SPORTIST STORY
BASCKETBALL COACH
加藤翔鷹
KATO SHOYO
STORY

勝利へと導くもの、それは最大限の努力とエナジー

試合に勝つために必要な要素とは何だろう。強いフィジカル、安定したメンタル、時の運。どれも重要だが、ことバスケットボールにおいては戦術とそれを裏打ちする分析力も勝利を左右する大きな要因と言えるのではないだろうか。今回SPORTISTが話を聞いたのは、昨シーズンチャンピオンシップ優勝を果たした広島ドラゴンフライズでアシスタントコーチとして勝利に貢献した加藤翔鷹。学生時代はいたって平均的な体格・運動能力だったという彼は選手としてプロを目指すことはなかったが、持ち前の分析力と探究心で導き出す戦術を武器に、選手とは別の立場からチームを支える一人となった。彼の考えを象徴的に表していたのは、「最大限の努力を怠らなければ結果に繋げられる」という言葉。新天地となるサンロッカーズ渋谷でも、変わらないスタイルでヘッドコーチと共にチームを勝利へと導いてくれるに違いない。(本インタビューはB.LEAGUE2024-25シーズン開幕前、2024年8月1日に行われました)

Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga
Photo / Naoto Shimada
Interview date / 2024.08.01



高校までで終えるはずだったバスケットボールの道。コーチ人生が始まったきっかけとは?





ーー加藤さんはどんな幼少期を過ごしてこられたのですか?

両親が「ゲーム禁止、外で体を動かして遊んでこい」という教育方針だったので、少年時代は3人の兄と毎日のように外で遊んでいました。

ただ、基本的には外遊びを推奨する両親でしたが、スポーツ少年団などへの加入は「土日の練習で家族の時間が取れなくなってしまうから」という理由で許可してもらえませんでした。それよりも、土日は家族みんなで出かけたりアクティビティを楽しんだりして過ごそうという考えだったようです。

だから意外に思われるかもしれませんが、僕は何かひとつのスポーツに打ち込んだ少年時代を送ってきたわけではないんです。スポーツと言えば、父がもともと陸上をやっていたので一緒にランニングをしたり、兄達が所属していた陸上部の練習を見に行ったりするくらいでした。

ーーお兄さん達は全員が陸上部だったのですか?

そうです。だから父は僕も中学に上がれば陸上部に入ると思っていたようですが、僕は「このまま兄たちと同じ部活をやるのは嫌だな」と思っていました。

僕は特別運動神経が良いわけでもないし、足が早かったり高く飛べたりするわけでもありませんでした。陸上部で活躍できるほどの運動能力は自分に無いと自覚していたんです。

なので、中学ではそれまで授業などで経験してきたスポーツの中で比較的上手にできたバスケットボール部に入部することにしました。

ーーお父さんをはじめ、家族はその選択に驚いたのではないでしょうか。

やっぱり父は陸上をやってほしい気持ちが強かったようで、しばらくは事あるごとに「陸上はやらないのか?」と言っていましたが、最終的には「息子がやりたいと自身で選んだことなら」と受け入れてくれました。

ーー加藤さんは中学入学の時点で、身長など含めバスケ向きの体格だったのですか?

いえ、そんなことはありませんでしたよ。本当に平均的な身長、体重、運動能力です。

だから「バスケに向いている」と思って入ったというよりは、単純に「バスケットボールって面白いな」と感じていたから入ったという方が理由としては近いかもしれません。

僕の進学した中学は強豪校ではなかったので部活もそこまで盛んではなかったし、県大会に出ることなどもありませんでした。

だけど、体格や運動能力がいたって普通な自分でも、ボールという道具が加わったり作戦を考えたりすることによって身体能力以外の部分でも戦うことができるというバスケットボールの面白さをここで学ぶことができました。

ーー中学生の時点ですでに、戦術やセットプレーの面白さに気付いていたのですね。

僕が14歳の時にアテネオリンピックが開催されたのですが、バスケットボールに当時大活躍していたアレン・アイバーソンが出場していたんです。

オリンピックの試合を観ているうちに「NBA選手の中ではかなり小柄な彼がこれだけ活躍できているのは彼自身の能力の高さによるところもあるだろうけど、でもそれだけじゃなさそうだな」ということに気付きました。

もちろん当時はその理由が何なのかを言語化するまでには至りませんでしたが、チーム全体が彼を活かすためのフォーメーションやスペーシングなどを駆使しているのを観て、「バスケットボールって奥が深いな、いろんな考え方を取り入れて5人が息を合わせれば点が取れるんだな」と感じたことは印象的に覚えています。



ーー高校もバスケットボールを基準に選んで進学したそうですね。

高校はバスケットボールをやるために、当時静岡県でいちばん強かった浜松商業高等学校に進学しました。ただ先程話した通り、僕は中学時代まったく無名の選手だったので一般受験での入学です。だから当然、バスケ推薦で入ってきた部活仲間たちの中に入ると僕がいちばん下手でした。

ーーその話を聞くといろいろと大変だったのではと思ってしまうのですが、当時部活は楽しかったですか?

思い返すと、本当に苦しい思い出ばかりですね。

浜松商業はもともと県内トップレベルの強豪校だったのですが、ちょうど僕が入学した年は私立高校の台頭や留学生の関係などでインターハイに出られなくなってしまったり県大会でも全然勝てなくなってしまったりと、部自体も苦境に立たされた年でした。

とは言え強豪校だから練習は厳しいし、でもその厳しい練習を頑張っても僕は試合に出ることもできないしで、プレイヤーとして楽しい思い出は正直あまりありません。

だけど、中学では経験できなかった強豪校ならではの練習を教えてもらえましたし、フォーメーション、スペーシング、ディフェンスやオフェンスの基礎を1から学べたのも高校の部活が初めてでした。

高校での経験がなければ今の仕事にも就いていないと思いますし、今の僕を形成するうえでとても大事な時間だったと思っています。

ーー試合に出られなかった高校時代、コート外からも戦術的な視点で観ていたのでしょうか。

はい、そういった視点で観ていました。実際に、2年生の時には監督から「マネージャーにならないか」と声を掛けられていたんです。

もちろんプレイヤーとしてまったく戦力にならないからというのも理由のひとつだったと思うのですが、マネージャーの誘いを受けた時に、監督から「能代高校は伝統的に学年2番手のポイントガードがマネージャーになっている」という話を聞かされたんです。

ポイントガードはチームマネジメント能力が必要なポジションで、なおかつバスケットのことがわかっている人間でなくてはならない。それができるのは、戦術理解があって周りに気を配れる選手なんだよと。

あれだけの強豪校がそういった伝統を持っていて、そのうえで監督が「お前ならそれができる」と言ってくださったことはとてもありがたかったのですが、2年生当時の僕はまだ選手で頑張りたかったので一旦その話を断って、3年のインターハイ予選までプレイヤーとして活動しました。

ただ、その後、インターハイ予選が終わった時に、今度は自分から監督に「マネージャーをやらせてください」と言いに行きました。

選手としてはインターハイ予選まででやり切ったと自分で納得できたことと、将来的には教員になりたいと思っていたのでこれ以降は監督に評価してもらえた部分で頑張りたいと思ったからです。

ーーその時点ですでに、大学で選手としてバスケを続けようとは思っていなかったんですね。

将来的にはトレーナーか教員になってバスケと関わっていければと考えていました。

まずはアスレチックトレーナーの資格と教員免許を取得しようと思い、それを基準に大学も選びました。その時は大学では部活もやらないつもりでしたし、勉強だけをしようと考えていました。

だけど、いざ大学に入ってみるとその理想からあまりにも遠かったと言うか……。

入学してたった3、4ヶ月なのに授業がまともに成り立たない時もあって、どうしようかと悩んでいた時に「お前、何かつまらなそうだな」と声を掛けてくださった教授が何人かいたのですが、その先生方が筑波大学の出身だったんです。

「そんなに学校がつまらないなら筑波の大学院に進学しては?スポーツ系であれば筑波は良い勉強ができると思うよ」とアドバイスをいただいて、大学1年の冬ごろには筑波の大学院に進むことを決めていました。



ーーそうして進学した筑波大学の大学院では、どんなことを研究していたんですか?

栄養学です。ゼミの担当教授が陸上の先生で「カルノシン」という短距離アスリートの疲労に良いとされる物質を研究していたのですが、それを一緒に研究してくれとお誘いいただいたんです。

短距離アスリートの疲労に良い物質ということはつまり、バスケ選手にとっても良い影響があるものですよね。その当時は自分がコーチになるなんてまったく考えていませんでしたが、栄養学などこれまでとは違った面からバスケットボール界に貢献できるかもしれないと思い、栄養学を研究することに決めました。大学院での生活はとても楽しかったです。

ーーバスケでコーチを始めたのも大学院からでしたよね。入学時はコーチの道をまったく考えていなかったとおっしゃっていましたが、何がきっかけで?

筑波の大学院で同学年だった女の子に勧められたことがきっかけでした。

彼女は女子バスケ部に所属していて、「男子バスケ部は今人手も足りていないし、絶対に良い経験になるからやってみたら」と声をかけられたんです。

だけど筑波大学といえば当時もプロになるような選手がたくさんいるすごいチームだったので「僕なんてとても務まらないよ」と何度も断ったのですが、その子も何度も誘ってくるので「じゃあ一度見学に行ってみよう」ということで吉田監督と初めてお会いすることになりました。

日本一を目指す大学のコーチを経験できるチャンスなんてそうそう無いですし、その頃ちょうど研究の方も目処が立ったタイミングだったこともあって、心を決めたという流れです。

ーーここから加藤さんのコーチ人生が始まるわけですね。

そうですね、ここが始まりです。

筑波大学には馬場雄大選手(現・長崎ヴェルカ)などをはじめ錚々たる選手たちが揃っていたおかげでインカレ優勝を経験することもできましたし、そういった選手たちとのワークアウトや選手指導を行わせていただいたり日本代表チームのお手伝いにも参加するようになったりと、トップレベルの経験を積むことができました。

その後、ちょうど僕が大学院を修了する年にBリーグが始まることになりました。入学時にはまったく考えていなかった道ではありますが、良い機会だしこれまでの経験を活かしたいと考えて、Bリーグに進むことを決めました。



今に繋がる大きな自信となったのは「提案を認めてもらえた」経験





ーーBリーグでのキャリアスタートはアースフレンズ東京Zからでしたね。当時はコーチではなくアナリストとしてチームに所属されていたかと思うのですが、改めてアナリストとアシスタントコーチそれぞれの業務についてご説明いただけますか?

アシスタントコーチのメイン業務となるのは、ヘッドコーチのアシスタント業務全般です。ヘッドコーチが求めるバスケットボールの戦術を選手に落とし込むことや、練習補助。あとは試合に向けての分析や準備が代表的なアシスタントコーチの仕事ですね。

一方で、アナリストはヘッドコーチやアシスタントコーチが行なっている業務をより分析面に特化した業務。「今、何が起きているのか」をさまざまな視点で分析していく立場だと思っています。

ビデオアナリストといって映像から分析していく役割と、スタッツアナリストといって試合のデータを数字から分析していく役割がありますが、いずれもコーチではないのであくまで分析結果を提案するところまでが業務で、実際にそのデータを用いてチームをいかに方向付けしていくかはコーチの仕事です。

アナリストは発生している現象のデータを分析してまとめる仕事、それをもとに判断するのがコーチの仕事。この役割の差が大きな違いではないかなと思います。

ーーアナリストの導き出すデータは、戦術やチームの方針を決める指標のもとになる重要なデータなんですね。

重要度は非常に高いと思っています。ここ数年は特に、バスケットボールでは「ゲームモデル」の構築が重要であると言われています。

ゲームモデルとは何かというと「そのチームがどういったバスケットボールスタイルでプレイを進めていくか」を示したもので、その目的は「選手の判断を早めるため」です。

仮にaとbの選択肢がある時に、ゲームモデルがaと示しているのであればすぐにaを選べますよね。ゲームモデルをはっきり構築することで、実戦時の状況判断を早められるんです。

ーーゲームモデル構築のために必要なデータの導き出し方などは、誰かに教わって習得するようなものなのですか?

一般的にどうなのかは分かりませんが、僕の場合は、筑波大学時代は当時監督だった吉田健司さんと町田洋介さん(現越谷アルファーズアソシエイトコーチ)、そして当時まだアナリストという職務が確立されていなかった時代に日本代表チームの分析を行なっていた末広朋也さん(現琉球ゴールデンキングスU15ヘッドコーチ)と、尺野将太さん(現広島ドラゴンフライズU15ヘッドコーチ)から教わりました。

プロ入りしてからは教えてくれる人や上司にあたるような方があまりいなかったこともあって、「何が勝利に結びつくデータなのか」を、トライアンドエラーを繰り返しながらひたすら探ってはヘッドコーチに提案して、ヘッドコーチの感触が良かったものや勝利に結びついたと思えたものを追求していくことの繰り返しでした。

ーー加藤さんのように、アナリストからアシスタントコーチへと転身するキャリア形成を行う方は多いのでしょうか。

多いと思います。今のBリーグでも、大学を卒業して新卒で入団してくるスタッフの多くがアナリストといういうキャリアを一度選んでからコーチを目指すことが多いように感じています。

それはやはりコーチという職業が、対人間との職業であることが大きいからだと思います。

コーチはただバスケットボールを知っていればいいわけではありません。選手、コーチ、トレーナーやマネージャーなどスタッフとのコミュニケーション力も求められますし、戦術面でもデータやビデオ上で起こってることがすべてとして考えるのではなく、机上の空論にならないよう、実際にコートでプレーする選手が納得できる形で心地よくプレーできるよう導くべき立場です。

そういった業務を担うことを考えると、すぐにアシスタントコーチになるというよりは分析やコミュニケーションの経験を積んだり勉強したりして、いろいろなものを身につけてからアシスタントコーチになる形を取った方が結果的に選手やチームのためになるのではないかと思っています。

ーー聞けば聞くほどアシスタントコーチの業務は多岐に渡るものだなと感心するのですが、シーズン中はどのような毎日を送っていらっしゃるのですか?

チームにもよると思いますが、僕の経験してきた感覚で例をあげると、まず試合の1、2週間以上前から試合に向けての準備を始めます。

データ面の準備としては対戦相手のスカウティング。いわゆる相手チームの分析です。相手チームのゲームモデルや、どういったオフェンス・ディフェンスをしてくるのかを試合映像やスタッツから細分化して、相手チームの特徴を全部洗いざらいにしていく作業です。

本格的にその試合の準備としてヘッドコーチやチームに対してプレゼンを始めるのが試合週の火曜日から。ですので、火曜朝までにプレゼン資料を準備します。

映像やデータ、相手チームのプレイをまとめたプレイブックを作って火曜日の練習前にヘッドコーチにそれをプレゼンして、その後は練習に参加。練習前後で選手とのワークアウトや自主練習をして、終わったら翌日行う選手へのプレゼン資料作りを行います。

シーズン中は朝起きてからずっと分析、資料作り、ヘッドコーチへのプレゼン、練習、選手との練習、資料作り、選手やコーチへのプレゼンを繰り返す毎日です。


ーーアナリスト、アシスタントコーチ、ヘッドコーチなどのベンチスタッフは、選手を応援する立場でもあると同時に自らもファンに応援される立場でもあると言えるのではないでしょうか。

そうですね。僕自身も野球が大好きでいろんな球場に行ってはしっかり応援歌を歌って応援するようなタイプなので、応援する側の気持ちもわかるし、仕事として選手やスタッフたちと接しているので応援される側の気持ちもわかります。

アシスタントコーチとして選手を応援するという立場で話すと、僕は毎試合「選手に良いプレーをしてほしい」と思っています。

彼らがどんな思いを持って、どんな人生を背負ってプロ選手になったのか、どういう気持ちで毎週試合に挑んでいるかは少なからずわかっているつもりなので、覚悟を持って励んでいる選手たちにはやっぱり活躍してほしいですし、もっと長い目で言えばできるだけ長くプロキャリアを歩んでほしい。

今は同じチームで一緒にいる選手たちもシーズンが変われば別々のチームに離れてしまうこともあります。だけど、たとえ別のチームになったとしても、一緒に過ごした時間の中で僕が何かを与えられてそれが選手の糧となっていたら嬉しいので、そういう良い影響や力を与えられるようにと思いながら接しています。

アシスタントコーチとしてできる応援は、選手たちが望む結果をできるだけ叶えてあげられるよう努力することだと思っています。

ーー世界的にみるとプロ経験が無いコーチはとても多いのですが、Bリーグにおいてはプロ選手がセカンドキャリアとしてコーチへと転身することも多いです。そういった中で「元プロではない」からという理由できちんと話を聞いてもらえないこともあると耳にしたのですが、加藤さん自身の体感としてはいかがでしょうか。

それは正直あると思います。僕自身も、最初の頃はきちんと話を聞いてもらえないことがありました。

でもその分、「自分はプロ経験がない」という前提を理解しているからこそ、それを埋めるだけの良い準備をするようにしました。

資料作りでは抜き出すビデオや資料の質を上げるよう努力しましたし、話の持っていき方で聞いてくれるかどうかが変わると感じた時は、どうすれば話を聞いてもらえるか徹底的に考えました。

今でもそうですが、些細なことまで懸念点を全部潰して、万全な状態で選手にプレゼンするようにしています。プロ経験は無いにしろ、「この状況で選手ならどう思うのか」など選手側の立場になって提案するよういつも心がけているつもりです。



ーー今の加藤さんは自らの仕事に対して自信を持って取り組めているように感じますが、自信を持つきっかけになるような出来事があったのでしょうか。

きっかけになったと思う出来事として、横浜ビー・コルセアーズでアシスタントコーチをやらせてもらっていた時の経験があります。

当時横浜には絶対的エースと呼ばれた川村卓也さんが在籍していたのですが、彼はものすごくバスケットボールIQが高いうえに自分の意思もはっきりしている方なので、当時からコーチするのがとても難しい選手として有名でした。

ただ、そんな川村さんがすごく苦戦した試合があったんです。やっぱりエースなので、相手チームも川村さんを抑えるために必死でかかってくるわけです。

その試合は土曜日だったので、試合後僕なりにあらゆる角度から分析して、どう説明したら川村さんが納得してくれるかもいろいろ考えて、日曜の朝に勇気を出して「この現象はこうなって起こっているので、こうしたら上手くいくと思います」とプレゼンに行きました。

シーズンに入ったばかりだったこともあり、チームメイトとはいえ僕もまだ合流して1ヶ月くらいでそれまで川村さんとはほぼ喋ったことがなかったし、僕の名前さえ覚えてくれているかも分かりませんでした。

だけど、無言でプレゼンを聞いていた川村さんは説明が終わると「うん、わかった」と一言だけ返してくれて、その後試合が始まってすぐに、僕が提案した内容を実行して得点してくれたんです。

そこからの試合運びもスムーズにいって、その試合で1勝を上げることができました。この時の「認めてもらえた」という経験は僕にとって、とても大きな出来事でした。

その年は最終的に残留プレーオフに出場することとなり、富山グラウジーズと戦いました。その試合に勝てた時、川村さんから「お前は本当によくやってくれた!」と熱い抱擁を受けたことも、とても嬉しかった記憶として残っています。

「自分ができる最大限の努力をして一生懸命準備してプレゼンすれば結果に繋げることができるんだ」と実感できたことは、大きな学びだったと思っています。

ーー努力とコミュニケーションの重要性がわかる、象徴的なエピソードですね。

選手へ接する時は、実は今でも毎日緊張しています。「僕がどういう表情やボディランゲージで説明すればこの選手は快く話を聞いてくれるかな」とか「どう話せば提案をより受け入れてくれるかな」ということを毎日考えているし、本当に毎朝緊張します。

ーーコーチとして、目標にしている方などはいらっしゃいますか?

今は特別誰かを目標にしてはいなくて、どちらかというと「とにかく自分にできる最大限のことをやる」ことに全力を注ぐようにしています。

ちょっと前まではリスペクトしてるコーチを聞かれたら、筑波大学でお世話になった吉田健二監督やプロ1年目でお世話になった小野秀二監督(現バンビシャス奈良ヘッドコーチ)など、いわゆるカリスマ性のある監督の名前を挙げさせていただいていたのですが、その2人と僕とでは背景やキャラクターが違うなと思い始めていて。

もちろん2人を尊敬していることは今も変わりませんが、僕は彼らのように元プロ選手だったわけでもないし、持っている説得力も違うと思うので、そこを目指してもなれないなと思うんです。だから、今は自分自身のキャラクターでコーチングをしていくことが目標です。



「広島の人たちのために」チーム一丸で戦ったチャンピオンシップ





ーー直近まで加藤さんが在籍していた広島ドラゴンフライズは昨シーズンチャンピオンシップ優勝と大きな成果を上げました。その立役者の1人として、優勝できたいちばんの理由は何だったと考えていますか?

理由としては、メンタルと戦略の2つが挙げられると思っています。

メンタルについては、とにかく選手たちが僕達コーチを信用してくれたこと。そしてチームが本当に一丸となって、シーズン最後まで同じ方向を向いて頑張れたことが大きかったです。

気付いている人は少なかったと思うのですが、昨シーズンのプレーオフ前に開かれた8チームの代表選手が出る会見で選手たちがCSでの目標を聞かれた時、多くの選手が「優勝を目標に頑張ります」と答えていた中で、広島ドラゴンフライズから会見に臨んだドウェイン・エバンス選手は「広島の人たちのために、一生懸命頑張ります」と答えたんです。

実はこれこそが、昨シーズンの広島ドラゴンフライズをはっきりと象徴していたシーンだったと思います。

僕達は2023-24シーズンが開幕した時から、「優勝を目指す」とは誰ひとり口にしないままこの日を迎えていました。チームとしての目標はいくつかありましたが、そのうちのひとつが「とにかくその日1日をやり切ること」。ラテン語で「Carpe diem」(カルペ・ディエム)という言葉を目標としていました。

「その日をつかめ」というその言葉通り、とにかく目の前の試合を全力で勝ちにいって日々成長しようと言い合いながらシーズンを過ごしてきたんです。

コーチ陣の間でも優勝という言葉はなるべく使わずにいようと決めていたので、プレーオフの最中も、それこそファイナルの本当に最後の最後、GAME3直前まで「優勝しよう」とは口にしなかったんです。その思いは選手たちも汲んでくれていました。

今シーズン限りで、2015年からドラゴンフライズでプレーし続けていた朝山選手(朝山正悟・現広島ドラゴンフライズヘッドコーチ)の引退が決まっていたというのもありますが、それも含めてみんなが一戦必勝の覚悟を持って、同じ方向を向いて最後まで戦えたことが優勝に繋がったのだと思っています。

ーーFINALでの対戦相手は連覇を狙う強豪・琉球ゴールデンキングス。GAME3までもつれ込んだ大接戦を制することができたのは、もうひとつの理由として挙げた戦術面も大きかったのではないでしょうか。

僕の立場から言ってしまうと自分の功績のように聞こえてしまうかもしれませんが、戦術も優勝に近付いた要因だったと考えています。

昨シーズンのひとつ前の年、2022-23シーズンで広島ドラゴンフライズは初めてチャンピオンシップに進出することができて、千葉ジェッツさんと対戦しました。結果としてクォーターファイナルで敗退しましたが、このシーズンは 得点ランキングでも上位、得点効率を表すPPP(Points Per Possession)はリーグ1位と、とても良い数字を残せたシーズンでもあったんです。

22-23シーズンでリーグでもトップクラスのオフェンシブなチームを作ることができたと実感していたので、23-24シーズンの開幕時は「オフェンス面はある程度上手くいくだろう」と思っていました。

ところが、選手の移籍はやはり大きかった。昨シーズンまで在籍していた選手がいなくなるとそれまでできていたオフェンスが同じように機能しなくなってしまったんです。

結果、開幕戦だったFE名古屋戦は連敗。前シーズンまでベストなオフェンスチームだったのに、開幕戦では70点も取れず負けてしまう試合からのスタートでした。

ーーそこからどのようにチームを立て直していったのですか?

戦術を一気に変えることにしました。今在籍している選手で何ができるかをコーチ3人で徹底的に考えて、ひとつひとつ調整していったんです。

河田選手(広島ドラゴンフライズ / 河田チリジ選手)は10月末からの合流でしたが、プレシーズンの間は彼を想定した練習ができていません。新たな選手が加入したら、その都度「どうやってその選手を活かせるか」と考えてはトライしてきました。

また、加入だけでなく、怪我などで選手が離脱してしまうこともありました。シーズン終盤の3月に寺嶋選手(広島ドラゴンフライズ / 寺嶋良選手)が負傷してしまい、最後の14、5試合を彼無しで戦うと決まった時にも、まったく別のチームを作るためさまざまな分析や調整を行いました。

ーーそれを普段の業務にプラスして行っていたとなれば、どれだけ大変だったことかと拝察します。

大変な状況ではありましたが、少しずつ少しずつ調整して、それに選手たちが応えてくれた結果として最終的にチャンピオンシップ優勝という成果が残せたのだと思っています。

今のバスケットのトレンドはヘッドコーチのやりたいバスケットを遂行していく形だとは思うのですが、そんな中で23-24シーズンのドラゴンフライズは、選手の個性やその時の状況でできることに着目していかに修正していくかというところに着目して、コーチ3人で力を合わせて頑張りました。

コーチ陣が立てた戦略を選手が遂行してくれたおかげで大きな成果を残せたことは、僕にとっても大きな自信となりました。



ーーそして今シーズンからはサンロッカーズ渋谷へとチームを移籍。まだ合流したばかりだとは思いますが、現在の心境はいかがでしょうか。

まずは、チームの目標を達成することがいちばん重要だと思っています。サンロッカーズ渋谷としての目標がCS優勝ならばCS優勝ですし、 最高勝率であれば最高勝率を出すことがそのまま僕自身の目標にもなります。

まだヘッドコーチと合流していないので明確にチームの目標が見えている状況ではないのですが(注:2024年8月1日取材当時、ルカ・パヴィチェヴィッチHCは帰国中のためまだチームへ合流していなかった)、どのような目標になったとしても、チームの目標に対して自分の全力を尽くしたいと考えています。

ーーチームのアシスタントコーチとしての目標以外に、加藤さん個人としての目標や目指したい姿などはありますか?

正直に言うと、まだ将来の目標像が明確に無いというのが本音です。ヘッドコーチをやってみたいという思いはもちろんあるのですが、一方で今の自分ではヘッドコーチに必要な経験や知識がまだ全然足りないとも思います。かといって、ずっとアシスタントコーチを続ける未来も想像しづらいところもあって。

同じことの繰り返しになってしまって申し訳ないのですが、今はとにかく目の前にある仕事を全力でやること、チームの目標にコミットして最大限力を注ぐことがそのまま僕個人の目標になっているような感覚です。



応援とは、「エナジー」





ーーでは最後に、加藤さんにとって「応援」とは何でしょうか。

僕は応援=エナジーだと思っています。

ファンの方から受け取ったエナジーを思い返すと、印象深い場面が2つあるんです。

ひとつは横浜ビー・コルセアーズ時代。僕が在籍していた頃の横浜は残留争いに毎年参加していましたし、チームとしても60試合中20勝もできないシーズンが続いていたチームでした。

勝ち試合はすごく少なかったのに、それでも当時の横浜ブースターは本当に熱い人ばかりで、ホーム・アウェイを問わず毎回足を運んでくださる方がたくさんいたんです。

だけどやっぱり足を運んでくださる試合のうち、7割は勝てないわけです。だからほとんどの試合後に落ち込んでいるのに、勝てた3割の時には一体となってものすごく喜んで、チームに最大の賛辞を与えてくれる。そんなファンの方々の姿を見て、「ファンの応援はこんなにも力になるのか」と感じました。

試合に向けた分析作業は夜中にひとりで黙々とやるものなのですが、「眠いな、疲れたな」と思った時も、分析用の映像に映るファンの方々の姿を見るたび、「この人たちの期待を裏切らないためにも頑張らなくては」といつも励まされていました。

もうひとつは広島ドラゴンフライズの試合会場での出来事です。

僕が移籍した時からすでに広島には熱狂的なファンが多くいて熱い応援を行ってくださっていましたが、23-24シーズンの試合中、会場の音楽が鳴っていないのにファンの皆さんの声だけで「広島!」コールが巻き起こったんです。クラブや会場MCが先導したわけでは無いのに、自然発生的に応援が起こってきた時は驚きました。

チームが強くなって少しずつ応援されるチームへと成長していったことも、より熱い応援を向けてもらえるようになった理由かもしれません。「こんなに熱い応援を受けられるチームになれて良かったな」と思いました。

応援というエナジーを注いでくれている人たちが、自発的にさらなるエナジーを向けようとしてくれるのは本当にすごいことです。そして、その応援をチャンピオンシップファイナルの横浜アリーナで目の当たりにした時は、とても感動しました。



応援する人はみんな、自分のエナジーを使って相手に声援を送ってくれていると思うんです。

試合が放送される日を何日も前から楽しみにしていた人、仕事を頑張って「やっと試合だ!」と思いながら来場してくれる人、みんな自身の持つエナジーを最大限チームに向けてくれています。

だからそのエナジーを受け取る側としては、ファンの方々の思いを無駄にしないよう、そして「エナジーを使って良かった」と思ってもらえるように、いただいたエナジーをより良い形に昇華したいと思っています。

ーーきっと加藤さんご自身も、きっと数多くのエナジーを受け取ってきた上に今があるんでしょうね。

……僕、こういった取材を受けたのが実は初めてで。まさか自分が取材を受けることなんてないと思っていたのですが、もしいつか取材を受けることがあれば話したいなと思っていたことがありまして。

インタビューの序盤で、バスケットから離れた生活を送っていた僕に筑波大学男子バスケ部でのコーチを勧めてくれた女の子がいたという話をしたと思うのですが、実はその子は今、僕の妻なんです。

筑波大学でのコーチも勧めてくれたし、Bリーグに進むか迷っていた時も「絶対できるからやってみなよ」と背中を押してくれました。コーチを始めたきっかけも、今コーチを続けられているのも、彼女の存在があったからなんです。

彼女はとても優秀な人で、筑波大学では選手として活躍していました。僕をコーチに誘ってくれた時は女子部で彼女もアシスタントコーチをしていて、インカレでも優勝しています。当時僕が大学院でコーチングに苦しんでいた時もバスケットをよく解っている目線から話を聞いてくれましたし、今でも叱咤激励してくれる存在です。

妻や、他にも応援してくれるたくさんの方々の応援を受けてきたから、今の僕がいると思っています。