「サッカー選手になることは決まっている」貫いた信念、そして引退後のリアル
「将来の夢」を問われた時、「サッカー選手」と答える子供も多いだろう。日本において、サッカーや野球のプロ選手は子供たちが憧れる花形の職業である。しかし、赤﨑秀平にとってプロサッカー選手になることは、幼少期から「夢」ではなく「当然のこと」として捉えられていた。そして彼はその言葉通り、早くに才能を開花させ、高校卒業時にはプロチームからのオファーを受けるほどの選手に成長。プロ入り後も数々のJ1チームで勝利に貢献してきた。彼の成長は、サッカーを通じた数々の決断と挑戦に彩られている。現役を退いたこれからの歩みは、サッカー選手としてだけでなく、ひとりの人間としてのさらなる成長へと繋がっていくだろう。現在は筑波大学の大学院に籍を置きつつ社会貢献活動を続けている赤﨑。彼が今後どのように新たな壁を見つけ、人生を切り拓いていくのか。その軌跡を追い続けることは、これまで彼を応援してきたファンにとっても大きな楽しみとなるに違いない。
Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga
Photo / Naoto Shimada
Interview date / 2024.12.18
「夢」ではなく「現実」 幼少期から抱いていたプロへの揺るぎない自信
ーー赤﨑さんはどのような少年時代を過ごしてこられたのでしょうか。
小さな頃は、串木野市(現いちき串木野市)に住んでいました。家の隣に住んでいたお兄ちゃんに、僕と2歳下の弟がいつも真似して付いていくような感じで、3人で遊ぶことが多かったです。
お兄ちゃんが「野球をやりたい」と言った日は野球をして、「芋を掘りたい」と言い出したら芋を掘りに行く、みたいな感じで本当に自由気ままな毎日を過ごしていました。
当時僕は串木野市にある神村学園という学校法人が運営している幼稚園に通っていたのですが、そこでは年長クラスになると学校のサッカー部に入ることができるんです。
隣のお兄ちゃんはサッカーに興味がなさそうだったので、僕もそれにならって入部しませんでした。でも、ある日お兄ちゃんが突然「やっぱりサッカーをやる」と言い出したんです。そこで僕も、「じゃあ僕もやる!」と言って、サッカーを始めることにしました。これが、僕とサッカーとの出会いです。
ーー幼稚園のサッカー部では、どなたがサッカーを教えていたのですか?
当時の神村学園では、高等部の女子サッカー部員が幼稚園のサッカー部に指導に来てくれていました。神村学園女子サッカー部は、毎年のように全国大会で優勝するほどの強豪チーム。そのため、幼稚園児の私たちも、非常にレベルの高い環境でサッカーを学ぶことができていたと思います。
ーー赤﨑さんは過去のインタビューで「子供時代は内気だった」と発言していらっしゃいました。幼稚園の頃からすでに内気な性格だったのでしょうか。
いえ、実は小学校まではそうでもなかったんです。僕の父は教職に就いていて、串木野市を出るタイミングで教頭になりました。教頭や校長といった役職は3年周期で学校を異動することが多く、そのたびに僕も転校することになるんです。
小学校は3校、中学校では2校に通いました。特に中学校では、3年生で転校したのでたった1年しか通っていない学校で卒業することになったんです。生活が目まぐるしく変わる環境にうまく適応できず、結果として内気にならざるを得なかった部分もあったように思います。
転校する先々でどうしても「転校生」として扱われますし、友達と仲良くなり始めた頃にはまた転校……。小学校の頃は特にそれが辛かったですね。中学校に上がると、今度は父と同じ学校に通わなければならなかったんです。それはそれで別の意味できつくて。他の生徒から「パパが歩いてるじゃん!」なんていじられることもありました(苦笑)。
ーー結果的に、内気な性格になっていったんですね。それでも、サッカーはずっと続けていたんですよね?
はい。転校して学校が変わっても、サッカークラブだけは小学校の頃から同じクラブに所属していました。「何度も転校させて申し訳ない」という思いがあったのか、両親は練習場まで1、2時間離れた場所に引っ越してからも、僕を元々のクラブに通わせてくれたんです。
メンバーが変わらず、顔なじみの仲間たちと一緒だったこともあって、クラブでは自然体の自分でいられました。振り返ると、サッカークラブという存在は、僕にとって大きな支えだったと思います。
ただ、鹿児島県は広いので、転校先によっては平日の練習に通えないこともありました。チームは阿久根市で練習をしていたのですが、家が遠すぎて通えない時期は、平日は自主練して土日のみ練習に参加する生活を送っていました。
平日の自主練は弟と一緒にやることが多かったのですが、弟は僕よりも才能に恵まれていて、どんどん先を行かれるような感覚がありましたね。
ーーそれに対して、複雑な思いもあったのでは?
多少はありました。でも、負けたくない相手が身近にいることは努力の原動力となりましたし、弟が目標にもなっていたので、結果的には良い環境だったと思います。
ーー転校や孤独な練習の日々など、不安や寂しさを感じる場面も多かったのではないですか?
確かにそういった場面もありましたが、両親の存在がとても心強かったです。
うちは両親ともに教職に就いていて、祖父は刑事をしていました。多くの人と接する職業だからなのか、僕や弟への声かけやケアを常に大切にしてくれていました。その細やかな気配りのおかげで、孤独や不安に押しつぶされることなく、サッカーに集中できる環境が整えられていたと思います。
僕がサッカーに集中できる環境を作ってくれたのも両親です。
転校先の小学校や中学校にもサッカークラブはありましたが、僕はずっと元のクラブに通い続けていました。それについて「どうして転校先のクラブに入らないの?」といった声が保護者の間でも上がっていたようで、実際に僕の耳にも届くこともありました。それでも両親は、「この子がやりたい形を尊重してあげたい」と周囲に伝え、僕が競技に集中できるよう尽力してくれました。
当時の僕は、市の選抜にも入れないようなレベルで、サッカーの能力も決して高くありませんでした。だから、両親は「絶対にプロにしたい」という思いで応援してくれていたわけではなかったと思います。ただ純粋に、「子どもを応援したい」という気持ちで支えてくれていたのだと思います。
ーー当時の赤﨑さんの将来の夢は、サッカー選手だったのでしょうか?
それが多分、少し人とは違っていたんです。
僕は神村学園のサッカー部に入った瞬間から、サッカー選手になることが「夢」ではなくなっていました。言葉にするのは難しいんですけど、夢というより「なれるもの」だと思っていたんです。「自分はサッカー選手になれる。じゃあその先をどうしようかな」という感覚。
だから、サッカー選手になることを夢だと思ったことは一度もないんです。悪く言えば、井の中の蛙だったのかもしれません。でも、それくらい自分に自信を持っていました。
ただ、幼少期にこの感覚を持っていたのは僕だけではないんですよ。僕の同期である谷口彰悟(現:シント=トロイデンVV)や三苫薫くん(ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC)とも話したことがありますが、彼らも「夢と思ったことはない」と言っていました。
「サッカー選手になることは決まっている。そのために、今自分が何をすべきかを考える」という思考ですね。
プロ契約を目前に葛藤した高校卒業後の進路。大学進学を選んだ理由とは
ーーその思考で進み続けた結果、佐賀東高校時代にはさまざまな大会で結果を残すなど大きな活躍をみせる選手へと成長しました。
高校入学時に佐賀県の高校を選んで進学したことが、僕の人生における大きな分岐点だったと思っています。
僕は鹿児島県の出身なのですが、鹿児島でサッカーをやるのであれば鹿児島実業高等学校か鹿児島城西高等学校、いずれかの強豪校に進学するのが王道なんです。僕自身も当初は鹿児島実業に進学するつもりでいました。
僕らの世代にとって、鹿児島実業の赤いユニフォームを着ることが憧れでしたし、僕もそのために中学まで頑張ってきていました。しかし、僕のちょうど1つ上が大迫勇也さん(現:ヴィッセル神戸)がいた世代だったこともあり、彼が在学していた鹿児島城西高等学校、そして神村学園、鹿児島実業高等学校など数々の強豪チームのうちどこが全国大会に出てもおかしくないほど、鹿児島県は非常に競争の激しい時代に突入していたんです。
そんな中、クラブチームの監督から「県外の高校である佐賀東高等学校に進学すれば、インターハイと選手権で全国大会に出るチャンスが在学中の3年間で6回もある。この6回の全国大会で活躍すれば、プロからも注目してもらえるから佐賀東に行くべきだ」とアドバイスを受けました。
当時は、佐賀東の監督とクラブチームの監督が福岡大学時代の同期だったこともあり、良い選手を鹿児島から佐賀に送り出し始めた時期でもありました。その流れに乗る形で、私は佐賀東高等学校へと進学しました。
ーーとはいえ、親元を離れて県外で生活するというのは、当時中学3年生だった赤﨑さんにとっても大きな決断だったのでは?
高校進学にあたり、サッカーに集中するため県外で寮生活を始めることを決めました。決意を持ち、自分で親を説得して家を出たんです。祖父からは、「鹿児島を出て行くならもう帰ってくるな」と厳しい言葉をかけられました。
ただ、そんな厳しい祖父が実はいちばん僕を応援してくれていたんです。高校時代の全国大会も県大会も、初戦から必ず試合を観に来てくれました。その応援を受けるたび、「さらに頑張らないと」という気持ちがいつも強く湧いてきました。
ーー佐賀東高校時代、赤﨑さんの名前は一躍全国に知れ渡りました。
佐賀東高校に進学すると、たまたま選抜に選ばれ、国体に出場することができました。その頃から徐々に選抜選手として選ばれる機会が増えていきました。
さらに、高校1年か2年の時、全国の年代別代表選手を選ぶための大会でプレーする機会を得ました。その場で活躍し、初めて年代別の代表に選ばれることができました。この結果、「赤﨑秀平」という名前をサッカー協会やいろいろなサッカーチームに知ってもらうことができました。
ーー佐賀東高校卒業時にはプロチームからのオファーも受けていたそうですが、大学への進学を決めました。この選択の裏にはどのような考えがあったのでしょうか。
高校2年生の時の選手権でハットトリックを達成することができた結果、全国に名前を知られるようになりました。当時の浦和レッズが注目してくださって、その流れでチーム練習にも複数回参加させていただいたのですが、その練習中に当時の監督に呼ばれ「君は取るよ」とはっきり伝えられたんです。
ただ、同時に「1年目はJ2に行って修行してもらう」とも言われました。ですが、当時の僕としてはそれもありがたい言葉だったんです。プロに入ってすぐに潰れてしまうよりも、しっかりと成長できる環境を与えてもらえることの方が大切だと思ったからです。だけど、「それであれば高卒でプロになるよりも、大学で4年間頑張って大学卒業の際に再度浦和レッズからオファーをいただけるようになりたい」という考えもありました。
小さな頃から父が「必ず教員免許を取れ」と常々口にしていたので、その考えが自然と刷り込まれていたのもあったように思いますが、いろいろと悩んだ結果、高卒でのプロ入りではなく、大学への進学を選択しました。
ーープロ入りにはタイミングもあるでしょうから、非常に悩んだのでは?
そうですね。実際にオファーがはっきりと提示された時、本当に迷いました。
おっしゃる通り、このタイミングでなければ浦和レッズからのオファーは来ないかもしれないという気持ちもあったので、親や高校の監督にもしっかりと相談して。その結果、最終的に筑波大学に進学することを自分で決断しました。
ーー数ある大学の中で筑波大学を選んだのはどういった理由で?
別の大学の練習にも参加したうえで、筑波大学の練習が面白いなと感じたからです。
ーー幼少時から身の回りの変化が多い環境に置かれていた赤﨑さんですから、高校、大学と同じ環境でサッカーに打ち込めたことは大きかったのではないでしょうか。
そうですね。高校に入学した時、「入学から卒業までひとつの学校で過ごせる!」と嬉しく思ったのを覚えています。それは他の人にはなかなかない感覚かもしれませんね(笑)。
それに、高校の寮が学校内にあったこともあってサッカーに熱中できる環境が整っていたんです。朝5時から寮生だけでの朝練があって、夕方にはチームの練習。ずっとボールを蹴り続けられる幸せを感じた3年間でした。
ーー筑波大学サッカー部に対しては、どんな印象を受けましたか?
筑波大学には志の高い人たちが数多く集まっていました。入学前はそのことを意識していなかったのですが、入ってから「筑波ってすごい大学なんだな」と改めて感じました。
ーー大学時代にサッカー以外で印象的だったことや学んだことにはどういったものがありましたか?
大学では、体育専門学群という筑波大学内の学部に所属していたのですが、そこには各競技のトップ選手たちが集まっていました。そこで陸上や柔道などの競技の選手たちと一緒に過ごせたことは、とても貴重な体験でした。
世界陸上に出場している選手や、大学在学中にユニバーシアードに出るような選手たちと出会い、話をすることができた経験は、他の大学では得られない価値観を形成することに繋がったと思っています。
ーープロを目指していく日々の中、挫折を感じたことなどはなかったのでしょうか。
僕にとって、プロになれることは前提として決まっていることだったので、そのうえで「もっと上手くなりたい」と思って練習しているような感じなんですよ。だから、結果が出ない時期や周りから見たら挫折と思われるようなことも、挫折だとは感じませんでした。
もちろん、僕よりも上手い人はたくさんいましたが、その環境の中でも常に「この人よりも上手くなりたい」という純粋な気持ちが上回っていたんです。
ーー大変なことがあっても、それを「より上手くなるための課題との出会い」として捉えながら過ごしておられたんですね。
おっしゃる通り、周りから見ると努力だと思われること、例えばシュートを100本打つようなことも、僕にとっては「自分に必要だからやっているだけ」で、全く苦ではありませんでした。
挑戦の連続だったプロキャリア
ーー大学卒業後は鹿島アントラーズへ入団されましたが、高校卒業時にオファーがあった浦和レッズへの道も考えられたのでは?
もちろん考えました。高校卒業時に声をかけていただいたこともあり、浦和レッズへの思い入れは強かったです。ただ、自分の課題を克服したいという思いもあり、どのチームに入団するべきかは非常に迷いました。
大学1年の時に個人タイトルをすべて獲得し、大学2年ではユニバーシアードで優勝。大学4年の時にはユニバーシアードで得点王も取りました。個人としては結果を残すことができたのですが、実はチームタイトルを手にすることは一度もなかったんです。
僕にとって、「チームタイトルを手にすることができなかった」ということは、自分に欠けている部分としてとてもネガティブに捉えている部分でした。
大学卒業時にはいくつかのチームからオファーをいただき、その中には再び浦和レッズからのオファーもありました。しかし、当時のレッズはチームとして結果が芳しくない状態だったんです。
高校卒業時に声をかけていただいた経緯もあり、心情的にはレッズに行きたい気持ちは強くありました。ただ、当時のレッズはチームとして結果が芳しくなく、僕の課題である「チームタイトルを手にする」という目標を達成するためには、鹿島アントラーズへの入団が、今の自分にとって最も適した選択だと考えました。常にタイトル争いをしている鹿島というクラブでプレーすることにより、自分の足りない部分を埋められると思ったんです。
ーー他のメディアでのインタビューで、「プロ入り後に、自分に飽きてしまった瞬間があった」とおっしゃっていましたよね。それは、ご自身のどういった部分に対しての言葉だったのでしょうか。
鹿島への入団後、「チームでのタイトルを獲りたい」という目標はすぐに叶えることができましたし、ニューヒーロー賞をいただくこともできました。ところが、いざ目標を達成してしまうと、次に何を目指せばいいかわからなくなってしまったんです。過去に受けたインタビューでは、新たな目標を見つけるのに半年ぐらいかかったその時期のことを、「自分に飽きてしまった瞬間」と表現しました。
半年ほど悩んだ末に「日本代表になりたい」という新たな目標を見つけ、そこから抜け出すことができたのですが、振り返ってみるとその半年間の停滞が日本代表への道を遠ざけたのではないかと感じています。その間に必要な努力を十分に積むことができなかったからです。
大学時代、谷口選手や三苫選手は早くから「日本代表になる」という目標に向けて努力を重ねていましたが、僕は「タイトルを取る」ことを目標にして動いていました。その差が、最終的に僕が代表になれなかった理由なのかもしれません。
ーーどこに目標を設定するかや何を目的とするかは人それぞれですから、代表になれなかった=良くなかったということではないと思いますよ。
そうですね、「僕が悪かった」「彼らが良かった」という話ではなく、彼らとは目的とそれに伴う練習の取り組み方や時間の使い方が僕とは異なっていたんだと思います。実際、僕は自分の目標を達成しましたし、彼らも彼らの目標を達成しています。違いは、目標設定とその過程やタイミングだけだったのかなと思います。
ーー鹿島アントラーズ退団後は、ガンバ大阪、川崎フロンターレ、名古屋グランパス、ベガルタ仙台など数々のチームを渡り歩いてこられました。 チームを移るにあたって人間関係を作っていくことや、目標を新たに据えて動いていくことに対しての苦労はありませんでしたか。
さまざまな環境を渡り歩くことに関しては、幼い頃からの経験があったのでまったく抵抗はありませんでした。鹿島を退団した理由は、タイトルをすべて獲得したこと、クラブワールドカップではレアル・マドリードと決勝で戦ったことで、一旦自分にとっての目標を達成したことが大きかったです。「ここでやれること」を考えた時にモチベーションが少し下がってきているように感じていたタイミングでガンバ大阪からオファーをいただき、新しい環境でチャレンジしたいという思いから移籍を決意しました。
その後移籍した各チームでも、実はいちども契約解除や、いわゆる「0円提示」をされたことはありませんでした。常に必要とされる存在でいられたことは、本当にありがたかったです。現役中、自分の意志でチームを選び、移籍し続けることができたのは幸運だったと思います。
ーー選手として求められ続けるというのは、やはり嬉しいことですよね。
そうですね、求められないとプレーし続けることもできないので。
ーーそんな中、2022年にベガルタ仙台を退団するタイミングで、海外を目指されましたよね。当時のお話を聞かせていただけますか?
ベガルタ仙台では3年契約だったのですが、入団2年目にチームがJ2に降格してしまいました。僕はプロ入りした時から「自分がプレーするのはJ1だ」という強い意思を持っていたため、これが退団を決意した理由のひとつとなりました。自分で強化部長の元に「辞めさせてください」と直接伝えに行ったのですが、これは私にとってもチームにとってもイレギュラーな出来事だったと思います。
仙台を退団後、オーストラリアのチームからオファーをいただいたのですが、僕の中でオーストラリアはサッカー後進国という印象がありました。せっかくのお話でしたが、海外に挑戦するならまずはヨーロッパでチャレンジしてみたいと思い、その話を断ってドイツのチームへと向かいました。ドイツのチームでもプレーの機会をいただけそうでしたが、より高いレベルで挑戦したいという思いからスコットランドのマザーウェルにトライアウトを受けに行くことにしました。
マザーウェルはスコットランドで常に4位〜5位を争っているようなチームで、トライアウトは1週間の予定でしたが、2日目には合格の評価をいただきました。そのまま「契約書にサインをしてほしい」というところまでは話がスムーズに進んだのですが、その後肝心の契約書がなかなか出てこなかったんです。
こういったことは海外ではよくある話だと後から知りましたが、当時の僕にとっては、パフォーマンスを見せて合格をもらったのに契約が進まない状況が非常にもどかしく感じられました。その影響でメンタルが安定せず、「やっぱり日本に帰りたい」という思いが強くなってしまったのです。
マザーウェルから日本に帰ると伝えた際、選手たちからは「なんで帰るんだ」と強く怒られました。彼らはずっと僕のパフォーマンスを見てくれていたからこその反応だったと思います。しかし、契約書がいつ出てくるのかわからない状況が続くことは耐えられませんでした。文化の違いと言えばそれまでですが、僕にとってはとてももどかしく、苦しい期間でした。
ーー結局、契約書が出てこなかった理由は今もわからないのですか?
はい、結局理由はわからないままです。ただ、年齢的な部分や、日本人である僕がスコットランドの環境に対応できるのかなど、さまざまな要因を相手側が慎重に検討していたのかもしれません。その判断が遅れた一方で、僕自身がその結果を待てなかったということだと思います。
ただ、その後に行われるキャンプに帯同するよう監督から言われるなど、スコットランドではきちんと僕のパフォーマンスを評価して貰えました。最終的に契約までは至りませんでしたが、自分としてはここで、「僕のサッカー人生やこれまで積み重ねてきたことは間違っていなかった」というひとつの答えを得られたような感覚も感じていました。
ーー帰国後は南葛SCへ入団されました。この選択にはどのような考えがあったのでしょうか。
そもそも仙台を退団した時点、J1を出た時点で、自分はトッププレイヤーでは無くなったと判断していました。海外への挑戦はそこから海外でさらにステップアップしようという考えによるものではなく、「自分の力がどこまで通用するのか試してみたい」という気持ちで臨んだものだったんです。ですので、帰国後も再度上を目指したいというよりは、むしろ「これまで経験したことのない、さまざまな場所を見てみたい」という思いがいちばん強かった。それが南葛SCを選んだ理由にも繋がっています。
J2のチームからもオファーはありましたが、それはこれまでの自分でも可能だった選択肢なので、これまでとはまったく違う世界を見たいと考えました。とはいえやはりサッカーをプレーしない自分も想像できなかったので、最終的に「関東リーグに所属しているチームでのプロ契約」を選びました。
ーー都度新しいチャレンジを選択していった結果での入団だったのですね。
南葛SCには良い選手や上手い選手がたくさんいました。だからこそ、なぜ高いレベルでプレーできるにもかかわらず上のリーグに行けない選手がいるのかなど、サッカー界のシステムや現状を考えることも多かったです。
また、南葛SCに所属した1年間は、筑波大学の大学院にも通っていたので、サッカーだけでなく「スポーツ」という大きな枠組みで多角的に物事を考えられる時間でもありました。価値観が変わるタイミングは人それぞれですが、僕の場合は、各移籍先での出会いや地域との関わりが、自身の考え方を形作る大きな要素になったと感じています。
セカンドキャリアの構築に悩んだ半年間。サッカー界を飛び出した「赤﨑秀平」の強みとは?
ーー「トッププレイヤーでは無くなった」といった発言が先ほどありましたが、引退を考えたのはその時ですか?
そうですね。海外挑戦は「サッカー人生の最後に何を経験しようか」という発想から始まったので、仙台を退団した時点で引退は頭の片隅にありました。特にJ1のチームからオファーがなかったことで、自分の中で、自分に対しての「賞味期限」を感じました。
サッカー人生を通じて欲しかったタイトルや実績はある程度得られたという手応えもあったので、「ここまでが自分の結果だ」と納得する部分もありましたし、仕方ないという気持ちもありました。
また、当時はJ1全体に「若いJ2の選手を積極的に取って育てていく」という流れが強まり始めた時期でもありました。その流れに自分が乗れなかったというのもあります。
ーー引退を決断されるまで、自身に対して悔しさを感じる瞬間もあったのではないでしょうか。
もちろんありました。僕はまだJ1でプレーし続けられる選手だと思っていましたから。ただ、それを決めるのは自分ではなく周りの評価です。結果として、その評価を得られなかったのだと受け止めています。
ーー引退後は、いちど一般企業に就職されたそうですね。
すぐに「就職しよう」と決めたわけではなく、引退後の生活については半年ほどいろいろな選択肢を考えて悩みました。その中で、ふと「父が教員免許を取れと言っていたのは、この時のためだったのかな」と思う瞬間もありました。
教員になる道以外にも、フロントスタッフとしてサッカークラブに所属するという道もありましたが、まだ今はその時期ではないような気がして。また、これまでずっとサッカー界で生きてきたので「いちどサッカー界から一歩外に出てみたい」という気持ちもあり、一般企業への就職を決めました。「会社員として働く」という新しい挑戦をしたかったんです。僕はサッカー以外の職歴がなかったので、新しい環境ではプライドが傷つくような経験もありました。でも、その経験を通して自分を受け止められるようになった日々だったと思います。
社会に出てみて気付いたのは、サッカー界でこれまで武器にしていたものがまったく通用しないという現実でした。その中で、「サッカー以外で自分はどんな価値を提供できるのか」といった部分について、改めて考えるようになりました。
ーー一般企業への就職は、自身の最大の強みである「サッカー」以外の強みを探す大きな試練でもあったと思うのですが、赤﨑さんはどのようにして自身の強みを見つけ出すことができたのでしょうか?
僕は知人の紹介で一般企業に就職しましたが、最初は何もできない自分に直面しました。特に、自分の考えを人に伝えることができず、そのストレスは大きかったです。だけど、そのストレスを無くすためには、結局自分が伝えるスキルを上げるために行動するしかない。そこで、人により伝わるプレゼン方法を考えたり、資料の作り方を学ぶために、作り方を知っている人に会いに行くなど、なるべく多くの人に会うよう行動しました。
もうひとつは、プライドを捨てること。僕は今、学校で外部コーチを担当する仕事も行っているのですが、これは自身で作成した資料を手に「外部コーチをさせてください」とお願いしに行く飛び込み営業を行って得ることができた仕事です。最初は約30校にアプローチして、やっとひとつ決まるような感じでした。
ーー飛び込み営業に来られたサッカー部の先生はさぞ驚いたでしょうね。
たしかに、結構毎回驚かれましたね(笑)。飛び込み営業なんて過去の自分であれば絶対にできないことだったと思うのですが、それをやれるようになったのは、将来に対して悩んだ半年間があったから。「自分のプライドって意外とどうでもいいことなんだな」と気付きました。
もちろん、傷つくことや悔しい思いをすることもありますけど、でも自然と、断られても「じゃあ、次はどうやって喋ろうかな、どうやったら人に伝わるかな」と前向きに考えられるようになってきたように思います。
また、サッカー界から出て、自分の足で営業や資料作りをやるようになったことで、これまで当たり前だと思っていた環境が実は特別だったと気付くこともできました。もちろんそれまでもありがたい存在だと思っていましたが、スタッフや裏方の方々への感謝の気持ちは、より深まったように思います。
ーー自身の「サッカー以外での価値」の答えは見つけられましたか?
はい、これらの経験を通して、僕のいちばんの強みは「行動力」だと気付きました。
僕は現在33歳ですが、この先の人生では、プロサッカー選手としてのアスリート経験を活かした社会貢献活動に取り組みたいと考えています。ひとつのことを極めた人間にしかできないことや果たすべき使命があると感じていますし、自分には人を巻き込む力があるとも思っています。その力を存分に活かしていくために、今具体的に何をするべきか模索している最中です。
ーー赤﨑さんは能登半島の地震災害地域に足を運び、ボランティア活動に参加されていましたよね。
自分が行動することで、誰かが能登のことを思い出してくれたり、ボランティア活動に参加したりするきっかけになればと思って行動しています。
ーー家屋の泥を一生懸命掻き出す赤﨑さんの姿に、心を動かされた方も多いと思います。ご自身のnote(リンク)には「人生の1日、2日だけでいいんです。その時間を震災した場所へ向かってください。見るだけで十分です。」と書かれていました。読んだ当初は淡々とした表現だなと思いましたが、実際に足を運ぶと、何かをせずにはいられなくなると感じます。
そうですね。あのように表現しましたが、実際にあの場所を見たら人は必ず何かしら行動を起こすと思うんです。「見るだけでいい」と書いたのはそういった意図からです。「ボランティアに行ってください」と言うと少しハードルが高く感じる方もいると思うので。でも、実際にあの光景を目にすれば、必ず何かをしたいという気持ちが湧き上がる。自分がそのきっかけを作れれば、という思いです。
僕は選手時代いろんな人に応援して貰って、背中を押してきてもらったので、これからは逆の立場で恩返しをしていきたいという思いが強いんです。
ーー具体的な社会貢献の形として、どのようなものが考えられると思いますか?
誰が取り組むかによって変わると思いますが、アスリート特有の影響力を活かしたいと考えています。例えば、J1で出場機会が少ない選手であっても、地元に帰ればプロ選手はやはりスターです。そうした選手が地元で人のために何か行動を起こすだけで、それがどんな形であれ社会貢献につながると思うんです。
ゴミ拾いのような分かりやすい活動に限らず、その人が見せる行動や、発する言葉そのものが社会への貢献になると考えています。それらが積み重なることで、より大きな社会への影響力となるのではないでしょうか。
ーー赤﨑さんも、自身の出身地である鹿児島への想いは特に強い?
鹿児島はもちろん特別な土地ですが、これまで所属したクラブのある土地すべてが大切な場所だと感じています。だからこそ、各クラブが主催するイベントにお声がけいただいた際はできる限り積極的に参加するようにしています。イベントを通じて、現役時代には難しかった「サポーターの方々と直接言葉を交わす機会」を得られるのは、僕にとっても本当に嬉しいことです。
それに、僕がそういったイベントに参加することで、現役時代の僕を観たことのないイベント参加者の方々がよりクラブを好きになってくれることもあるんです。それは僕にとっての喜びでもあり、クラブに所属した者としての恩返しでもあると思っています。引退後の選手がクラブの魅力を高める一助となれるのは、そのクラブに所属した選手だからこそできる恩返しですし、ある意味ひとつの使命でもあると考えています。
ーーイベント活動に参加するようになると、選手時代とはまた違った距離感でファンと接する機会も多いのではないですか?
直近だと、土日の2日連続で開催された鹿島アントラーズ関連のイベントに参加したのですが、そこで最後まで残ってくれたおじいちゃんおばあちゃんたちが僕だけの写真を撮ってくれたんです。そこで感謝の言葉を直接伝えられるのは、今の距離感だからこそできる交流の形だなと感じています。選手時代よりも、よりダイレクトに感謝を伝えられるのは、選手時代には味わうことのできなかった喜びですね。
あと、土曜日は少し規模の大きなイベントだったのですが、裏ではスタッフの方々がずっと慌ただしく準備に動いてくださっていました。選手やOBは基本的に何もしなくていい立場ではありますが、少しでも助けになれるよう自分ができることを積極的に探したいと思った瞬間、自分の意識が現役時代とは明確に変化していることに気付きました。
サポーターやスタッフとの関係がただ一方的に支えられるものではなく、互いに支え合う形に変化していたんです。これは、今後の僕の行動にもきっと大きく影響を与える気付きだったように思います。
応援とは、「相手の本質的なところに触れられる瞬間」
ーーでは最後に。赤﨑さんにとって「応援」とは何だと思いますか?
「無償の愛」と言いたいところですが、それだけでもないんです。僕の中では、「一方的に受けるもの=応援」ではないと感じています。選手のプレーに対してサポーターが声援を送ってくれることは間違いなく力になりますし、その声は確かに「応援」です。でも僕にとっては、それだけでは完結しないものというか。
今、イベントなどでサポーターの方々と触れ合う機会が増えたことで感じているのは、応援には「相互性」が必要だということです。相手が僕のことをずっと応援してくれている行動には愛情がある。だからこそ、僕もサポーターの方々が喜ぶこと、たとえばお子さんを抱っこして写真を撮るとか、そういった行動を返したその瞬間に、はじめて「応援」が成立する気がしています。
応援という言葉は「応じる援助」と書きますが、その文字通り、お互いの気持ちや行動が交差し、通じ合うその瞬間こそが「応援」なのではないかと思います。それは単なる一方的な行為ではなく、思いや喜びが交差したり重なり合ったりする瞬間なんです。
選手時代は、圧倒的に応援を受け取る側でした。それでも、今もなおサポーターの方々は愛情を持って応援してくれる。その愛に応える形で、僕も自分自身の「ありがとう」を込めた行動をしたいし、それによってお互いの気持ちが通じ合えば、それが本当の意味での応援になるのかなと思います。