「武器の無い自分」から始まった挑戦 青野未来がリングに立ち続けて掴んだ、自分だけの個性
リングに立つプロレスラーとして、そして俳優として。ふたつの道を歩み続けながら、青野未来は今も自分の可能性を広げようとしている。芸能の世界から始まったキャリアは、思いがけずプロレスという新しい舞台へと大きく舵を切った。未知の場所に戸惑いながらも、求められる期待に背中を押されるように歩み続けてきた日々。その積み重ねこそが、今の青野未来を支える土台となった。
俳優として磨いた感性と、リングで培った覚悟。まったく違う世界に見えて、どちらも彼女の中でひとつに繋がっている。
会場に響く声援の力を知り、支えられてきた実感を胸に、彼女は今日もリングへ向かう。迷いと葛藤の先に見えた「自分らしいプロレス」を信じて。
Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga
Photo / Yoshitada Yamaoka
Interview date / 2025.11.26
欲しかったのは「自分だけの武器」 迷いながらも飛び込んだプロレスの世界

ーー現在、2026年1月3日に大田区総合体育館で行われる『マリーゴールド First Dream 2026〜初夢〜』での防衛戦を控えていらっしゃる青野さんですが、取材日の今は、すでに試合準備に入っている状況なのでしょうか。
そうですね。前哨戦もすでに組まれていて、「本格的に始まったな」という感覚です。
ーーこうした大きな試合、特に防衛戦のような重い一戦を控えている時期は、どのようなお気持ちで過ごされるのですか?
かなり長い期間、緊張感を持って過ごしています。だから試合の日が近付けば近付くほど、しんどくなってきちゃったりもしますね(苦笑)。
ーー以前拝見した青野さんのインタビュー記事で、ご自身の性格を「負けず嫌い」と話されていましたが、そんな青野さんでもやっぱり大きな試合の前はそれだけのプレッシャーを感じていらっしゃるのですね。
大前提として、試合はすごく楽しみなんです。だけど、それでもプレッシャーが強まって極限まで追い込まれるような心理状態の時は、逃げ出したい気持ちが出てくることもあります。もちろん絶対に誰にも言わないんですけどね。
ーー負けず嫌いな性格は子供の頃から?
子供の頃からずっと変わっていないと思います。スポーツが好きだったから、運動会も大好き。かけっこなどで競い合うことも好きでした。
ーー活発なタイプだったのですね。
私は埼玉県川越市の出身なのですが、当時通っていた保育園が、1年中半袖・半ズボン、裸足で過ごすことを推奨していたり、虫取りの時間もあったりするような園だったんです。
私は虫がすごく苦手だったので、お散歩の時間にみんなでイナゴを捕まえなきゃいけないのが本当に嫌だったのを覚えています……。
だけど、そうやって自然に慣れ親しんできたおかげで、活発にたくましく育ってこられたのかもしれません(笑)。
ーーその頃から、人前に出ることは得意な方でしたか?
得意ではなかったかもしれないけど、好きでしたね。ただ、人見知りの恥ずかしがり屋でもあったので、外では大人しく見られることの方が多かったです。
ーー当時思い描いていた「将来の夢」って覚えていますか?
小学校に上がる前はセーラームーンになりたかったんです。今思えば、あれも「戦う存在」でしたね。それ以外だと、お花屋さんとかケーキ屋さんとか保育士さんとか……。
ーーその頃はまだ、将来の夢の中に「俳優さん」は無かったんですね。芸能活動に興味を持ち始めたのは、それよりもっとあと?
小学生くらいの時ですね。モーニング娘。さんが大好きで、小学生の頃は「モーニング娘。に入りたい!」って言ってたんですよ。俳優に憧れを持ち始めたのも同じ頃で、きっかけはテレビドラマです。
母がシングルマザーで仕事の帰りが遅いことも多く、夜は兄とふたりでドラマを見て過ごす時間が多かったのですが、その時間は私にとってすごく楽しい時間だったんです。それで、いつのまにか俳優さんにも自然と憧れるようになりました。

ーーその後、成長した青野さんは芸能の道へと進まれましたが、きっかけは何だったんですか?
中高校生くらいからは自分で応募してオーディションを受け始めていたのですが、それと同時期にスカウトしてもらえる機会があったんです。
それまで芸能の道に興味があることを家族も含め周りには恥ずかしくて言えていなかったから、それを機に親にも相談してみたのですが、すごく反対されてしまって…。当時の私では説得しきれず、「きっとまたチャンスはある」と考え、その時は諦めました。
その後、高校を卒業するタイミングで再度自分自身の進路を考えなければいけなくなりました。芸能の道がいちばんの夢であることは変わっていなかったのですが、やっぱりまだ周りには言えないまま。
でも、「何かに挑戦すること自体は続けなきゃいけない」とも思っていたので、興味のあった美容の道に進むと決めて、美容の専門学校に入りました。
そして、その美容学校を卒業する頃、改めて「この先どう生きたいか」を真剣に考えるようになりました。卒業の時期になってもまだ芸能への夢は持ち続けていたので、そこで初めて、周りに「本当は芸能をやりたい」と話したところ、思いがけずご縁が繋がったんです。
最初に声をかけていただいたのは、芸能事務所ではなく、ちょうどメンバーを募集していたアイドルユニットでした。そのユニットへの加入が、芸能活動のスタートとなりました。
ーーアイドルユニットでの活動後は演技のお仕事にも進出されていましたが、そこからプロレスにはどのような経緯で繋がっていったのですか?
私が最初に所属したのは「俳優など芸能の仕事をしている人がプロレスをする」というコンセプトを持った団体だったのですが、そこの代表にお誘いをいただいたことがプロレスデビューのきっかけです。
最初は俳優の友人から紹介されたのですが、当時の私はまったくプロレスを知らなかったから、自分がプロレスをやるなんて想像もつかなくて。だから会う前から「私は結構です」とお断りしていました。
それでも「いちど会うだけでも」と何度も連絡をいただいたので、何度かの連絡ののち、ようやく直接お会いして話を聞いてみることにしたんです。
ーー最初から積極的にプロレスの世界に飛び込んだというわけではなかったのですね。
そうなんです。だけど直接会ってお話を伺ってみると、実際に所属して活動している俳優さんがいたり、プロレスとお芝居に共通している部分があったりすることも分かって。
当時の自分は「これが私の武器です」とはっきり言えるものが無いことにも悩んでいました。
芸能活動を行っていく中で「何か自分だけの武器が欲しい」と思っていたからこそ、お話を伺ううち、「自分にしかない武器を作るうえでプロレスはもしかしたら良いかもしれない」と感じたように思います。
ーーまったくの未経験からプロレスの世界に入ることに対しての怖さや不安はありませんでしたか?
私は好奇心の塊みたいな性格なので(笑)、「自分にできるかな」という不安はありましたが、怖さは感じていませんでした。
それに子供の頃から力が強くて腕相撲で男の子に勝っていたくらいだから「もしかしたら向いているかもしれない」と思う気持ちも、少しだけありました。
当時は俳優業もあまり思うようにいかず、「これからどうしよう」と考えていた時期でもありました。だから、「自分にとってプラスに繋がる可能性があるものは全部やってみよう」という気持ちだったんです。
ーー直接お話を聞いてからは、プロレス入りをすごく前向きに捉えていたんですね。
はい。とはいえ、まさか自分がプロレスラーになるとはそれまで想像もしていなかったから、「本当にこの道に進んでいいのかな」とすごく迷いましたし、「私がプロレスをやると伝えたら母が心配するんじゃないかな」とも考えました。
だけど実際に伝えたら、笑って「向いてるんじゃない?」って言われて(笑)。「自分が納得するまでやったらいいんじゃない」と応援してくれました。
母も、当時の代表も迷っていた私にすごく自信を付けてくれて、そのおかげで最初の一歩を踏み出せたと思います。
迷い続けた2年を越えて。初戴冠が教えてくれたプロレスの本当の楽しさ

ーープロレスの世界に入ったばかりの頃、戸惑ったり驚いたりしたことはありませんでしたか?
私が入った当時は、全女時代から活躍されている堀田祐美子選手がプレイングマネージャーとしていらっしゃったんです。堀田選手は私達の練習を見てくださる時も、とても厳しかった。
怪我をしてはいけないですし、しっかり言わなくてはならない立場なので当然なのですが、プロレス経験のなかった私はその厳しさに、最初とても驚きました。
もうひとつ驚いたことは、会場設営を全部選手が行っていたことです。デビュー前に初めてプロレス会場に行った時に知ったのですが、私はそれまで俳優業やグラビアをやっていた中でそういった裏方作業を行った経験が無かったので、「選手がこれをやるんだ……!」という衝撃がありました。
ーー確かに、ドラマの現場やグラビア撮影だと演者が裏方作業を行う場面はまず無いですよね。
そうなんです。それまでは本当にすべてをスタッフの方々にやっていただいていたので、椅子を並べたり、鉄板を付けたり、リングがない会場ではリングも1から自分たちで組み立てているのを見て、全然違う世界にきたんだなと実感しました。
ーー強く叱られたり想像していなかった裏方の仕事もあったりと、予想外なことが多々あったかとは思うのですが、それでも最初からプロレスは楽しかった?
練習は楽しかったですね!まだ道場が借りられる日が少なく、スポーツセンターなどで練習していた時期でしたが、マット運動で褒めてもらえることも増えてきて。それが嬉しくて、日々楽しく取り組んでいました。
でも、プロレスの「本当の楽しさ」が理解できたのは、それよりもずっと後です。今だから話せることですが、実は最初の2年くらいはプロレスの楽しさを理解できていませんでした。
練習ではできることが、試合になると全然できない。技が上手くできないだけじゃなく、間合いや魅せ方といったプロレスならではの「センス」が当時の私には無かったんです。
今なら怒られていた理由がはっきりと理解できますが、当時の私は一生懸命やってもダメ出しされて、だけど何がダメなのかも、どうしたら良くなるのかも分からない。心に余裕が無くてとても辛い日々でした。
もちろん、そんな日々の中であっても、勝って嬉しい瞬間や応援してもらえる喜びを感じる時もあったんですけどね。
ーーそんな日々を脱却できたと実感したのは、いつですか?
最初にベルトを巻いた時ですね。私が初めてベルトを獲れたのはタッグでの出場試合だったのですが、ファンの方が一緒に喜んでくれたことが何よりも嬉しかったです。
私がベルトを巻いた姿を見て、泣きながら「応援してきてよかった」と喜んでもらえた。ずっと見守ってきてくれた方々に結果で返すことができて、本当に良かったなと思いました。
そのあたりからようやく、本当の意味での「プロレスの楽しさ」がわかってきたように思います。
ーー応援の嬉しさや結果を出せた達成感などポジティブな気持ちになれる瞬間が多い反面、辛いことや大変なことも少なくない世界だと思います。2024年にはチームメイトでもあった朝陽さんの急逝という、あまりにも悲しい出来事がありました。
亡くなる前日は試合会場にも来ていたし、たしかその次の試合が一緒で、「次も頑張ろうね」なんて話していたので、訃報を聞いた時は信じられませんでした。
朝陽と私は同期なんです。もともとの所属団体は違いましたが、すごく人懐っこい子で手紙やプレゼントをくれたりすることもあって。本当に可愛い、同期なんだけど妹のような存在でした。
だから同じ団体の所属になった時は本当に嬉しかったし、プロレスが大好きな子だったので、これからもっともっと活躍していくと思っていました。やりたいこともたくさんあったと思います。
今でも実感が無いわけではないんですけど、どこか信じられていないような感じがあるんですよね。どこかで元気にしているんじゃないかなと思ってしまう。
だけど、言葉にできないほどの感情に襲われている中でも、試合の日はやってきます。試合に穴を開けるわけにはいかないので、選手の間でも「みんなで支え合おう」という空気が自然と生まれていました。
ファンの方々も相当苦しい思いをなさったと思います。何か言葉にしたわけではないけど、選手とファンみんなで支え合って、気持ちを共有して、一緒に乗り越えてきました。

ーー少し話は変わりますが、女子プロレスラーとして活動していく中で、どのような場面で大変さを感じますか?
以前所属していたActress girl’Zは「タレントや俳優がプロレスをする」というコンセプトだったので、私も俳優業を続けながら活動していました。団体主催での舞台に出演したり、他の仕事にも出られたので、プロレスと俳優を両立をする形です。
ただ、その形に対して、「プロレスをなめるな」という空気はあったと思います。「両方をやるなんて片手間で、本気でやってないんでしょ?」と思われるというか……。
私よりも先に活動してきた先輩たちはもっと大変だったと思うのですが、そういった面で難しさを感じることはたくさんありましたね。
ーー片手間どころか、2つのことを真剣に同時進行でやると2倍大変だと思いますけどね。
大変だしどちらも一生懸命やっているのに、なかなか結果に繋がらない苦しさもありました。
それにプロレスを続けていると、どうしても体が大きくなってしまうので、女優としての役の幅も狭くなる。両立したい気持ちと、両立によりできなくなることが増えていく現実との葛藤もありました。
また、プロレスラーならではということで言うと、ファンの方との距離が近いぶん、ありがたい声も厳しい声も直接届くんです。
試合後のサイン会やツーショット会でお話しする機会が多いのですが、その距離の近さゆえに良い応援も厳しい言葉もダイレクトに声が聞こえてくるのは、プロレスならではかもしれません。
ーー特に印象に残っている言葉はありますか?
いちばん印象に残っているのは、デビュー戦の時のこと。デビュー戦の何日も前からものすごく緊張していたので、終わった時は正直勝敗よりも「終わった……」と安心感でいっぱいになってしまっていました。
そうしたら、試合後ツーショット撮影に来てくれた方に、「負けたのに笑ってんじゃないよ」と言われて。それは本当にグサッときました。
でも同時にハッとして。「そうか、自分は戦っているんだ」と気づかされました。お客さんはちゃんと見てくれているから、もっと真剣に向き合わなきゃいけない、と。
その後も、否定的な言葉をいただくことはたまにあります。でも99%は力をもらう言葉ばかりです。本当にたまに、ですね。
それに、否定的な言葉も私を思って言ってくれているのだと思います。きつい時もあるけれど自分のためになる部分もあると思って、受け止めています。
ーーどんなジャンルであっても、ネット上で好き勝手言う人は一定数いるじゃないですか。それに言い返したら「大人気無い」と言われたり、公人だからこそ言い返せない悔しさがあるのではと思うんです。青野さんは、そういったネット上の声とは、どう向き合っているのでしょうか。
そうですね……。ネットの言葉にはグサッとくるものも多いですが、同時にファンの方が守ってくださることもあって。そういう時、「見てくれている人はちゃんといるんだな」と助けられた気持ちになります。
それに、グサッとくる時というのは、自分でも「これはダメだったな」と思っているところを指摘された時なんですよね。自覚している部分だからこそ、余計響くんだと思います。
でも、自分なりの考えがあってやっていることに対しては、批判的な意見を言われても、「そういう考えもあるんだな」くらいで受け止められます。
ーーたしかに、自分に芯があると強い言葉を受けても揺らがないですよね。
例えば暴言に近いようなことを言われた時も、私はぐっとこらえるしかしないんです。あまり人にも言わないし、自分の中だけで処理するタイプです。
ーー何事においてもそういうタイプなんですか?
そうかもしれません。それにきつい言葉で落ち込んでも、次の試合で「すごく良い試合だったよ!」と誰かに言ってもらえたら、その言葉で落ち込んでいた気持ちも上書きされていくから。
ーープロレスで傷ついても、プロレスで上書きできるんですね。
本当にそうです。だからファンの方々にはとても助けられています。
「報われなかった7年間」にはしたくない 覚悟を持って選んだプロレスラーとしての道

ーーその後Actress girl’Zがプロレス活動を終了することとなりましたが、青野さんは団体への残留を選ばれましたよね。その後の生活は大きく変わりましたか?
いえ、説明が少し難しいのですが、プロレス活動を終了したとはいえ、エンターテイメントとして試合を行ってはいたんですよ。なので、私個人としては、練習も活動内容もあまり変わっていませんでした。
他団体との対戦が無くなったり、他団体の選手がリングに上がらなくなるといった違いはありましたが、自分自身が何をやっているかというと結局日々練習を行って試合に立っているわけなので、個人的にはプロレスから離れた意識はそんなに無かったんです。
ーーとはいえ、団体のプロレス活動終了=青野さんもプロレスラーとしての活動では無くなってしまうわけで。それでも団体に残留したのは、どのような考えからだったのでしょうか。
私も本当にすごく迷いました。まだプロレスラーとして何も成し遂げていないという思いがあったし、「もう少しプロレスを続けたい」という気持ちが強かったから。
その気持ちを当時の代表にも伝えましたが、「未来が辞めるならActress girl’Zも終わらせる」と言われて。
それが本気かどうかは正直分かりません。ただ私を引き止めるための言葉だったのかもしれない。でも、私が辞めることで本当に終わってしまったらと考えると、それは嫌だと思いました。
私の中でいちばんの不安要素だったのは「プロレス団体では無くなったこと」。それならいちど新しい形の中でやってみて、その上で違うと思ったら改めて考えよう。そう思って残留を決めました。
ーーそうなると、逆に「なぜマリーゴールドへの移籍を決断したのか」が気になってきますね。
前団体がプロレス団体では無くなったので、「移籍」と言ってしまっていいのかわかりませんが……。私も移籍しようと最初から思っていたわけではありません。ただ、体制が変わってからの2年は良くも悪くも、自分自身の変化を感じられない2年間でした。
私自身も「どうやったら団体を大きくできるんだろう」とずっと考えていましたが、歴が長くなるほど、いつのまにか新しく入ってきた子たちに教える側の立場になってしまって、自分自身を成長させる時間が減ってしまったんです。
自分のために何かをするというよりも下の子のためにどうにかしなきゃと毎日考えて、それでも結果にはなかなか繋がらない。そのうち、「私ができることはもう無いのかもしれない」と思うようになり、辞めることを考えるようになっていました。
もちろん、その時は別のプロレス団体に行こうとは考えておらず、「プロレス自体を引退する」という選択肢が現実的でした。どのタイミングで辞めようか、それを1年くらいずっと考えていたんです。
そんな時、現在マリーゴールドでアシスタントプロデューサーを務めてくださっている風香さんが、当時の団体にアドバイザーとして入ってくださったんです。新体制になってから色々な企画を提案してくださって、風香さんには本当にたくさん支えていただきました。
さまざまな企画や案を考えていく中で、現在マリーゴールドの代表であるロッシー小川さんのところに、「Actress girl’Zを盛り上げるためにできることは何か」を相談しに行ったところ、「ダブル所属」という提案をいただいたんです。アクトレスガールズではプロレスができないので、プロレスは別団体でやる形はどうか、と。
ただ、その案を代表に伝えたところ、「もう解散だ」と言われてしまって。結局解散にはなりませんでしたが、その事がきっかけで小川さんが立ち上げた新しい団体、現在のマリーゴールドの旗揚げ会見に行き、「プロレスをさせてください」とお願いをしてマリーゴールドに入団することになりました。
そういった経緯もあったのでいろいろと本当に悩みましたが、それでも私は「プロレスラーとしてやり残していることがまだある」と強く感じていました。
これまで頑張ってきた7年間を「報われなかった7年間」には、絶対にしたくなかった。
だから「これが最後の挑戦になるかもしれない」という覚悟を持って、プロレスラーとしての道を選びました。
ーー今、「最後の挑戦」という言葉がありましたが、女子プロレス……いえ、女子に限らずプロレスラーには明確な定年がありませんよね。このタイミングで聞いていいのか迷うのですが、青野さんは引退について考えることはありますか?
それはやっぱり、考えますね。
ーー考え始めたのは最近?
いえ、マリーゴールドに入った時から、なんとなく「自分に残されている時間は長くない」とは思っていました。私がプロレスラーとして活動できる残りの期間は、そんなに長くないだろうな……と。
でも、まだ分からないですけどね。プロレス活動自体、始めた時はここまで長く続けられるとも思っていなかったのに、気づけばこんなに長く続けてこられたわけなので、もしかしたら「できるところまでやりたい」と改めて思うことがあるかもしれない。
でも今のところ、何年までと具体的に決めているわけではありませんが、なんとなく自分が描いている「残された時間」はあります。
だからその中で、やれることは全部やりきろうと思っています。

ーーマリーゴールドに入ってから、ファンとの距離感や会場での自身の在り方は、以前と比べて変わりましたか?
ちょっと変わりましたね。前団体では試合ごとに必ず物販に立っていたので、毎回ファンの方と対面する機会がありました。
でも今のマリーゴールドでは、ロッシーさんが「全選手が出ない方がいい」という考えなので、物販に出る選手も大会ごとに決められています。
なので、試合の日だからと言って必ずファンの方とお話できるわけではなくて。だからこそ、お会いできる時間はより貴重なものという感覚が強まりました。
あと、セコンドにも「選手は自分の試合まではなるべく出ない方がいい」という考えなので、そういったところも含めて、細かい部分での変化はいろいろと感じています。
ーーデビュー当時に比べるとファンの数も増え、より大きな試合にも出る機会も増えたと思うのですが、昔から応援してくれているファンの方って分かるものですか?
もちろん分かりますよ!物販でお会いする際はもちろん、SNSでも分かります。それこそプロレスデビューする前の、練習生時代から応援してくださっている方もいます。本当に嬉しく思っています。
演じる自分と戦う自分。ふたつの道がひとつに重なるまで

ーー青野さんはすごくポジティブに物事を捉えることができる方という印象なのですが、挫折を感じることってありますか?
挫折を感じること、たくさんありますよ。
最初に「辞めようかな」と思うくらいの挫折を味わったのは、デビューしてまだ1年くらいしか経っていなかった頃。
自分の試合が終わって、セコンドで他団体の選手の試合を見ていた時、その試合がとんでもなくすごい試合で、「私にはこんな試合はできない、無理だ」と思ってしまったんです。
私はやるなら1番になりたいと思ってプロレスに向き合っていたので、「自分にはできない」と感じてしまったこと自体がものすごくショックで、もう辞めてしまおうかなと思いました。
ーーそこで持ち堪えられたのはなぜ?
落ち込んでいた時、当時の代表に呼ばれて「今でも1番になりたいと思っているのか?」と聞かれたんです。だから正直に「今は思っていません」と答えたら、「じゃあ良かった」と言われて。
「今のような状態で1番を目指すなら、辞めろと言おうと思っていた」と言われました。だから自分が1番を目指せなくなった理由を話していくうちに、自然と「そうか、無理して1番を目指さなくても良いのか」と気持ちが切り替わったというか。
この言い方だと語弊があるかもしれないのですが、ベストを尽くすことは大前提なんです。
だけどそのベストの形は、私が見て圧倒された選手のような形だけではない。プロレスには選手ごとにいろんなベストの形があって、私は私のまま、無理に誰かのスタイルに倣うのではなく、自分のスタイルとペースで1番を目指していけばいいんだと思えるようになりました。
ーー青野さんにとって、「自分らしい在り方」って何だと思いますか?
まっすぐでいること、ですかね。私は自分にあまり個性がないと思っていて、それがコンプレックスでもありました。
プロレスラーは個性の強い方が本当に多くて、それなのに自分は本当に普通。だからこそ、自分にも何か武器が欲しいと強く思っていたんです。
でも最近は、レスラーらしくないところが逆に自分の個性なのかもしれないと思えるようになってきました。むしろそういう存在ってあまりいないのかな、と。
だから今は、無理して「プロレスラーらしさ」を作るよりも、素の自分に近い状態で、自分の気持ちのままリングに立つことがいちばん良いんじゃないかなと思っています。
無理に演じることは、やめました。
ーー当初の青野未来は、「女子プロレスラー・青野未来」を演じていた?
最初はそうでしたね。演じないと戦えないというか……。だって「このやろー!」なんて普段の生活では言わないじゃないですか(笑)。
でもリング上で「いきま〜す!」ではダメで、「いくぞー!」じゃないとやっぱりいけない。普通の状態のまま戦うのは無理があって、最初の頃は完全に演じていましたね。プロレスラーのスイッチを無理やり入れて戦っているような感覚でした。
もしかしたら今も慣れただけなのかもしれません。だけど、今はもう演じているという感覚はまったくないです。プロレスのリングに上がると、自然と「いくぞー!」って言える。勝手に切り替わるようになりました。
ーー過去と今とでは、ご自身にとってのプロレスの楽しさも違いますか?
全然違います。昔は「ここでこうしよう」と作り込んでいた部分が多かったのですが、今は本当にいろんな感情を持ったままリングに立っています。
今は本当の意味で、リングの上で生きられているように感じています。
ーー俳優・アイドル出身ということで、プロレスを始めた当初は色眼鏡で見られることも多かったと仰っていましたが、それも今はもう少なくなりましたか?
昔は多かったけど、最近はめったにありません。でも今は、「どうせ俳優やアイドルの出身なんでしょ?」って仮に今思う人がいたなら、「しめしめ」って思います(笑)。「じゃあ試合を見てください!」って堂々と言えるようになった。
自分自身がプロレスを心から楽しめるようになってからは、試合を褒めていただけることも増えました。
それはきっとプロレスラーとしての自分に自信がついたから。
自信がなかった頃は、「今の自分じゃ、所詮片手間でやっているプロレスラーだと思わせてしまうかもしれない」と、いつも不安に思っていました。でも今はまったく不安に思うことなく、本心から「ぜひ試合を見てください」と言えます。
ーー女子プロレスの課題として、今の女子プロレスがどんなものかを知らない方がまだまだ多い、というのもありますよね。
そうなんですよ。すごく面白いことをやっている自信はあるんです。だけど私自身も、自分がプロレスに入るまでは観戦したことが無かったし……。
だから「どうしたら観たことがない人に観戦してもらえるんだろう」ということは、ずっと考えています。
実際に観てくださった方は「すごく面白かった」と皆さん仰ってくれるんです。でも、観たことがない人に会場まで足を運んでもらうのって相当ハードルが高い。いちど現地で観てもらえれば絶対に魅力は伝わると思うので、会場に来てもらうための工夫や努力は続けていきたいと強く思っています。
ーー青野さんは、昔も今も「プロレス界全体のために」をとても重視して考えていますよね。
プロレスって、自分ひとりじゃ絶対に成り立たないんですよね。戦う相手がいて、それを観てくれる人がいて、応援してくれる人がいてこそ成立する。
だからプロレスのため、団体のために動くことは全部自分ごとだし、最終的に自分のためにもなると思っているんです。

ーー今後、プロレスファンを増やすためにできること、やっていきたいことはありますか?
今、風香さんやいろんな方にご協力いただき「とどみくチャンネル」というショートドラマを作って配信しているのですが、演技でも、今日のようなインタビューでも、メディアに出られるチャンスをいただければ、どんどん出ていきたいと思っています。
私に興味を持ってもらえたら、そこから女子プロレスにも興味を持ってもらえるかもしれない。だから、私自身が興味を持ってもらえる存在にならなきゃいけないと思っています。
今、マリーゴールドでいちばん知名度があるのは代表のロッシー小川さんなんですよ。でも選手である私たちがもっと自分の存在を大きくしていけば、それがマリーゴールドが大きくなっていくことにも繋がると思うので。
ーーそうなると、ますます引退できないですね。
そうですね。目標を大きくすればするほど、ますます簡単には引退できなくなっちゃうな(笑)。
ーー先程青野さん自身も、選手としての「残された時間」について話されていましたが、女子プロレスは女性としてのライフプランと選手活動の両立が難しい側面もあるのではないかと感じています。これは後進の育成にも繋がる課題だと思うのですが、青野さんはどのように考えていますか?
たしかに難しい問題だと思います。私自身も、年齢的に考えることもあります。
ただ、先輩方の中には、結婚や子育てを両立したうえで選手として復帰された方もいらっしゃるので、いろんな形が考えられるのではないかとも思っています。
プロレスの良いところは、「これが普通」という固定の形が無いところ。選手それぞれが自分の個性を出しながら自由な道を歩むことができる競技なので、選手としての形にもさまざまな可能性があるのではないでしょうか。
ーーなるほど。両立という面だけで言うと、青野さん自身も最近再び俳優やグラビアの仕事を行うなど、新たに2つの道を両立する形を目指していらっしゃいますよね。
私は俳優を辞めたつもりは無いですし、演技の仕事はこれからもずっとやっていきたいと思っています。行き詰まって将来が見えない時期もありましたが、結局プロレスをやったことで叶えられた夢も多い。なんだかんだで、子どもの頃に夢見ていた未来が今に繋がった気がしています。
ーー俳優の道とプロレスの道、その両方を切り拓いていく存在になっていってほしいです。
そうなれたら嬉しいです。
応援とは、立ち続ける原動力

ーーこれまで選手を続けてこられた中で、ファンの方やご家族など、たくさんの方の応援を受けてこられたと思います。自身も仲間を応援してきた立場でもあると思うのですが、青野さんにとって「応援」とは何ですか?
立ち続ける原動力です。
続けることって、本当に難しいなといつも思っていて。それでも私が続けてこられたのは、たくさんの方に応援してもらえたからだと思っています。
プロレスを始めてからは特に、リングのすぐそばにお客さんがいて、その声援があるからこそ、試合中どんなに苦しくても立ち上がれる。
応援してくださる方がいなければ、そもそも成り立たない世界なので、「応援のおかげで今の自分がある」と日々思っています。本当に、いただく応援のすべてが私の原動力です。
去年の1月3日に行われた大田区大会での防衛戦の時、私は今とは違うベルトを持っていたのですが、その試合で会場中から相手の桜井選手へ向けた「サクライ」コールが巻き起こったんです。
自分も極限に近い状態の中、相手選手へのコールがめちゃくちゃ聞こえてくるんですよ。それこそ「あ、心折れそう……」って思うくらい。
コールが起きた瞬間は、本当に心が折れてしまいそうになりました。「応援の力って、こんなにもすごいんだな」と感じたし、時にはダメージにもなるほどのパワーがあるものなんだなと改めて思いました。
ーー相手選手への応援の凄まじさから、応援のパワーを知った経験だったのですね。
はい。でもそれくらい、相手にとっても自分にとっても、声援ってものすごく支えになるものなんですよね。私も自分がピンチの時、自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきたら、すごく力が湧きますし。
ーーちょっと意外だったのですが、あれほどの激しい試合中であっても、応援の声は聞こえているんですね。
はっきり聞こえます。プロレス会場って、声がちゃんと届くんですよ。だから、声を出して応援してくださる方には本当に感謝ですね。
きっと初めて来られた方なんかは、声を出すのも恥ずかしく感じるんじゃないかなと思うんです。それでも声をあげて一生懸命応援してくださって、終わったあとに声が枯れている方もいて……。本当にありがたい存在です。
ーー青野さんも、ファンのとともに戦っているんですね。
そうです。みんな私と一緒に戦ってくださっている。一緒に泣いて、一緒に笑って。それができるところが、プロレスのすごく良いところだなと思っています。

