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江原騎士
KNIGHT EHARA
STORY

落胆の声、歓喜の声、すべてが僕を前に進める

2016年リオデジャネイロオリンピック競泳銅メダリストという輝かしい成績を持つ江原騎士選手。 幼少期から記録に伸び悩むことも無く、一見「天才肌」にも見える彼。しかしその功績のすべては、水泳選手としては不利な体格の差を埋めるため重ねた努力と分析の賜物だった。 ときにフィジカルが結果へ直結する厳しい競泳の世界で、彼を支えたものは何だったのか。大きな怪我や初めての挫折を経て、今年5月には水泳アジア大会日本代表への復帰を果たした彼に、泳ぎ続ける理由を聞いた。

Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga

Photo / Naoto  Shimada


水泳、学業、習い事。多忙を極めた小中学生時代

ーー江原さんが水泳を始められたのはかなり小さな頃とお聞きしたのですが、ご両親は習い事に対して積極的なタイプだったんですか?

江原:僕は両親にとって遅くに産まれた長男だったので「子供にはいろいろなことを経験させたい」という気持ちが特に強かったようです。だから習い事は幼い頃からたくさんさせてもらいました。

水泳を始めたのは生後10ヶ月の時。小児喘息を持っていた僕を心配した母が「健康のために」と習わせたのがきっかけです。父もサッカーをやっていたし母も体を動かすことが好きで、両親ともにスポーツには慣れ親しんでいたのですが、水泳に関してはそれこそベビースイミングを始めるまでは完全に無縁だったので、さほど熱心に継続を勧められていたわけではなかったんですよ。

ーー乳幼児だと水を怖がる子も多いと思うのですが、当時から水への恐怖感はまったく無く?

江原:幼児はコーチや親とプールに入るんですけど、ほとんどの子が水を怖がって泣く中僕だけはキャッキャと笑っていたそうで、それには両親もコーチも驚いたそうです。もちろん自分自身にその記憶は無いんですけどね(笑)。

小学校1年生から選手コースで本格的に練習し始めて、4年生で初めて全国大会に出場した時には自分の頑張りで結果が出る楽しさを知りました。水泳は勝敗だけじゃなく、自己ベストタイムを更新していくことも大切です。そして、記録を縮めていけばどんどん大きな大会に出られるようになる。そうやって自分なりの目標を目指す過程の中で、水泳の楽しさを知っていったように思います。

ーー学校と並行して水泳をやっていたなら、子供ながらになかなか多忙な毎日だったのでは?

江原:幼稚園の頃から水泳以外にもサッカーや習字、陸上競技など、水泳以外にもいろいろ習っていたので、そこそこ忙しかったですね。15時半くらいに小学校が終わったら、みんなで校庭に出てサッカーをやって、17時頃に一旦家へ帰って、そのあとすぐに18時からのスイミングスクールに行って泳ぐ、といった毎日でした。

ーー友達と遊ぶ時間を作るのも大変そうなスケジュールですね。

江原:小学校の間はまだ放課後遊べていたのですが、中学に上がるタイミングでサッカーを辞めると遊ぶ時間は激減しました。小学校ではサッカーを通じた友達が多かったので、水泳1本に絞ったことでそれまでとは環境が大きく変わりましたね。

さらに中学からは勉強も怠らないようにと塾にも通っていたので、本当に忙しかったんです。学校が終わった後18時から21時くらいまで泳いで、その後23時くらいまでは勉強。きつかったけど、でも塾も自分が入りたいから入ったので、嫌だとは思いませんでした。両親が「自分が本当にやりたいことをやりなさい」という考えで、自由にやりたいことをやらせて貰える環境に身を置けていたのは、今思い返すとすごくありがたかったなと思います。

ーーとは言え、当時はまだ中学生じゃないですか。友達との時間が減ったことを寂しく感じたりはしませんでしたか?

江原:確かに、サッカーを辞めた時は「もう少しやっていたかったな」って思いが強くありました。水泳と同じくらいサッカーも好きで4歳から6年生まで続けていたし、和気藹々とみんなでチームスポーツをやれるのも楽しかった。

中学に上がったばかりの頃はまだ水泳に対してそこまでのプロ意識が無かったこともあって、サッカーをやっているみんなを見ては「楽しそうだな」って思ったりもしましたね。水泳の練習があったから、ひとりでの下校も多かったですし。

でも、受験を控えた中学3年生の時、水泳の全国大会で8位になれたことで、その意識は少し変わりました。3年生にもなると身体も発達してくるので、僕も気合いを入れて挑んだ大会だったんですけど、そこで初めて決勝まで残れたことで「頑張れば結果は自ずとついてくる」と実感できたんです。友達と遊べない寂しさや多忙なスケジュールの大変さもあったけど、結果が目に見える形として現れ始めたことで「水泳を真剣にやっていこう」という気持ちも強固なものになっていった気がします。

 

ウィークポイントを受け入れることで、磨くべき自身の強みが見えてきた

ーー江原さんは水泳選手として決して恵まれた体格では無いと思うのですが、幼少期から小柄な方だったのでしょうか。

江原:幼稚園や小学校低学年の頃はみんなより大きい方だったんですけど、小学校を卒業する頃には並ぶ順番も1番前になっていました。両親ともに小柄なこともあって、中学に入った段階でこれ以上身長が伸びる気配は無いと感じていたこともあり、「どうすれば体格の良い選手に勝てるか」を考え始めたのもこの頃です。

体格差は高校に入るとより顕著になってきました。食生活を見直したりもしてみたんですど、もともとあまり食に興味が無いうえ1回で食べられる量も結構少なかったので、その方向はあまり効果的ではありませんでした。その代わり、体力作りはすごく頑張りました。スイミングスクールに通うのも、友達みんなが親の送迎で向かう中、僕は行きの片道40分を走って通ったり。周りよりも体格で劣る分、ちょっとしたところで努力を積み重ねていくことが結果に繋がっていくと思っていたので。

両親も頼めば送ってくれるんですけど、送迎してもらえる環境が常にあるとは限りませんよね。仮にいつも送迎してもらっていたとしても、例えば両親に何か用ができて「今日は送迎できない」って言われたら自分で行くしかない訳です。「身体が小さいなら努力しなくちゃ勝てない」というのは、両親も感じていたと思うので、見守ってくれていたんだと思います。

ーー自身のウィークポイントを受け入れて、その差を埋めるために早い時期から努力していたことが、今に繋がっているんですね。

江原:逆に身体が小さいなりの武器もあるので、自分の武器となる部分を磨くことを重視しました。水泳で特に大事なことは、浮力を高めること、水の抵抗を減らすこと、推進力の3つ。掌が大きければパドルをつけたようにひとかきごとの推進力が高くなるので体格の良い方が有利ですが、身体が小さければその分浮力や水への抵抗値は少なくなります。だから「なるべく無駄のない動きを作って水の抵抗値を下げる」ということを、当時からすごく意識するようにしていました。

例えばクロールで手を水面に入れる時、鉛筆のように指を全て綺麗に揃えて入れるのと、バラバラの木の枝のように揃えず入れるのでは、後者の方が水の抵抗は大きくなりますよね。

フォームを人一倍気にして練習してきたことが実を結んだのか、徐々にぶれない動きを作ることができるようになって、いざ大会で結果を出せた時には、記者の方々に「教科書のようなフォーム」と新聞に書いて貰えました。すごく嬉しかったですね。

 

「江原くんの身体では短距離で勝てない」 立ちはだかったフィジカルの壁

ーー水泳に関する悩みがある時、相談する相手はコーチですか? それとも家族?

江原:フィジカル面やフォームで困ったときは、コーチや先輩方に相談してアドバイスを貰っていました。あと僕、速い・遅いに関わらず、いろんな選手の泳ぎを見てその人の特徴や強みを考えることがすごく好きなんです。どんな選手にもそれぞれ気になるポイントがあるので、他の選手の泳ぎを観察する中で、自分に合いそうなトレーニングやフォームがあれば取り入れていましたね。

ーー江原さんは、すごく研究熱心ですよね。

江原:子供の頃から探究心は強い方だったんですけど、当時は特に完璧主義だったように思います。自分の泳ぎも、家族に撮影してもらったビデオテープが千切れるほど何回も何回もスローやコマ送りで見直して研究していました。当時は何も言わなかった母にも、後になって「あの時のあなたのビデオの見方は尋常じゃ無かったよ」って言われたくらい(笑)。

当時も、人より綺麗に泳いでいる自信はあったんです。でもそれだけじゃダメで、体格が良い選手の泳ぎを見ては「これをこうしたらもっと速くなりそうだな」と考えていました。個人競技とはいえ練習中は何人かで一緒に練習するので、同年代の仲間から学ぶところは多々ありました。

研究の甲斐あって、高校2年のインターハイでは100m自由形で優勝できました。同じレースに出る選手の中には180センチ超えの選手も大勢いる中、当時の僕は身長167センチで体重も50キロくらい。短距離選手としては圧倒的に不利な体格でも結果を出すことができたので、「身体がまだ出来上がっていない状態でこの記録が出せる」という部分を評価して貰えて、大学からのお声がけもたくさんいただきました。

ーーその頃は自己ベストも毎年更新できていたそうですね。

江原:学生時代は毎年自己ベストを更新していました。ジュニアで伸び悩む選手はとても多くて、さらに毎年自分の記録を超えられる選手なんて滅多にいないんですけど、僕は伸び悩むことなくずっと更新できていたんです。

自己ベストを初めて更新できなかったのは、高校3年生の時でした。前年と同じ100mで出場したのですが、結果は確か5位くらい。1年で体格があまり変わらなかった僕と、1年でぐっと身体が大きくなった選手では、やっぱり記録も伸び方にも差が出てました。順位だけじゃなく、「去年の自分の記録を超えられなかった」ことも、とてもショックでした。

その後、大学で出会ったコーチにも「江原くんの身体では短距離で勝てない、世界を見据えて戦うなら、正直なところ厳しいと思う」とはっきり言われました。僕はそれまでずっと短距離に誇りを持っていたし、短距離=自分のスタイルだったんです。だから「小柄な自分が水泳をやっていくのは難しいのだろうか」と、この時はものすごく悩みました。

 

転機となった中距離への転向

ーーそれからどんな経緯で中距離に転向したんですか?

江原:まず大学1年時に、コーチの勧めで長距離をやることになったんです。それまでは短距離で100mや200m泳いでいたのが、いきなり1500mの距離を15、6分かけて泳ぎ続けるわけですから、同じ水泳とはいえ短距離とはまったく違う競技です。ですが、もともと探究心が強いこともあり、始めてみたら「現在のフォームを維持しつつ体力をつける」ということを楽しめるようになりました。

僕の中で、それまで「短距離=水泳の花形」というイメージがあったので、長距離への転向にまったく抵抗がなかったわけではありません。だけど、コーチの言葉を信じて長距離を始めてみたら、すぐに大会でも結果が出始めたんです。

実はこれがコーチの作戦で、後で聞いたところによると、「短距離で記録が伸び悩むと余計に身体が固くなってしまうから、まずは綺麗なフォームを崩さないまま長距離で体力をつけさせて、次の年からは中距離をやらせよう」と考えていたそうです。

その言葉通り、大学2年からは中距離を始めました。2年生の時点では、1年生の時に経験した長距離のおかげですでにある程度の体力もついていましたし、元来短距離のスペシャリストとしてやってきたので中距離でも前半誰より早く入れる自負もあり、体力面でもスキル面でも自信をもって中距離に入っていけました。そして結果として、大学2年で水泳アジア競技大会のシニア日本代表枠を勝ち取ることができました。

体格の問題でタイムが伸びなかったり、短距離で結果を出す難しさに悩んだりもしましたが、コーチの助言を信じて中距離で頑張ってきた結果、積み重ねた努力を開花させることができたと思います。

ーー記録に伸び悩んだ時、江原さんはどのような練習を行っていたのですか?

江原:タイムばかりを意識していると、どうしても精神的にキツくなってくるし、泳ぎも崩れてきてしまいます。だからタイムで伸び悩んだ時はまずフォームを見直して、綺麗な泳ぎを整えたうえでタイムを考えるようにしました。がむしゃらに泳いでタイムを縮められるような競技ではないので、体の力みを取って、フォームの狂いを無くしていくことを最優先に考えていました。

ーー私たちには「フォームの狂い」の想像がつきにくいのですが、選手であればすぐに分かるようなものなんでしょうか。

江原:例えば今僕がやっている200mという競技では50mを4往復するのですが、50mの中で水を何回掻くか、その回数が変わります。調子が良い時はしっかり水を捉えられるので35掻きで泳ぎきれるところ、体に力が入っていると同じように泳いでいるはずなのに、37掻きかかってしまうんです。

回転数が上がるほどスピードは出ますが、タイムが変わらないのに掻く回数が増えてしまっているということはつまり、掻く回数が増えている分単純に体力を消耗してしまうフォームになってしまっているということです。指1本の角度で推進力や抵抗は大きく変わるので、伸び悩んでいた時期はその塩梅や誤差を探るような練習をよくやっていました。

ーー記録の良し悪しは、泳いでいる最中に自身で解るものですか?

江原:大会だと息継ぎの時に隣のレーンで泳いでいる選手が見えるので、例えば前半は僕が先を泳いでいたはずなのに後半で隣の選手が僕より前にいるのが見えてしまって遅れに気付く、といったことはありますね。

自分の感覚だけでも、調子が良い時はすぐにわかります。「今日は水がすごく引っかかるな、身体がすごく軽い」と感じた日で記録が悪かったことは一度も無いですね。

身体が軽く感じる時って、自分がアメンボになっているような感じがするんです(笑)。 水面に自分の体を浮かせて泳ぐので、ちょっとでも身体が沈んでいると水を掻くために手を持ち上げた時、なんとなく身体にひっかかる感じがする。でもその抵抗がまったくない状態で泳げる時があるんです。

結果が必ずしもイコールになるとは限らないので「事前にわかる」と言いきることは出来ないんですけど、調子の良し悪しはアップの時に大体わかります。だから、なるべくアップでその日の自分のコンディションを測って、「今日はちょっと体が重たいから前半飛ばしすぎちゃうと後半バテそうだな」と思ったら、その日は前半を少し抑えて後半でちょっと上げていくような形で調整します。選手によっては自覚している調子と記録が反比例することもあるそうですが、僕はまず無いですね。

 

落胆の声と溜息の中ゴールした、リオ五輪選考会

ーー大会の時はたくさんの歓声の中で泳いでいますが、その音は選手の耳まで届いているんですか?

江原:スタート前であれば歓声もはっきり聞こえているし、なるべく全部聞こうとしているんですが、実はレース中は水の中にいることもあって、まったく聞こえないんです。

でも唯一、はっきり聞こえた時がありました。

リオオリンピックの、400m自由形の選考会。僕の記録がオリンピック標準記録に0.9秒届かなかったレースの時です。ラスト50mのターン時点で、自分の感覚的にも記録に届くか届かないかの瀬戸際だと感じたので、必死で頑張ったんですけどそのせいで最後バテちゃって。本当は顔を下げた状態でタッチしなくちゃいけないのに顔を上げてゴールしてしまったその瞬間、観客の方々の「あぁ〜〜〜」って声が聞こえて。その声で、僕自身も「あぁダメだったのか」と悟りました。

ーー普段はまったく聞こえないはずなのに。

江原:なぜかその時ははっきり聞こえたんですよね。後日そのレースの中継映像を見たんですけど、やっぱりその瞬間観客の方々から声が上がっていました。

ーー江原さんは、レース前はひとりで集中したいタイプですか?

江原:僕はなるべく力まないようにしたいのでいつも通りがいいですね。これも人それぞれで、力んで身体を固めたまま泳いだ方が泳ぎやすいという選手もいます。

オリンピック会場でも音楽を聴きながら集中して、息をフーフー吐きながら汗をかいて身体を固めて……みたいな方も多々目にしました。もちろんオリンピックのような大会だと国によって背負っているものがまったく違っているから、プレッシャーと戦っていたのかもしれませんが。

ーーと言うと?

江原:国によっては、メダリストになると兵役が免除されたり一生が変わるような大金を手にしたりといったことがあるので。でも逆のパターンもあって、海外選手でも本当にレース直前までずーっと雑談していて、「呼ばれたから行くわ」くらいのテンションで向かう選手もいました。実は僕も昔は音楽を聴きながら入場していた時期もあったんです。なんかその時はそうやって入ってくるのがカッコいいって思っていたところがあって……(笑)。

一同:(笑)

江原:でも僕の場合、そうやって過剰に集中しすぎるとより緊張感が増してしまうって途中で気が付いたんですよね。もちろん大会規模にもよりますが、基本的に僕は誰かと雑談しながらリラックスした状態で準備して、身体をゆるめたまま水に入って、要所要所で力を入れて泳いだ方がタイムも良いんです。だから僕は「集中するけど、集中しすぎない」を心がけています。

大会1週間前くらいから「あれを食べなきゃ、あの練習をしなきゃ」みたいなことばかり考えてストイックになればなるほど、負担になってしまう。それで睡眠不足になったり力んで疲れが抜けなかったりすると身体にもマイナスなので、普段と違うことはあまりしないようにしています。

ーー自然体が大事なんですね。

江原:だからレース前も誰かに話しかけてほしいですね。選考会だとみんなピリピリしていて誰とも喋れないんで、そういう時はさすがに僕も静かに集中していますけどね(笑)。

ーーここまでのお話を聞いていると、苦難はありつつも順調に進んできたような印象なのですが、その理由として江原さんが自身を俯瞰で見られることと、人の意見を素直に受け入れられることが大きいように感じました。

江原:山梨という落ち着いた環境の中で、邪念を持たず水泳に集中できていたからというのも理由のひとつのような気はします。最初は東京の大学を考えていたので、華やかな場所に行っていたらどうだったかな……(笑)。 大学進学時に「水泳をいちばんに考える生活をやってみて」とコーチに言われてその通りにしていたのが良い結果に繋がった気がしています。

あとは、父がずっと言っていた「我が道を歩め」って言葉を心に留め置いていたこと。座右の銘でもあるんですが、その言葉があったから、周りにあまり影響されたり比べたりすることなく没頭できたのかもしれないです。

 

東京五輪落選があったからこそ、今も泳げている

ーー「辞めたい」と本気で思うようなことは一度も無かったんですか?

江原:辞めたいと思ったことは一度も無かったかな。これも父に言われた言葉なんですけど、「辞めたいと思うのは、自分の中で他の何かと比較しているからだ」と。それがすごく心に残っていたのも、長く続けられた理由のひとつです。

あとは、やっぱり記録で伸び悩むことが少なかったから続けてこられたのかもしれないです。短距離から中距離へ上手く転向できてからはまた毎年自己ベストを更新し続けられるようになったので、辞めたいと思う理由も無かった。

記録を更新できるのは単純に嬉しいし、「何を追求すればもっと記録が伸ばせるんだろう」って考えるのも楽しくて。オリンピックという目標があって、そのための練習や考えることで忙しかったから、辞めたいと考える時間が無かったというのも正直なところです。

ーーそれだけ長く続けているということは、同時に仲間が辞めていくのも見続けてきたと言うことですよね。

江原:そうですね。記録が伸び悩んだり、続けるか迷っていたりする人に相談されることもありました。でも僕も正解はわからないんですよね。すごく努力をしているのに伸びない選手もたくさん見てきたし、何が正解でどれが自分にあてはまるかは自分の身体じゃないと解らない。だから、あまり役に立つ助言やアドバイスはできなかったように思います。

当時は「どうしてみんな伸び悩むんだろう」って思っていたんですけど、でも最近になって、僕もようやくその気持ちが理解できるようになりました。

自分の中に「辞めたい」という気持ちが初めて芽生えたのはここ数年のことです。

2018年に肩を怪我してしまったのですが、そこから自分のやりたいことが思うようにできず結果が出せない時期が続きました。怪我をした当初は、「結果を出したい、でも怪我も治さなくちゃいけない」という2つの気持ちの狭間ですごく焦りました。この悩みは今も続いています。改めて考えると、水泳を初めてから今がいちばん悩んでいる時期なのかもしれません。

ーーすぐに解決できる問題では無いかもしれませんが、その日々の中でどのように気持ちを整えて過ごされているのでしょうか。

江原:まだ模索中ですね。2018年から2022年まで4年間自己ベストを更新できていないんですが、4年間その状態というのは、正直これまでの記録も過去の栄光となっているも同然なんです。前のタイムや泳ぎ方に戻したいと思っても、4年も経てば自分の身体も泳ぎ方も変わっているので、それを踏まえて今自分がどうするべきなのか、その答えはまだ見つけられていません。

2018年に怪我をした後は、2020年の東京オリンピックに出ることを目標にしていました。東京オリンピックの選考会は、自分の思うように泳げないことに悩みつつ、それでもオリンピックを目指すと決意して環境を大きく変える為に所属先も変え、自分としてもかなりの気持ちを入れて臨んだ選考会でした。だけどそれも怪我を押して強行突破しようとした結果、出場が叶わなかった。

東京オリンピックを目指していた時は、東京オリンピックを終えたタイミングで引退することも考えていました。だから出られないことが決まった時は「本当にここで辞めよう」と思ったりもしたんです。だけど、東京オリンピックに出られなかったことで「これまで応援してきてくれた人達に、最後に良い泳ぎを見せてから引退したい」という気持ちがより大きくなっていることに気付きました。

 

「応援」に、僕は支えられ続けてきた

ーー自身の進退について、誰かに相談はしましたか?

江原:周りにも相談しました。と言うか、その時はもう人に頼らないとやっていけなかった。それこそ、このメディアのテーマでもある「応援」に、僕は支えられ続けてきたと思います。

水泳は個人競技なので、スタート台に立ったらそこからは自分だけの戦いだということはこれまでコーチにもさんざん言われてきました。実際レースで泳ぐのは自分なので、メンタルや身体が整っていないと記録には繋がらないし、自分のやってきたトレーニングや練習がレースに活きるので、その言葉は正しいと思うんです。

だけど、それが出来る環境を作ってくれたのは、間違いなく周りで応援してくれた人たちなんですよね。所属先の山本光学や、コーチ、友達や家族からの応援が、力を発揮する環境を生んでくれたと思います。

ちなみに、僕が進学する大学を決めた理由も「応援」なんですよ。何十校もの大学からお声がけをいただいた中で、最初は東京の大学に進むつもりだったんです。だけど、山梨学院大学の監督と当時のコーチに「これまで山梨から水泳男子のオリンピアはひとりも出ていない。だから自分達のもとから山梨県初のオリンピック選手を出したいんだ」と熱く語られて。「山梨の人達もきっと初めてのオリンピアになる選手を一生懸命応援してくれるはずだから、一緒に頑張りませんか」という言葉にグッとくるものがあったので、急遽進学先を変更して進んだのが母校である山梨学院大学なんです。

ーー進路を決めた裏には、そんな理由があったんですね。

江原:大学に入ってからは仲間もたくさんできました。「今日は調子が悪いな」と思っている大会でも、仲間からものすごい大声で声援を受けると、空気が震えて勝手に自分のスイッチが入る。「会場中に共鳴する声や叫びで奮起させてくれる応援ってすごいな」とはっきり実感するようになったのは、その頃からだったように思います。

 

大学最後のレースで僕が日本記録に到達するかどうかという時も、地元メディアの方々や一緒にやってきた仲間が本当にすごく応援してくれて、そのおかげで記録を達成することができました。あの時は感極まって自然と涙が出ました。自然と涙が出たのはこの時とリオオリンピックの選考会で出場が決まった時くらいじゃないかな。どっちもかなりのプレッシャーがかかっていたレースだったので、終わって緊張の糸が解けたのかもしれませんね。

 

ーーやはりオリンピック選考会のプレッシャーは相当なものなんですね。

江原:リオでメダルを取った競技は4人で行うリレーだったので、4ヶ月くらいみんなと衣食住を共にして練習を続けてきたうえでの選考会だったんです。選考会前にタイムを比較した際は4、5番くらいのタイムだったんですけど、「細かい部分を4人で調整していけば勝てるはずだから頑張ろう」って言い合って努力し続けて。無謀な挑戦だったかもしれませんが「絶対に勝ち取ろう」という気持ちで頑張りました。

僕以外の3人はオリンピック経験がある中、僕だけが初出場ということもあって、なおさら失敗できないなという気持ちもありましたね。団体だからこそのプレッシャーはすごく感じていました。

ーープレッシャーを軽減するために行っていることはあるんでしょうか。

江原:あまり競技のことばかりを考えすぎるとメンタルに影響が出てパフォーマンスも悪くなってしまうので、少し散歩をしたり映画を観たり、水泳のことを考えない時間を意識して作るようにしています。

でも、プレッシャーを楽しめるようになるのがいちばんなんですよ。難しいことだし僕自身もまだまだですが、プレッシャーを楽しめるかどうかを決めるのは、「自分がどれだけ練習してきたか」だと思うんです。

試合が楽しみになっていればおのずとプレッシャーもかからないはずなので、プレッシャーを強く感じているなら、それはまだどこかに不安があるから。下準備がちゃんとできていれば軽減できるはずなので、やっぱり日頃の積み重ねや自分がやってきたことがすべてですね。

ーー外からの応援がプレッシャーになるようなことはありませんでしたか?

江原:もちろんそれも無くはないです。出るからには記録を残してなんぼって気持ちで出ているし、記録や順位を目指すのが当たり前の世界。自分が応援してくれる方に対して最大限返せることは結果を出すことだと思っているので、やっぱり多少はプレッシャーに感じることもあります。

だから選考から漏れてしまった東京オリンピックの選考会後、所属先の会社へ挨拶に行った時には、自然と「(結果を出せず)すみません」と言ってしまいました。

だけど、それに対して返ってきたのは、「江原くんの中では結果がすべてかもしれないけど、頑張っている姿を応援させてくれたその過程だけでも社員の志気は上がったし、僕たちは「結果を残せ」という気持ちよりも、純粋に応援したいという気持ちが一番大きいんだよ」という言葉でした。

その言葉に報えるように僕はまだ結果を残したいし頑張りたい。だからこそ、まだ泳ぎ続けたいんです。

 

ここまで応援してくれた人に、恩返しできる泳ぎを見せたい

ーー最近ではどの大会を目標として練習をされているんですか?

江原:今は2023年8月に福岡で行われる予定の、世界水泳を目標に練習を重ねています。本当は今年行われるはずだったのですが何度か延期を繰り返していて、その度に体力・モチベーションを保ち続けるのはなかなか厳しいところでもあります。

でも、現在の自分にちゃんと向き合って今出来ることを積み重ねていたら、今回のアジア大会(2022年5月開催・第19回アジア競技大会)の代表に復帰することができました。厳しい状況にあっても、目の前のことをちゃんとやっていけば結果に繋がるんだなと改めて思いました。

少し話は逸れますが、僕が小学校の頃文集に書いた将来の夢は「オリンピックでメダルを取ること」だったんです。その夢はすでにリオオリンピックで叶っているんですね。オリンピックに出ることができて、さらに幸運なことにメダルも取れた。だからもう自分の競泳人生の目標は達成しているし、悔いは無いんです。でも最後に、ここまでお世話になった、応援してくれた人に恩返しできる泳ぎを見せたい。それが今の夢です。

今、僕は29歳。水泳選手としてはベテランに差し掛かる年齢です。この歳になってから、毎年毎年「辞めるのか、続けるのか」を考え、崖っぷちを泳いできているような感覚です。

もちろん僕よりも年上で活躍している選手はたくさんいますが、それでも怪我や年齢を重ねたことで身体も動きにくくなってきているこの状態から自己ベストを更新することの難しさも痛感しています。だけど、それでも諦めず、どうにか自己ベストへの道を見つけるために毎日頑張っています。

今はもう、自分ひとりの水泳じゃないんです。多分東京オリンピックに出られていたら「自分の夢は達成できたし辞めよう」って気楽に競技人生を終えていたかもしれない。でも両親を始め、応援してくれた方々に最後、大きな舞台で恩返しして競泳人生を終えたいんです。

だからまずは来年の世界水泳を目指します。そこに繋げることができれば、その先にパリオリンピックも見えてくるのかなと考えています。

ーー最後に、江原さんにとって「応援」とは何でしょうか。

江原:応援は僕にとっての「最大の力」です。

水泳は個人競技なので練習中もレースも基本はひとり。だけどそのすべての過程は応援してくれている方々が支えてくれているものだと思っています。

例えばコーチの指導も応援のひとつ。練習中、僕が挫けてヘロヘロになっている時に「頑張れ!」ってかけてくれるその一声のおかげで、ラストまで全力で泳ぎ切ることができる。レースで応援してくれる方の声援も、水泳に取り組める環境を用意してくれる所属先の山本光学にも、家族の存在も、全部無くてはならないもの。僕の競泳人生は、たくさんの方々の応援無しでは絶対に続けてこられませんでした。

僕にとって応援は、大切なものであり、自分を後押ししてくれる最大の力だと思います。