生きることは、愛すること。バスケ、家族、自分、前田顕蔵の生き様と覚悟。
秋田の街で「前田顕蔵」の名前は特別な響きを持つ。チームとファンの垣根を越えて、暮らしの中に入り込んだ地元密着のヘッドコーチ。スーパーで声をかけられ、祭りではなまはげに背中を押してもらえる。そんな関係性を11年かけて築いてきた。
彼のバスケット人生は決して順風満帆なものでは無かった。海外でトライアウトに落ち続けた大学時代。経験も実績もないまま引き受けた初めてのヘッドコーチ就任。そして、キャリアを築く最中に訪れた最愛の妻の闘病と別れ。代表活動から離れ、仕事を辞め、妻との時間を選んだ最後の4か月。その時間は悲しみと同時に、愛と家族の意味を教えてくれた。
前田が一貫して問い続けてきたのは、「チームに、家族に、自分は何ができるのか」。街に、選手に、そして家族に自分はどう向き合うのかだけを考え、ここまで突き進んできた。
彼は今年、長い時間を過ごした秋田の地を離れる。しかし、場所が変わっても彼の想いは変わらない。どこにいても、誰に対しても。バスケットボールと共に生きてきたひとりの指導者の生き様は、関係性の中にこそ本質があることをただまっすぐに体現している。
Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga
Photo / Kenzo Maeda
Interview date / 2026.03.12
ミスを叱るか、切り替えを称えるか アメリカで感じたコーチングのギャップ

ーー少年時代の前田さんはどんな子供だったのでしょうか。
小学生の頃は周りよりも背が高くて、小学6年生の時には161センチありました。力も強いほうだったと思います。兄がちょっとやんちゃなタイプだったこともあって、その影響もあったのか当時は周りと喧嘩をするようなこともありました。
ただ、小学4年生の時にバスケットボールと出会ってからは、バスケにぐっとのめり込んでいきました。そこからは完全にバスケ一色の生活でしたね。
ーー中学校に入るタイミングで、それまでとは違う学区へと転校されたそうですね。
「兄と同じ中学校に進学するとまずいんじゃないか」との親の判断で、中学から転校させられたんです。転校生という立場だったので、転校先ではかなり気を遣いました。それもあって、以降は6年生くらいまであったやんちゃな部分も出なくなりましたね。転校先では良い友達に出会えて、改めてバスケットボールに打ち込むようになりました。
ーーバスケと出会う前にも、スポーツはやっていたんですか?
小学2年生から4年生までサッカーをしていました。ただ、サッカーの練習が夜の時間帯だったんです。当時前田家は夜が早くて、僕自身も早く寝たいタイプだったので、夜の練習がきつくてやめました。
それで朝早く学校に行っていたら、先生に声をかけられてバスケットを始めた、という感じです。
ちなみに少し話が前後しますが、小学6年生の時、僕が進学した高校である大商学園高等学校がウィンターカップで全国優勝したんです。小6の冬休みにその試合を見て「ここに行こう」と決めていたので、高校は大商学園高等学校へ進みました。
ーー当時の夢は?
バスケをしていたので、やっぱりアメリカに行きたいと思っていました。当時は日本にプロリーグもなかったですし、「バスケ=NBA」という時代でしたから。
ただ、当時はまだ「NBAに行きたい」というよりは、「アメリカでバスケをやってみたい」というくらいの漠然とした憧れでしたね。
ーー高校卒業後にネブラスカ大学へ進学されたのは、その夢を叶えた形ですか?
いや、その夢も時間が経つにつれ忘れていたんです。大商学園に入った頃には、アメリカに行きたいという気持ちは完全に薄れていました。
だけど、バスケ部のキャプテンだった1つ上の先輩が「俺、卒業したらアメリカに行くわ」と言い出して。それで僕も「そんなことできるの?」と思って調べてみたら、私学に進学するのとそれほど変わらない費用で行けることが分かったんです。
生活費は自分でなんとかすることが前提でしたが、「それなら行けなくはないな」と思って、僕も卒業後はアメリカへ渡ることにしました。
ーー先輩と同じ大学に進学されたのですか?
いえ、先輩はニューハンプシャー工科大学に進んだのですが、僕はとにかくお金がなかったのでまずは英語の専門学校に1年間通って、その専門学校の提携校の中でできるだけ学費の安い、いちばん小さな大学だったべレビュー大学を選びました。だからバスケ留学というよりは単純に進学と言った方がイメージとしては近いかもしれませんね。
ちなみに、そのバスケ部の先輩は吉本泰輔さんといって、今回バスケットボール男子日本代表のアシスタントコーチに就任された方です。彼は大学以降もアメリカに残ってNBAでコーチを務め、今年から代表スタッフ入りされています。
ーー失礼な質問かもしれないのですが、そういった状態で進学されて、すぐにアメリカでバスケに打ち込むことはできたのでしょうか……?
いや、まさにその通りで、全然できませんでした(笑)。当時の僕は、アメリカに行って初めて「チームに入るためにはトライアウトを受ける必要がある」ということを知るくらい、何も分かっていませんでしたからね。
最初に入ったベレビュー大学では、何も分からないままコーチに「バスケがしたいからチームに入れてほしい」と拙い英語で直訴したのですが、当然「入部にはテストがある」と断られて。それでも入れてくれと言い続けながら、練習を見学していました。
ーーアメリカの大学バスケットボールは次世代のスターたちがしのぎを削るような世界ですよね。トライアウトも相当厳しいと聞きます。
そういうことを何にも知らずに飛び込んじゃったんですよ。本当、今考えると恐ろしいですよね(笑)。しかも僕はネブラスカ大学のバスケ部で初めての留学生だったんです。4万人ほどの小さな町でしたが、試合になると5000人は入るような盛り上がり方でしたから、今考えるとすごい環境の中に飛び込んでいったなと思います。
アメリカに来てから1年半後にようやくトライアウトを受けさせてもらえたのですが、落ちてしまいました。さすがにその時は「自分は何をしにアメリカへ来たんだろう」と思いました。そこから自分で調べて、より大きな大学であるネブラスカ大学カーニー校に転校したんです。
だけど、そこでも最初の年はテストに受からなくて、ようやくチームに入ることができたのは、アメリカに来て3年目のことでした。
ーー3年間、誰かの指導のもとでの練習無くトライアウトに合格されたこと自体がすごいことだと思います。ずっと個人練習だったそうですが、どのような練習をしていたんですか?
大学生同士で遊びのバスケみたいなことをすることはありましたが、基本はひとりで練習していました。公園等にリングはありますし、体育館も夜は使えるので練習場所には困りませんでしたから。
ーー大学で3年間プレーしている選手たちは、毎日対戦相手がいて、実戦形式の練習を重ねたうえでテストを受けるわけですよね。個人練だけの3年間で本当によくぞ合格できたなと。素晴らしいです。
本当ですよね、自分でもそう思います(笑)。1年目のベレビュー大学ではとにかくがむしゃらにやって失敗して、次のネブラスカ大学カーニー校でも最初は落ちて。3年目はトライアウト前に練習時間を確保するのも大変な状況でした。
ーー生活費も自分で賄いつつ、たったひとりで練習に打ち込む。きっと私たちの想像が及ばないほど大変な日々だったと思います。
辛いとは思わなかったんですけど、何もかもが記憶に残らないくらい忙しかったです。週7で働いていましたからね。仕事は大学の食堂で皿洗いや配膳。それ以外の時間は寮の掃除。2つのアルバイトを掛け持ちして生活費を稼いでいました。
練習が終わったらすぐ食堂へバイトに行くんですけど、働いていたらチームメイトが食べに来るんです。その皿洗いのバイトをやって、その後は図書館で勉強ですよ。本当にバスケとバイトと勉強だけの孤独な生活でした。
ーー「とにかくバスケットがしたい」、その気持ちだけで続けていた?
そうですね。トライアウト前の夜間はバイトが終わったら電気を消された真っ暗な体育館の中でスライドやディフェンス練習、走り込み。忙しすぎて、「自分は何をしに来たんだっけ、バスケットをしに来たんだよな」という思いはずっとありました。
実家も決して余裕があるわけでは無いなかで頑張って送り出してくれていることも分かっていたので、「頑張らないといけない」という気持ちもありましたし。
ーー3年目に合格した時は、「合格」と言われたんですか?
いや、それがわかりやすく「合格!」とは言われないんですよね。「とりあえず1か月一緒にやってみようか」みたいな言い方をするんですよ。で、練習を続けて、気付けば開幕戦当日を迎えていたような感じです。
ーーそれは開幕戦までの間に「来なくていい」と言われなければチームに入れたということになるのでしょうか。
そうです。開幕戦当日にロッカールームに行ったら自分のユニフォームが置いてあって、「あ、入れたんだ」という感じでした。
ーー選手としてチームで2年間を過ごされましたが、その中で特に印象に残っていることは?
実は僕、バスケ部に入る前は女子チームの練習相手なんかもしていたんです。練習相手がいなかったので。チームでいちばん小さいしアジア人だし、正直リスペクトはされていませんでした。でもバスケ部に入った瞬間、手のひらを返すように周囲の態度が変わったんですよね。
「すごいな!」「マジで入ったのか⁉︎」と、一気にみんなが応援してくれるようになった。あの潔さというか、認められたら一気に評価が変わる感じは、「アメリカだな」と思いました。
ーー認められると早い、ということですね。
そうですね、本当に早かった。それと、大学のコーチとの出会いは僕の人生において本当に大きかったです。
指導方法というよりは、伝え方や接し方といった部分が素晴らしかった。ミスをした時の接し方や、なぜ大学の試合前に国歌斉唱があるのかといったことまできちんと説明してくれる姿勢が、すごく印象的でした。
ーー日米でのコーチングの違いを感じましたか?
かなり大きなギャップを感じました。誤解のないように言うと、日本で小・中・高とお世話になった恩師の方々は、今でも全員大好きですし、心からリスペクトしています。ただ、指導方法は日米でまったく違いました。
特に衝撃的だったのは、ミスへの向き合い方です。ミスそのものを強く指摘するのではなく、ミスをした後にどう切り替えたか、その行動に対して声をかける。そこがまったく違いました。
ミスをした瞬間に「今ミスしただろ!」と強く言われれば、選手は萎縮してしまいますし、「怒られる」という意識が先に立つので、思考が止まりやすい。
一方で、ミスをしてもすぐに切り替えてディフェンスに戻った行動に対して「ナイスディフェンス」「よく戻った」と声をかけられたとします。すると選手の意識は次のプレーに向きますし、自分で工夫しようとする余白も生まれる。
これは単なる言い方の違いだけではなく、その前にどれだけ関係性ができあがっているかが重要です。時間の長さではなく、どれだけ密度を高められるか。その積み重ねがコーチングの質を左右するのだと思いました。
2勝50敗から20勝へ 背水の陣で挑んだ2年目の覚悟

ーー大学卒業後は日本に帰国されましたが、アメリカに残ることは考えなかったのですか?
僕はバスケをするために渡米していたし、実家も経済的に大変な中でアメリカに行かせてもらっていたので、4年やって試合に出られなければ、それ以上は違うと自分の中で決めていました。区切りは最初から決めていたので、卒業後もアメリカに残ろうという気持ちは無かったです。
それで、大学卒業前の夏休みから日本での就職活動を始めました。当時は一時帰国して、アメリカで知り合った東京出身の先輩のご実家にお世話になりつつ就活をしていました。
結果、ヒューマンアカデミー株式会社の東京本部で営業職として採用していただき、その後一旦アメリカに戻って大学を卒業。日本に戻ってきてから、大阪で研修を受けることになりました。
東京採用だったので東京での勤務になる予定だったのですが、当時顔を出していた東京のクラブチームの方が大阪にあるヒューマンアカデミーのバスケットボールカレッジでバスケを教えている方と繋がっていて、「前田がヒューマンに入ったけど東京勤務らしい」と話が伝わり、バスケットボールカレッジのある大阪勤務になるよう動いてくださったことで大阪で働くことになったんです。大阪での仕事は1年半続けました。
ーーとは言え、入団から3年後にはヘッドコーチに就任されていますよね。
僕、チーム内でとにかく働きまくっていたんですよ。役職も何も関係なく、スクール指導やクリニックなど、メイン業務以外のこともたくさんやっていました。
そのうちクラブの運営がかなり厳しい状況になり、「ヘッドコーチをやる人がいない」という話になったタイミングで、「前田やってみないか」と話をもらったんです。
ーー2011年当時、入団3年目の28歳。自身としても不安な面もあったのでは?
それはもう!アシスタントコーチを3年やっただけで、経験もベースもない状態でしたからね。それでもヘッドコーチを引き受けたのは、誰もやる人がいないし仮に誰かが新しく来たとしても途中で逃げちゃうんじゃないかなと思ったから。「だったら自分がやるしかないか」という気持ちでした。
スクールで子どもたちを教えていましたし、クラブがかなり厳しい状況だったことも分かっていたので、大きな期待があったわけではありません。本当に正直にいうと自分も不安だったし、「大丈夫かな」と思いながら引き受けた形でした。
ーー引き受けた背景として、責任感も大きかったのでは?
そうですね、最終的には責任感で決めました。
本当に手作り感満載で運営していたクラブでしたが、だからこそ愛着もあった。みんなと一緒に働くことが楽しかったですし、この人たちのために頑張りたいという気持ちだけは強かったので、それなら自分が頑張ろうと思ったんです。
ーーHC就任初年度の成績はとても厳しいものだったそうですね。
初年度は2勝50敗でシーズンを終えました。
ーーとても苦しい1年だったと思いますが、その結果の原因は何だったと考えますか?
今振り返ると、やっぱり原因は僕にありました。
あのシーズンは本当にいびつで、クラブとしても、組織としても弱かったのは事実です。でも、それにしたってもう少しやれたんではないかと、今は思います。
当時も毎日、ひたすら「どうやったら勝てるか」だけを考えていたんです。でもヘッドコーチとしての経験値があまりにも無さすぎるから、思考の幅が狭いんですよね。だから今思えば、「全然考えるところが違っていたな」と思います。
ーーそんな状況で迎えた2年目、大きく変えたことは何だったのでしょうか。
自分自身のあり方ですね。
まず、2年目があること自体が奇跡みたいなものだったんですよ。
28歳で未経験のヘッドコーチが2勝50敗。それでも続投させてもらえたわけですが、もし2年目も失敗したら自身のキャリアは終わるという覚悟はありました。
その状態で2年目を迎える時に思ったのは、「どうなるにせよ、後悔はしたくない」ということ。1年目はかなり肩に力が入っていて、「監督らしく見せなければいけない」と思い込み、ステレオタイプな監督像を追いかけていたんです。
でも、もうそれはやめようと。自分は何も分かっていない。だったらフラットな自分でヘッドコーチをやろうと決めました。
1年目は選手に対しても一方的に話すことが多かったと思います。でも2年目は、相手の気持ちを考えながらコミュニケーションを取ることを意識しました。
自分はコーチで選手はプレーヤー。でも役割が違うだけであって、上下の関係ではない。そのままの自分で、人ときちんと向き合うことに全振りしたんです。
ーー結果、2年目は20勝でシーズン終了。たった1年でこれは驚くべき変化ですよね。
本当に大きな成功体験でした。何がいちばん良かったかというと、「自分らしくやったうえで結果を残せた」ということです。
1年目は自分の中の「監督らしい監督」のイメージを追いかけていました。でも2年目は、自分らしく自然体で向き合うことができた。結果ももちろん嬉しかったですが、その形でやり遂げられたこと自体が僕にとって大きな経験でしたし、気持ちもかなり楽になりました。
ーーその後、3年目にはさらに23勝と勝ち星を上げることができました。実はその時点で秋田からのオファーを受けていたそうですね。
そうなんですが、当時はまだ「高松で自分は結果を出せていない」という思いが強かったので、一度お断りしていて。翌年チームをプレーオフに出場にまで持って行けたこと、さらに再度お話を秋田からいただけたことで、移籍を決めました。
決断の先にあるもの 公私ともに秋田と歩んだ11年

ーーそして、その後11年間を過ごすこととなる秋田ノーザンハピネッツへと移籍。改めて、本当に長い間お疲れ様でした。この11年間で、最も印象に残っていることは何ですか?
いちばん印象に残っているのは、やはりCSに進出できた時のことですね。結果という意味でもそうですが、それ以上に、秋田の街が盛り上がったあの感覚が何より印象に残っています。街全体が熱を帯びたような雰囲気、あれは本当に忘れられないですね。
生活の中で熱を感じる感覚というか、「頑張ってね」「よくやったね」と、あらゆる場所で声をかけてもらえるし、街の中で自然とそういう言葉が耳に入ってくる。秋田って、そういう場所なんですよね。
先日もなまはげの行事に行ったんですけど、なまはげをやっている方が僕に気付いてくれて。「悪い子はいねぇが」と言うはずが「お父さんの言うことよく聞けよ」、「よく頑張ったな」と背中を叩いてくれたりして。「秋田ってなんて場所なんだ」と思いました(笑)。
そうやってたくさんの人が僕たちを気にかけてくれていること自体ものすごくありがたいですし、この場所でやってきて良かったなと、改めて思いました。
ーー生活の中にクラブが入り込んでいる。秋田は人の結びつきが強い場所なんですね。11年前に赴任された時には、ここまでになるとは思っていなかったのでは?
そうですね、まったく想像していませんでした。
きっかけとして大きかったのは、日本代表スタッフになったことかもしれません。秋田のチームに所属しているヘッドコーチが日本代表スタッフに選ばれて、そのままオリンピックにも行った。その流れを、秋田の方々が本当に喜んでくれました。
きっと「うちのチームからオリンピックへ行った」という感覚を持ってくださっていたんだと思います。
ーー秋田に移られてから、ヘッドコーチとして大変だったことは何ですか。
やはり、期待値がどんどん上がっていくことですね。
CS進出など、ある程度の結果を出せたり成績が少しずつ上がってきたりすると、当然周囲の期待も上がります。でも内情は決してイージーな状況ではない。その状態を期待値にどうやって近づけていくか、という戦いでした。
ただ、それは「苦労」というよりもチャレンジに近かったので、楽しさもありました。
だからヘッドコーチとしてはやっぱり今シーズンがいちばん苦しかったかもしれません。自分が表現したいことがうまく表現できない。チームとしても、組織としても、もう少しできたのではないかという感覚がありました。
でも、自分としては11年同じチームのヘッドコーチをやってきたからこそ見えている部分もあると思っています。秋田ノーザンハピネッツというチームがここから上がるにせよ落ちるにせよ、僕のポジションが変わらないと変化は起きないと強く感じました。
ーー悔しさは残っていませんか。
まったく残っていません。常にやり切った感覚がありますから。自分ができる最善を尽くした結果なので、後悔はないんです。
ーーそう思えるのは、毎日やるべきことをやってきたからこそなんでしょうね。
そうですね。後悔しても仕方がないじゃないですか。だから「あの時こうしておけばよかった」みたいな感覚もあまりないんです。
勝てずに仕事を失ったけど、でもそんな自分がここからどう立ち上がるのか、どう向き合うのか。それが少し楽しみだし、この状況を面白いなとも思っているんです。
ーーそんな気持ちでいることに、周りの方が驚くのでは?
そうなんですよ、今日スーパーで会った方も僕の姿を見て、「元気ですね⁉︎」と驚いていました(笑)。きっと落ち込んでいると思っていたんでしょうね。
ーー秋田の方々と11年間で築いた人間関係は、本当にかけがえのないものですね。
本当にそう思っています。秋田での11年で、本当にたくさんの人と関わることができました。この場所で過ごした時間は素晴らしいものだったと思っています。
ーー先ほど少し話に出た代表チーム活動なのですが、最初に代表スタッフ入りしたのは秋田在籍中の2018年9月、ワールドカップ2次予選からでしたよね。サポートコーチ兼通訳という立場だったと思いますが、どんな流れで声がかかったのでしょうか。
もともとは伊藤琢磨さんが通訳兼サポートコーチをされていたのですが、彼がアメリカに行くことになり、「後任を探している」という流れで僕に話が来ました。
選手歴もなければ、コーチとしての大きな実績もない、いわゆるノンキャリアの人間があの場に入るのはおそらく初めてに近いことだったのではないかと思います。
ーーそこから少しずつ信頼を得ていったわけですね。代表活動でも、やはりコミュニケーションを大事にされていたのですか。
コミュニケーションはかなり意識しました。正直、バスケットよりもコミュニケーションのほうがメインだったくらい。当時ヘッドコーチを務めていたフリオ・ラマスさんとずっと生い立ちの話をしたり、トレーナーの方々と雑談をしながらチームのことを聞いたり。とにかく会話することを心がけていました。
ーーそれは自分を知ってもらうためというより、相手を知るため?
完全に相手を知るためです。正直、誰も僕には興味がないと思っていましたから、自分を売り込もうという気持ちはゼロでした。それよりも「自分に何ができるのか」がいちばん大きかったです。通訳以外の部分で、このチームに何をプラスできるのか。それを探していました。
代表は日本バスケットボール界のトップにいる人たちが集まる場所です。「自分はこれができます」と言うよりも、「自分に何ができるだろう」と考えて、話を聞き続けていました。
ーークラブチームとは雰囲気も違いましたか。
まったく違いました。毎日がトライアウトのような空気なんです。選手たちも、本来なら休める期間に集まって、競争に晒されて、心身を削られながら大会を迎える。体力的にも精神的にも張り詰めた状態だったと思います。
どれだけのトップ選手であっても、部屋に呼ばれて「ここまでです」と言われるかもしれない世界。それは思っていた以上にシビアなものでした。
ーー前田さん自身はその空間に息苦しさを感じませんでしたか?
僕は大丈夫でした。むしろアメリカに行っていた頃の感覚がよみがえりましたね。「日本人として、日本を背負って戦う」という感覚です。アメリカにいた時も、日本人としてのアイデンティティを強く感じていましたが代表では、それがより明確になりました。
ーー充実した代表活動を送られていたようですが、出産への立ち会いや、家庭の事情で活動を離脱したタイミングもありましたね。
一度目は、出産の時期と大会のスケジュールが重なったときですね。「妻の出産が試合日程と重なっているので参加は難しい」と監督に伝えたところ、「ギリギリまで待つよ」と言ってくれて、結果的に子供がちょっと早く産まれてくれたことで間に合いました。
ワールドカップの年は、ちょうど僕がクラブでヘッドコーチ1年目にあたる年だったので、ラマスさんから「そちらを優先しなさい」と言われ、参加しませんでした。
その後、オリンピックに帯同し、ヘッドコーチがトム・ホーバスさんに代わって一緒に動き出したタイミングで再度代表活動を離れることとなりました。
悲しみに埋もれないと決めた父親の覚悟。生き様を見せるという選択

ーー奥様のご病気が見つかったのは、前田さんがCSから帰ってきてすぐのことだったそうですね。
病気が判ってから、4か月後に亡くなりました。妻の母も彼女と同じ病気で亡くなっていたので、彼女の病気が発覚した時に、「ヘッドコーチを降りる」と伝えたんです。
ーー奥様のご病気が発覚してから亡くなられるまでの4ヶ月間、前田さんはヘッドコーチを休養して共に奥様の病気と戦われていましたね。
4ヶ月っていうのも結果ですからね。病気が判るまでは、本当に元気だったんですよ。
発覚したきっかけも、「最近お腹が詰まる感じがあったんだけど、なんか膨らんできた」とか言うから「お腹膨れるのはおかしくない?」って病院に連れて行ったんです。それが5月。当初は彼女も治す気満々だったけど、7月くらいから徐々に調子が悪くなって、9月に亡くなりました。だから本当にあっという間だった。
最初は僕も、看病をしながら仕事を続けるつもりでした。でも、すぐに「これはよくないな」と思ったんです。正直、ヘッドコーチとしての仕事が手につかない状態でしたから。
それで5、6月頃に社長に「ヘッドコーチを辞めます」と伝えたのですが、社長が「一度仕事を全部ストップすればいい。待っているから」と言ってくださって。そこから完全に仕事から離れた状態での闘病生活が始まりました。
ーーヘッドコーチを離れるとなった時に、チームのことや家族のことなどいろいろなことを考えられたのでは。
考えました。だけど、その時に「自分の中でのいちばんはバスケットではなく家族だったんだ」と気付いたんです。妻とバスケットを天秤にかけた時、「バスケットを辞めよう」と迷わず思えました。だから社長に辞意を伝えた時も迷いはありませんでした。
もちろん、チームを引き受けてくれたコーチ陣にはとても感謝しています。でも妻のことはやっぱり自分の中では別次元の問題で。その時僕の頭にあったのは、残された時間を家族と過ごすこと、それだけでした。
ーータイムリミットを意識しながら過ごす時間の気持ちは、経験したことのない者からすると想像を絶するものだと思います。
当時もよく「辛いでしょう」と言われましたが、だけど実はあの期間、僕はとても幸せだったんですよ。
もちろん毎日泣いていました。在宅での看護だったんですが、週に一度先生が来て「余命はあとどれくらい」みたいな話をするわけです。その度にものすごく感情が揺れるんですけど、だけどもう本当に最後が近づいてきた時には、いろんな感情を超えて、当たり前だった時間すべてが貴重な時間に感じ始めて。
最後の方、妻がトイレに行く時は僕が支えながら連れて行っていたんですけど、うちの家って廊下がちょっと長いから、彼女を抱えながらゆっくり歩くんです。その時いつも、「なんだか結婚式の時のバージンロードみたいだな」って毎回思っていて。
あの時こんな話をしたな、こんなことがあったなっていちいち思い出しながら……。本当に終わりが近づいていることは分かっていたけど、でもそんな時ですら、ただ隣にいるだけで幸せだなと感じていました。
僕ね、病気になる前も妻のことを大好きだって思っていたんですよ。妻にも毎日「好きやで」って伝えていましたし。だけどこの期間は、それまで「好きだ」と思っていた気持ちが「愛している」だったんだと解った時間になった。何も考えず、ただ彼女にすべてを捧げられる。それがこんなにも幸せなんだと知りました。
それに、あの期間は僕や家族から妻への愛だけじゃなく、周りにいる人たちみんなに僕達家族は支えられて、たくさんの方の愛に包まれて生活していました。
僕の兄と叔母も僕たち家族をサポートするために秋田まで駆けつけてくれました。特に兄は大阪での仕事を辞めてまで来てくれて、とてもありがたかったです。「家族っていいな」と思いました。
僕はずっとバスケ中心で生きてきたので、これほど長い時間を妻と過ごすこともなかったですし、周りにここまで支えられていると実感することもなかった。悲しみはもちろん常にありましたが、とても濃い、良い時間を過ごすことができたと思っています。
ーーお子さんたちに対しては、どのような思いでいらっしゃいますか。
妻が亡くなる当日の朝、僕から「本当にここまでよく頑張った、もうこれ以上苦しまなくていいよ」と、薬を入れたらもう意識が無くなると話した時に、彼女は僕に「ありがとう、大好きだよ。あとは任せるよ」と言ったんです。
その後に子供を集めて、彼らには「母親がいてもいなくても関係ない。自分の人生を生きなさい」と伝えていました。
妻自身も母を早くに亡くしていて、自身の母親像が無いまま母になったことのコンプレックスや苦しみもあったと思います。それでも自分の人生を一生懸命生きようとしていた。
そんな彼女を見てきたからこそ、僕も悲しみに埋もれて、元気を無くして、好きなことを辞めて生きる姿は子供たちに見せたくないと思いました。
悲しみはずっとあります。でも、それを抱えながらも楽しく幸せに生きられる姿を子どもたちに見せたい。それが、今僕が頑張れるいちばんの原動力になっているのかもしれません。
ーー前田さんの言葉からは、子供たちと愛情を分かち合いながら共に強く生きようという覚悟を強く感じます。
妻が亡くなってから、街で誰かの「お母さん」という存在を目にするたび、やっぱり子供の心情を考えてしまう瞬間があるんですよね。
でも、彼らには悲しみに引っ張られてほしくないんです。どんな状況であっても人生を楽しむことはできるし、幸せを感じることもできる。僕はそれを彼らと一緒に体感しながら、生きていきたいと思っています。
もちろん子供に対してイライラすることだってあるし、毎日四六時中笑顔で「褒めて伸ばす育児」が理想だけど、そんなの無理じゃないですか(笑)。
だからこそ、人間らしい姿を見せていこうと決めました。怒る時は怒るし、悲しい時は泣くし、嬉しくても泣く。子どもたちには感情も生き様も隠さず見せたいんです。
ーーそんな前田家を、秋田の皆さんはじめ、たくさんの方が応援していると思います。
妻が亡くなった時、社長にお願いして葬儀の日程を公表させていただいたのですが、何百人ものブースターの方が葬儀に来てくださいました。僕をずっと陰で支えてくれていた妻に、最後にきちんと光を当てたいという思いを汲んでくださった社長にも、共に悼んでくれたブースターの皆さんにも、本当に感謝しています。
その後、オリンピックに帯同し、ヘッドコーチがトム・ホーバスさんに代わって一緒に動き出したタイミングで再度代表活動を離れることとなりました。
応援とは、誰かのために頑張れる力を引き出してくれるもの

ーー現在の前田さんは、日々どのように生活なさっているんですか?
朝起きて、今は寒い時期なので薪ストーブに火をつけます。朝ごはんを何にしようか考えながら作って、子どもたちを送り出します。その後やる事はその日によって違いますが、なんだかんだ忙しくしています。
毎日いろんな方に会いに行って話を聞いたり、さまざまな施設に連絡を取ったり。今は時間があるので、就職活動もしています。
あとは、『COACHING LAB』という勉強会を立ち上げました。加えて、『ARIGATO PROJECT』という、秋田の子育て支援プロジェクトも始めています。これは秋田への恩返しのつもりで始めたのですが、勢いで発信したら意外と反響があって。そんな感じで何かと毎日バタバタしています。
ーー次のコーチングラボのテーマは「家族は世界最小、世界最強のチーム」。たしかに家族はひとつのチームとして捉えられますよね。
妻がいた頃から、家族にはそれぞれ役割があると考えていて。僕は今4歳の四男にも、彼なりの役割があると思っているんですよ。それぞれが役割を持ちその中でどう機能するかって部分では、チーム作りとよく似ているなと感じています。
ただ、家族のほうが振れ幅は大きいんですよね。最強にもなれるし、最弱にもなれる。そもそもチームは人を入れ替えられますが、家族はそうはいきませんからね。
ーー家族には明確なゴールがあるわけではないですしね。
そうなんですよね、バスケのように「CS優勝」みたいな明確な目標があるわけでもない。
ただ、仕事のチームは終われば離れますが、家族は常に一緒です。だから大事なのは大きな会社に入るとか収入を上げるとかではなく、お互いを思い合えること。それがいちばんだと思っています。
そのためには、困っている、悲しい、楽しかった、そういった感情をフラットに話せる関係であること、お互いがお互いを頼れて家が安全地帯になること、外で頑張るぶん家では無理をしなくていいと思えることが重要なのかなと。
アメリカに留学した時のコーチングの話を最初の方で少ししましたが、あの時感じたことって、子供たちと向き合うときも同じなんですよね。
いつもとの違いに気づけるか。少し荒れているとき、その変化をキャッチできるか。その瞬間にこちらが一度手を止められるか。そして適切なタイミングで声をかけられるか。
そこが関係性を左右するポイントだと思っています。
ーーバスケを通して学んできたことが、家族というチームの中でも活きているんですね。
そうかもしれません。バスケは僕に「人との向き合い方」を教えてくれました。
今取り組んでいる『COACHING LAB』や『ARIGATO PROJECT』も、誰かと向き合うことが原点にあります。
ーー『ARIGATO PROJECT』は、これまで助けてくれた方々への恩返しとして、秋田の子育て支援に役立ててほしい思いで取り組んでいると仰っていましたよね。
そうなんです。大変な時期に助けてくださった方々へ何か恩返しをしたくて。この間全3回の活動が無事終了したのですが、参加者はのべ2154名、総額126万5900円もの大きなプロジェクトとなりました。
子育てってすごく大変だけど、でも家族からもらう力は特別です。秋田で学んだ生き方や、自分の子育て、考えていることをお話して、その参加費としていただいたお金を秋田の子育て支援に使っていただきたいなと。これからいくつかの団体に寄付させていただこうと考えています。
一緒に同じ時間を過ごしてきたからこそ届くものがある。今改めて、自分にできること、伝えられること、やるべきことを考えています。

ーー最後に、前田さんにとって「応援」とは何ですか。
モチベーションですね。応援されればシンプルに嬉しいし、力になります。
バスケにおいても、正直に言うと、僕個人としては試合に勝つこと自体にそこまで大きな感情はないんです。試合という性質上、勝ち負けは必ずどちらかに転ぶものですから、それにいちいち一喜一憂していられないという気持ちもあります。
だけど、応援してくれている人たちや、選手、スタッフ、フロント陣が喜んでいる姿を見られることは、めちゃくちゃ嬉しいんですよ。
Bリーグもこの10年少しで大きく環境が変わりました。今はどこに行ってもすごくたくさんのお客さんが入った満員の会場でたくさんの応援を受けながら試合がやれている。本当に幸せで、ありがたいことだと思います。
自分のためには、それほど力が入らないこともあります。でも、こうやって応援してくれている人たちの喜ぶ顔が見たいと思うと自然と力が湧いてくる。
応援とは、誰かのために頑張れる力を引き出してくれるものだと思っています。
