を入れておられますよね。

最近はあまりできていないんですけど、数年前までは毎年パーティーを開いて、ファンの皆さんを招待してトークショーをしたり、直接交流したりする機会を続けていました。そういった活動は、今後も積極的にやっていきたいなと感じています。

それから、チーム単位でも、もっとファンサービスに取り組みたいですね。以前在籍していたチームでも毎シーズンの終わりにファン向けイベントを開催していて、それがすごく好評だったんです。そういう取り組みは、SHADE RACINGでも実現したいと思っています。

ーーF1という大きな目標に向かって挑戦を続け、テストには参加されたものの、参戦には至らず「挫折だった」と語っておられましたが、そんな経験を経た今、平中さんが描く「夢」とは、どのようなものなのでしょうか?

正直に言うと、今は「これが夢です」と明確に言えるものが、自分の中にはまだ無いんです。むしろ今は、それを探している最中なのかもしれないなと思っています。

僕には子どもが2人いるんですけど、「夢を持って生きていこう」って子どもたちに言う立場の自分が、実際には夢を持てていないのはどうなんだろうと思って、実は何度か、今の自分自身の夢について考えたこともあるんです。

「GTのチャンピオンになることが今の自分にとっての夢なのかな」と思うこともあるんですけど、でもそれを「夢」と言ってしまっていいのかという気持ちもあるし。

ーー夢と目標は、また少し違いますもんね。

そうなんですよね。目標は常に持っていますし、そこに向かって日々過ごしているという実感はあります。でも夢って、もっと先の、もっと大きなもののような気がして。大人になってみて初めて、「夢を見つけることの難しさ」を感じるようになりました。

もともとF1ドライバーになることが夢だったわけではないけれど、気付けばそれが夢になっていた。でもその夢があともう少しというところまで近づいて、「これはいけるかもしれない」と感じた瞬間もあって……でも最終的には手が届かなかった。そのあとさらなる夢を見つけるっていうのは、やっぱりなかなか難しいものですね。



応援とは「モチベーションに直結するもの」




ーーさまざまな経験を重ねてこられたと思いますが、側には常に応援してくれる方々がいらっしゃったと思います。「応援」という言葉を聞いて思い出すエピソードはありますか?

それこそ、本当にキャリアのいちばん最初の頃の話なんですけど、全日本カートに参戦した初年度のことは、今でも強く覚えています。

当時、北海道内でも僕の参戦については賛否が分かれていて、「あんなの無理だろ」と言ってくる人もいれば、本気で応援してくれる人たちもいました。

もちろん、身近な人たちはすごく応援してくれましたけど、それ以外の人たち、たとえば過去に挑戦して届かなかった人や、少し距離のある人たちの中には「絶対無理だよ」なんて声もありました。ちょっとした「勝てる・勝てない論争」みたいになっちゃってて。

でもそんな状況の中で、全日本カートの東西統一戦で優勝することができたんです。しかも、北海道出身ドライバーとしては初めてのことでした。

優勝した時は、応援してくれていた人たちが本当に喜んでくれて。「甲子園で優勝したくらいの快挙だ!」って、大人たちがどんちゃん騒ぎするくらい(笑)。逆境の中でも信じて応援してくれた人たちが、あそこまで喜んでくれたのは本当に嬉しかったし、今でも忘れられない思い出です。

ーー全日本カートの東西統一戦優勝は、まさにカート界の頂点ですよね。

しかもその時の僕は北海道外ではまったく無名でしたし、周囲からの期待もまったく寄せられていなかった。だからこそ、あの状況で勝てたというのは、自分にとっても特別な出来事だったと思います。応援の力って、本当に大きいなと実感した瞬間でした。

ーーでは最後に、平中さんにとって「応援」とは何でしょうか?

応援とは、「モチベーションに直結するもの」だと思います。

僕自身も、応援することが好きなんですよ。これまで自分自身がたくさんの人に応援されてきたから、その応援がどれだけ力になるかも、自分の経験を通してよくわかっています。応援する側の気持ちも、応援される側の気持ちも、どちらもわかるんですよね。

だから今、僕の趣味は、娘のバスケを応援することなんです。娘やチームが頑張ってる姿を見ると、自分も頑張らなきゃって思える。そういうふうに考えると、僕がレースで応援されてきたのも、きっと同じ気持ちだったのかなって思えるんです。応援することで、「よし、自分ももっと頑張ろう」って自然と思える。それってすごく大きな力だと思います。

僕自身の話で言うと、レースって、観てくれる人がいてこそ成立するものなんです。コロナ禍では無観客での開催もありましたけど、やっぱり誰もいない中で走るレースって、ちょっと違うんです。

優勝しても拍手もない、表彰台に上がっても何もない。それってもう、まるでリハーサルみたいで、やりがいも半減してしまいます。「応援ってすごく大事だな」って、あの時も強く感じました。

コロナが落ち着いてきて、少しずつお客さんも戻ってきて、改めて感じるんですけど、やっぱりファンの存在って本当にありがたい。応援があるかないかで、レースの雰囲気はまったく違ってきます。

それはピットビューイングでも感じます。ピットビューイングはファンの皆さんと交流する場なんですけど、そこにたくさんの人が集まってくれると、パドック全体の活気がすごく伝わってくるんですよ。そうなると、僕らもすごく楽しい気持ちになるんです。

最近は特に「楽しめないとダメだな」って思うんですよね。

僕の原点って、そもそも「競争することが楽しい」っていうところだから。もちろん今はそれが仕事になっているので、楽しいだけじゃいられない部分もありますけど、やっぱり基本には「楽しむこと」がないといけないなと。

自分が辛そうに走っていたら、それって絶対にファンにも伝わってしまうと思うんです。だから、自分がまず楽しんで、応援してくれる人たちにもその気持ちが伝わって、もっともっと楽しい空間が広がっていけば良いなと思っています。