求められる声、応えたい気持ち、向き合いながら生きていく
まだ日本バスケットボール界がB.LEAGUEとしてひとつにまとまるよりも前。選手の環境もまだまだ整っておらず、プロになるのは大学卒業後が当たり前だった時代に、日本で初めて高卒でのプロ契約を果たした選手が川村卓也だ。学生時代から全国に名を轟かせ、プロ入り後も破天荒な記録を打ち立て続けた彼には、未だ熱狂的なファンが数多く存在する。しかし、2022-23シーズン終盤の短期間所属したチームを最後に、2024年2月現在まで彼の進退は不明なまま。選手としての復帰を渇望するファンの声と自身の内面を燻り続ける炎に目を背けられないままの彼は今、何を思っているのだろうか。いつも明るく人を笑わせようとおどける彼が、いつになく真剣な眼差しで語った2時間半。まさに今この瞬間、等身大の川村卓也がここにいる。
Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga
Photo / Naoto Shimada
Interview date / 2024.02.15
最初から入ったシュート。のめり込んだバスケの楽しさ
ーー自身の気質は子供の頃から変わっていないと思いますか?
何かを始めたら「自分の思う完璧な形を完成させたい」という思いは子供の頃から強い方でしたね。負けず嫌いというよりも、自分の思い描く目標や理想の形を突き詰めたくなるんです。まず最初に自分のペースがあって、その後に周りの評価がついてくるような感覚だったので、他人はあまり気にしない方でした。
ただ、興味の対象が順位やポジションを争わなくてはならない競技になってくるとその中で自分が1番上手くなることも理想に含まれてくるので、いつしか「負けたくない」と思う気持ちに繋がっていったように思います。
ーースポーツを始めたのは小4でのバスケットボールが最初?
実はその前にソフトボールをやっていたんです。当時住んでいた社宅の区画ごとのチームで小2の終わりから小3まではソフトボールをやっていました。だけど社宅に準じるチームだから人の移り変わりとともにだんだんメンバーが減ってきちゃって、最終的に人数が足りずソフトボールができなくなってしまって。
それで「他の小学校にミニバスチームがあるらしい」と見学に行ったのが僕とバスケットボールの出会いです。
ーーソフトボールをやっていたとはいえ、バスケは未経験からのスタートですよね。最初から馴染めましたか?
それが僕、なぜかシュートだけは最初から入ったんですよね。見学に行った時点ではバスケのルールも何もまったくわからない状態でしたが、単純にリングにむかってボールを投げ入れることだけは、自分で言うのも何なんですけどミニバスのコーチ達が「何かやってたの?」と驚くくらい最初からできたんです。
本格的にバスケを始めてからは、リングにボールを入れることだけじゃなく、仲間とパスをし合うことやゴールを決めた時の喜びなど、「バスケって楽しいな」と思える瞬間がどんどん増えていきました。
学年が上がるにつれ競い合うことを覚えて「あいつより上手くなりたい」「この人には負けたくない」といった思いも出てくるようになったし、練習が辛くて「行きたくないな」と思うこともあったけど、それでもここまで続けてこられたのは、始めた時に感じた「とにかく楽しい!」という思いが原点にあるからだと思います。
ーーじゃあ小学校高学年ごろの将来の夢はバスケ選手?
いや、野球選手でした(笑)。
僕が子供の頃ってまだバスケットボールでプロになることを夢見られるような時代じゃなかったんですよ。僕自身がまだ幼くてプロ組織について詳しくなかったのもありますが、テレビで流れているスポーツと言えば野球という時代だったし、職業として挙がるスポーツも当時は野球だけだったから。それに、人数が足りなくなって辞めたけど、「本当はソフトボールや野球をやりたかった」という思いもまだ持っていましたしね。
ーーバスケで将来を考えるようになったのはいつ頃だったんですか?
中2の終わりに出場した初めての全国中学校体育大会が転機でしたね。今で言うジュニアウィンターカップなんですけど、この大会で僕は県選抜選手に選ばれて当時住んでいた宮城県の代表としてベスト4まで進むことができたんです。
チーム自体は決勝戦手前で負けてしまったのですが、僕個人はその大会でベスト5賞に選ばれ、大会のプレゼンターを務めていた佐古賢一さん(現・シーホース三河シニアプロデューサー)にシューズを貰うことができました。佐古さんは僕にとって初めて会ったプロ選手。風格もオーラもあって、「これがプロ選手か!」と大きな衝撃を受けたことを覚えています。
この出会いをきっかけに「将来プロになりたい」と口に出すようになりましたし、その思いも強まっていきました。
ーー中学卒業後は岩手県立盛岡南高等学校に進学。1年時から全国に名を広く知られるほどの活躍を見せ、さまざまな大会で記録を残しました。順風満帆な生活だったように見えますが、当時悩みはあったのでしょうか。
ずっと「チームを勝たせられない」と悩んでいました。
さっき話した中学での全国大会でも結局優勝できていませんし、高1のインターハイでも勝てなかった。「どうして自分のチームは全国大会に出られないんだろう」とずっと思っていました。
仰っていただいたように、経歴や記録だけを見るとそれなりのキャリアかもしれません。だけど「なぜ自分はチームを勝たせられないのか」という思いは、常に抱えていました。
あと、これは性格的なところなのですが、オンオフをつけられないことも悩みのひとつでしたね。
バスケットボールから離れられないと言えばいいのか……。オンオフがつけられないくらいバスケットボールにのめり込んでいたので、試合に負けた後はその負けを引きずってしまって、 コート外でも気持ちが落ちた状態なことが多かったです。
バスケ以外の趣味や気分転換があればまた違ったのかもしれませんが、あいにく趣味も無いから他のことで切り替えられない。結局切り替えるためには次の試合で勝つしかないんですよね。
そうなるとやれることは練習しかないから、結局すべてがバスケットボール。
勝てなかった自分、勝たせれなかった自分を考えるとオフできなかったんです。試合が終わったら必ず試合の映像を見直して自己分析したり、失敗の原因を振り返ったりしていました。
そのおかげで考える幅が広がって自分の中に学びとして残った部分もあったとは思いますが、辛い時間も多かったですね。
ーー「チームを勝たせられない」「オンオフがバスケでしかつけられない」。この2つの悩みは、プロキャリアが始まってからも続いていたように感じます。
プロ生活の中でも、もっと上手く気持ちを切り替えられていたら、周りの人たちに自分の人間らしい部分や素直な気持ちを伝えられていたかもしれないと思います。
そう考えると全部がバスケ過ぎたのかな。
こういうところが自分の下手くそなところなんですよね。公私ともに「これ!」となったらそれしか見えなくなってしまう自分がいて……。自分としては、中高時代に形成された人格と悩みを持ったまま、そのままの状態で大人になってしまったような感覚です。
「どうせ2、3年しか持たないよ」罵詈雑言さえも自分のパワーになった
ーー川村さんは日本バスケ界初の高卒プロ選手でもあります。当時はまだまだ大卒からプロになるのが当たり前の時代。不安はなかったのでしょうか。
不安しかなかったですよ。後に知ったことですが、僕が大学に行かず高卒でプロにチャレンジすると決断した時、親は泣いていたそうです。不安定なうえ前例のない話だったし、僕を誰より知っている親だからこそ心配な親心だったと思うんですけどね。
でも、前例がないことや誰も成し遂げていないことをスタートする時って、どのジャンル、どんな人でも不安だと思うし、参考になるものがないから自分でレールを敷いて進むしかないですよね。
それに、生活面での不安はありましたがバスケットをやるうえでの不安はまったく無かった。不安と同時に自信もあったんです。
ーー少なからず風当たりの強さもあったのでは?
それはもう、風当たりはめちゃくちゃ強かったです。
同期はみんな大学バスケを4年間経験しているし、もちろんある程度の社会経験もあるから、心も体も僕より1、2ステップ進んでいる人ばかり。だから、「そこに高卒の川村が入ってもうまくいかねえよ」とか、「どうせ2、3年しか持たないよ」みたいなことをいろいろな人に散々言われました。
だけど、それも自分の力になったんですよね。「みんながダメだと思っているからこそ覆してやりたい」という気持ちが、自ずとパワーに変わっていきました。
根拠は無いけど、何を言われたとしてもバスケさえやっていれば自分は負けない気がしていたんです。
ーーこの頃の経験が、のちの「川村卓也」像を作ることになる振る舞いへと繋がっていったのでは?
それはあるかもしれないですね。多分もともと生意気な性格ではあるんですけど、当時は「より生意気に振る舞わなきゃいけない」と思っていました。
そもそも初手で舐められてる状況なんですよ。プレー以前に「高卒選手」というワードで格下に見られているわけだから、そこで自分が弱みを見せたら喰われてしまう。
だったら「コートで黙らせてやるよ」くらいの気持ちで立ち振るまっておかないと、それこそ2、3年で終わっちゃうと思ったんで、喧嘩しようが先輩に怒られようが強く振る舞って「俺はできる、やってみせる」と、周りにも自分自身にも強く言い聞かせていました。
ーーとは言え、常に気を張り続けなくてはならない状況は相当なフラストレーションだったと思います。
コート内でも必要以上にプレッシャーを掛けられるし、肘を入れられたり足をかけられたりいろいろありましたが、でもこの世界って結局数字が物を言う。だから、「結果さえ出していけばいずれ状況は変わっていく」と思っていました。
だけど、話が合わなかったり食事の機会が取れなかったりといったジェネレーションギャップのせいか、そもそもあまり口を聞いてくれなかったので、強く自己主張しないとボールが回ってこないところもあって。
ーーその状況の中、どうやって数字を勝ち取っていったんですか?
単純にスリーポイントのパーセンテージが4割を超えていれば、ヘッドコーチも「誰がシュートを打てば得点に繋がる確率が高いのか」と考えた時に、「僕に打たせろ」と指示を出しますよね。だからこそ、試合に出られた時の得点数、シュート成功率の水準、アシスト数にはこだわりました。
相手に自分を認めさせるためにはやっぱり数字を出すことが大事なので、「生意気に振る舞うなら結果を出さないと怒られるぞ」って自分にはっぱをかけることで、自らを律していました。
ーー結果、ルーキーイヤーには新人王も獲得しました。当時、将来やキャリアについてはどのように考えていたのですか?
今でこそ30代の選手も増えましたが、その頃の選手寿命って今よりずっと短かったんです。リーグや組織が整っていくにつれプロチームが増え、選手がバスケだけで生活していける今のような環境ができてきましたが、当時はまだ社員兼プレーヤーの選手がほとんど。選手の入れ替わりも非常に激しかったからみんな30歳を迎える頃には引退していたし、社業に戻らなくてはならなくなり引退していく選手の方も、何人も見てきました。
だから僕も、当時は先のことや将来なんて考えられるような環境じゃなかったですね。
それこそプロになった当初言われた「2、3年で終わるだろう」という言葉があったから「まずは5年やってやろう」と頑張って、それがクリアできたら次は「30歳まで頑張ろう」みたいな感じ。
今より少し先を目標にして、ちょっとずつ日々を積み重ねていました。
ーー川村さんは、日本人としてはかなり早い段階でNBAに挑戦した選手のひとりでもありますよね。
2回挑戦しましたね。バスケットボール選手としてもっともっと上手くなりたいと思った時、「現役でプレーできている間に昔からの憧れであるNBAに挑戦してみたい」という思いが強くなって。
1回目のトライは20歳頃。静岡ジムラッツ(http://gymrats.juno.weblife.me/index.html)代表の岡田さんが「アメリカのエージェントが日本で良い選手を探しているから、紹介してもいいですか?」と声をかけてくださったのがきっかけです。
この時はフェニックス・サンズのサマーリーグプレイヤーとして大会2、3週間前からロサンゼルスに入ってトレーニングを重ね、最終的に少しだけでしたがNBAサマーリーグに出ることができました。
ーー海外に出てみて、どんなことを感じましたか?
日本ではそれなりに褒めて貰えていたけど、それは結局小さな世界でちやほやされていただけだったなと思ってしまうくらい、完璧に打ちのめされました。パワーも技量も、いろんな部分で全然通用しなかった。
だけど、その中で唯一戦えたのがシュートでした。「やっぱり自分の武器はシュートなんだ」と再確認できたことは、挑戦した意味になったと思います。
あとは、日本でプレイするうえで必要なこととNBAを目指すうえで求められることは根本的に違うと知ることができました。
日本のチームでエースとしてプレーするのであれば、チーム全体を見る力、シュート、アシスト、ゲームメイク全部できなくてはなりませんが、NBAは各分野に特化した選手の集まりなので、例えばディフェンスがものすごく上手ければその1点だけで契約に繋がるチャンスがあるんです。
もちろん万能な選手もいますが、そんな選手は本当に一握りの一流選手。まだ伸びしろのある若手選手たちに求められるのは、何かひとつ大きな武器を持っていることなんです。自分の武器を極めていけばNBAへの道を切り拓ける可能性があると理解できたのは、大きな学びでした。
ーー再度チャレンジしたのはその2、3年後でしたよね。
その時は、岡田さんの知人に「コービー・ブライアントのトレーニングコーチだった方が見てくれるからもう一度チャレンジしないか」と誘って貰ってのチャレンジでした。
ただ、1回目の時は金銭面でもある程度サポートいただけていましたが、この挑戦の際はすべてが自腹。でも「そんなにすごいコーチに見てもらえるなら」という好奇心だけで、アリゾナに向かうことを決めました。
ーーその時は、日本で所属していたチームからも完全に離れた状態で行ったんですよね?
当時はどこかに所属していると契約できなかったので、完全に離れて向かいました。そういう意味では生活面での負担も大きかったけど、でもキャリアを歩む過程で貯めたお金を使ってそういったチャレンジをすることは、とても有意義だと感じたので。
最終的に契約まで漕ぎ着けることはできませんでしたが、その後のスキルに繋げるためにも必要な時間だったと思っています。
ーー高卒でプロを志した時と同じく、不安があっても踏みだす力の重要さが分かるエピソードだと思います。先ほどの話然り、当時は今よりも選手にとって厳しい時代でした。酷な質問かも知れませんが、今の時代に生まれていればと思うことはありませんか?
そりゃ思いますよ。環境がまったく違いますからね。
僕は世間の皆さんがよく「バスケ暗黒時代」と呼ぶ時代を歩んできた選手のひとりなので、バスケの規模がここまで大きくなって多くのスポンサーがバックアップしてくれたり、選手ひとりひとりがちゃんとフォーカスされたりする今の時代にプレーできている選手たちに対しては羨ましい思いでいっぱいです。
なかでも何より素晴らしいと思うのは、観客でパンパンになったアリーナで試合ができることですね。
当時は一部の人気チームの試合に限りそこそこ人が入ることもありましたが、それでも入って2000人前後の規模だったはず。今みたいに「観に行きたいのにチケットが買えない」なんて状況は想像できませんでした。
多くの方々に見てもらえる環境でプレイできるのは、プレイヤーとして何より幸せなことだと思います。
「強くあるのが川村卓也だ」このイメージに縛られていた
ーーB.LEAGUEではいくつかのチームを渡り歩いてきましたが、移籍についてはどのように考えていたのでしょうか。
新しい環境でプレーしたい気持ちから移籍したことも、「もう必要ない」と言われて移籍したこともありましたが、新たな環境を悪く思ったことは一度も無いんですよ。新しいチームのファミリーとして頑張りたいといつも思っていたから、移籍そのものに対して不安を感じたことは無いです。
ーーだけど人間関係を1から構築するのってすごく大変ですよね。
いつもすごく大変です。でもその苦労も人生を豊かにしてくれるものだと思っていたから、苦ではありませんでした。だけど、それでも人間関係が上手くいかないことも正直ありました。
ーー今振り返ってみて、その原因はどこにあったと思いますか?
ひとつは、本来の僕自身と、周りが抱いている「川村卓也」のイメージが大きく違っていたこと。
それが自分のこれまでの振る舞いに起因していることは解っているんです。「話しかけづらい」「怖い」と思われて話しかけて貰えないのは、自分が若い頃、周囲に対して強く振る舞ってきた結果ですから。
だからこそ、新しい場所では自分から積極的にコミュニケーションを取ろうとしてきました。実際に話すことで今の自分を知ってもらえれば印象は変えられるはずだし、僕は人と話すのが好きだから「話しかけられないなら自分から話しかければいいや」と思っていました。
ーー今は親しい若手選手もたくさんいらっしゃる印象です。
その甲斐あってと言うか、「本っ当タクさんってバカだよね!!」ってやりとりができるくらい、フランクに付き合える若い選手も増えました(笑)。自分のアプローチを変えるだけで、ちゃんと自分を知ってもらおうとするだけで、人間関係って変えられるんですよね。
ーーだけど、一時期はそれができる環境に無かったこともまた事実だと思います。ここまでお話していて、「絶対的エース」として立ち振るうため、無理をしていた時期もあったのではないかと感じたのですが。
無理をしなくちゃいけないと思っていたんです。
最初は対等に見てもらうため、アピールするために強く振る舞わざるを得なかったのが、いつの間にか自分自身も「川村卓也は強く振る舞わなくちゃいけない」という呪縛に囚われてしまっていました。
本当の自分はそうじゃないのに、出来上がってしまった「川村卓也」のイメージに縛られて弱みを見せられない。本当はもっと人間らしい面もあったはずなのに、その表現の仕方さえわからなくなっていました。
いつのまにか自分自身をコントロールできないくらい、「強くあるのが川村卓也だ」と思い込んでしまっていたのかもしれません。
さっき、「高校時代はチームを勝たせられないことに悩んでいた」と話したじゃないですか。この悩みはプロになってからも、エースと呼ばれるようになってからもずっと持ち続けていて。それゆえに、周りに嫌な思いをさせてしまったところも多々あったと思います。
ーーちょっと意外に感じたのが、川村さんが在籍していた頃の横浜は2桁連敗が続くことも多々ある状況でしたが、その連敗を止める1勝を勝ち取るのも川村さんがいたからこそといった試合が多かった印象です。「川村のおかげで」と評されることも数多くあったはずですが、それでも自己評価としては「勝たせられなかった」という気持ちの方が強かったんですか?
たしかに自分の点数やプレーで連敗を止められたことはあったかもしれません。でもシーズンを通してみた時に、チームとしての結果はやっぱり芳しいものでは無かったので。
ファンの皆さんがどんな状況でも応援してくださるからこそ、ひとつでも多く勝ちたせたかったし、勝ちたかった。これに関しては個人スタッツ以上に、この気持ちの方がどうしても強くなっちゃうんですよね。今振り返っても、当時のファンの皆さんには本当に申し訳なかったなと思います。
ーーチームを背負う思いが、攻撃的な態度に繋がっていた部分もあったのかもしれませんね。
それはありますね。勝ちたい思いが強すぎたゆえに、自分の理想も高くなっていたし周りにも求めすぎていました。自分の理想に周りを嵌め込もうとするあまり、周りにめちゃくちゃ強く当たっていたと思います。
自分自身も「ちょっといきすぎだな」と思うこともあったんです。だけど、それ以上に勝つためにどうすればいいかを重視していたし、そんな自分の考えに巻き込まなくちゃいけないと思っていたんですよね。
ーーその思いはチームメイトだけではなく、コーチ陣やフロントまで全方位に向けられていましたね。
その通りです。「勝たなくては」という熱量を選手にもコーチにも理解してもらいたいと思っていたので、その考えが伝わっていないと感じた時はフロントにも出向きました。本当、全方向に牙を向けていましたね。
でもね、当時僕は自分の意見を正しいと思っていたけど、それだってよくよく考えれば本当は正しくなかったのかもしれません。自分の中で正論化されていただけで、人によっては間違っている意見を押し付けていただけなのかもしれないし。
ーー人によって正論が違うなら、お互いの正論を交わし合えば分かり合えるのではと思ってしまいますが……。
そう、僕も「影で文句を言うくらいなら意見をぶつけ合えばいいじゃん」と思っていたから言葉も態度も全部面に出していました。だけど、世渡り上手なのは直接言わない人の方なんですよね。
もちろんそれはそれぞれの考え方だし、何が正解だったのかはいまだにわからないけど、結果、僕からはたくさんの人が離れていきました。今考えると本当に失礼な行動がいっぱいあったから、当然なんですけどね。その後人間関係で苦労したことも結局自分の蒔いた種だから仕方がないと理解しています。
でもあの頃もっと柔軟な考えを持って、上手く立ち回ることができていれば……。変に強がったり、自分ひとりで背負い込もうとしないで、もっと周りに対して素直に表現できていれば。
実はそれこそが勝つための鍵だったのかもしれないな、と後々気付きました。
ーー西宮ストークス退団後、なかなか次のチームから声が掛からない状況について悩んでいると吐露されていましたよね。
退団の時点で、年齢も年齢だし僕自身が「まだプレーしたい」と思っていても思い通りには進まないだろうなと覚悟はしていました。僕がチームの人間なら、もう30代後半に差し掛かっている選手よりも若い選手を優先的に採って育てていきたいと考えるだろうし。
それに、ここまで話してきた通り、やっぱり自分のこれまでの立ち振る舞いで「川村卓也」というイメージや評価を著しく下げたことも自覚していましたからね。
だけどそれでも、いざ自分がプレーできないとなると「どんなに勝てなくてもコートに立てていただけで物凄く幸せだったんだな」と改めて感じました。
引退宣言をしない理由
ーー2024年2月の取材日現在、無所属の状態です。今後の進退が気になっている方も多いと思うのですが、引退宣言をしない=今もプレーできると自負している、と受け取ってもいいですか?
引退宣言についてはタイミングを失ったところも正直あるんですけど、でもそれと同時に、自分本位かも知れないけど「まだ頑張りたい」という気持ちがあるからこそ中途半端な状態になっているところもあるんですよね。
最近解説のお仕事をいただく機会も多いんですけど、試合を見ているとどうしても「自分ならどうするか」という目線で観てしまうし、その度に沸々とした思いが湧いてくるんです。
ーー具体的にどういった場面を観て感じることが多いんですか?
言葉を選ばずにいうと、無駄に頑張りすぎちゃっているプレーが多いのかなと思うんですよね。「もう少し簡単な駆け引きからシュートに繋げられるのにな」と感じる場面は多いです。試合の中で必要以上にパワーを使わなくていいところは必ずあるので、そこでもっと上手く駆け引きできれば、試合の終盤など大切な場面に集中力や体力を残しておけるのになと。
ーーそれは川村さんのプレーにも通じる考え方ですね。先程「年齢を考えると優先的に採られないだろう」と仰っていましたが、川村さんのプレースタイルであれば年齢にさほど左右されるとは思えないのですが。
仰る通り、僕は高いジャンプ能力やスピードなどの身体能力に頼ってプレーしてきたタイプの選手ではないんです。ジャンプ力やスピードに頼ってプレーしていれば加齢によって衰えることもあるかもしれませんが、僕が持つ最大の武器はシュートの精度。
実はドリブルもそんなに多く使いませんし、特に大切に考えてきたのはボールを貰うまでの過程と貰ってからの判断力なので、その部分の変化は今もあまり感じていません。自信があるからこそ、余計に「今プレーしたいな」と思っちゃうんですよね。
ーー「またコートで川村さんのプレーを観たい」と待ち望んでいる方も多くいらっしゃると思います。
「コートに戻ってくるのを楽しみにしてるよ」と声を掛けてくださるファンの方々や関係者が今もたくさんいてくれるから、その人達にまたプレーを見せたい気持ちも強いです。たとえ、綺麗な終わり方じゃなくても。
引退宣言をすること自体は、簡単だと思うんですよ。
でも、そのタイミングは自分が本当に納得できた時なのかなと思っています。ずっと応援してくれている方々にはこんな状態のまま待たせてしまって申し訳ないんですけど、でも、まだ「悔いはひとつもない」って言い切れない自分がいる以上、「引退します」とはどうしても言えなくて。
ーー自分が納得できる時って、どうなった時なんでしょうね。綺麗な終わり方ができた時、もしくは次の目標が定まった時でしょうか。川村さんは現役中にライセンス講習も受けていましたが、指導者になることは考えていないのですか?
完全に引退した後は、指導者の道に進みたいと思っています。20代中盤くらいから「引退後は指導者の道に進みたい」と思っていたので、それこそちゃんと選手としての終わりを見つけることができれば。
選手としての道をまだ望んでしまう自分と、将来の目標として指導者の道に歩みを進めるべきなのではと思う自分の間で葛藤している感じ。今、どっちにも軸足が付いてないですね。トラベリング状態です(笑)。
一同:(笑)
ーー今の状態は過去の川村さんが思い描いた形では無いかもしれませんが、一方で輝かしい記録を残し知名度もあることを考えると、バスケ界において十分成功しているとも言えます。川村さん自身は、今この瞬間、自身のことをどのように捉えていますか?
プレーができていない今の状態については単純に困っていますが、でもその反面、20代で終わると思っていたキャリアをこの歳まで全うできたと考えると、プロになった当初思い描いてたよりも長くはできたのかな。キャリアの年数だけで言ったらもしかしたらもうやりきってるんじゃないかなと思うところもあるんですよね。だけど、思い描いていた終わり方とはちょっと違うから。
ーー先ほども「綺麗な終わり方じゃなくても」と仰っていました。終わり方にわだかまりが?
ありますね。やっぱり応援してくれている方々にきちんと「今シーズンで終わります」と伝えたうえで、ラストシーズン、ラストプレイがある状態での引退を思い描いていたから。今はどの試合がラストゲームだったのかもわからないような状態ですしね。
ーー公式戦としては最後に所属していた新潟アルビレックスBBで出場した試合ですが、新潟での所属はシーズン終盤の短期間でしたし、やはり不完全燃焼感が否めないところでしょうか。
やっぱりチームとワンシーズンを共に過ごせてないのは大きいです。シーズン序盤から過ごしていれば「ここで線引きするべきだ」と思えたかもしれませんが、最後の方でうやむやになってしまったところもあったし。
でもね、新潟への所属もずっと僕を応援してくれているエージェントさんが切り開いてくれた道だったんです。その人にも、「引退するのはいつでもできる。だけどずっと何も無いところからトライしてきたお前なんだから、まだ切り拓けるかもしれない道を探して向かっていくのがお前らしいと思うし、そんなお前のことを大切に思って行動する人間がいることも覚えておいてほしいな」と言われました。
多分綺麗に現役生活を終えられる選手なんて一握りだと思うんです。
だから、さっき「ラストイヤー・ラストゲームをやるのが理想だった」と話しましたが、今はそれ以上に、たとえ綺麗な終わり方じゃなかったとしてもここまで応援し続けてくれた方々の前でプレーしたいし、現在のB.LEAGUEに対して今の自分に何ができるのか、もう一度1選手という立ち位置からトライしてみたいと思っています。
応援とは、「応えるべきもの」
ーーSPORTISTは「応援」をテーマとしたメディアなのですが、川村さんは応援に翻弄されてきた方なのかもしれませんね。応援してくれる方が本当にたくさんいて、自身もその応援に応えたい気持ちが強いから簡単に手を離せない部分もあるのかなと感じました。
僕は応援に育てて貰ったと思っていますし、応援に応えようと生きてきたことが自分のキャリアそのものですから。そう考えると、求められる声と応えたい気持ちにある意味翻弄されてきたとも言えるのかもしれませんね。
ーー試合中の応援は聞こえていましたか?
集中している時は耳に入りませんが、ある程度点差が離れてくると集中力が途切れる時も出てきちゃって、応援もヤジも聞こえていました。
ファンは「勝ち試合を見たい」と強く思うからこそチケット代や時間を使って会場へ足を運んでくれているわけだから、応援であってもヤジであっても、ファンの声には応えたいと思っていました。
ーーファンの声援や行動で印象的だった瞬間、覚えていますか?
いくつかありますが、ひとつめはB.LEAGUEになって1年目、秋田での残留プレーオフ。横浜の僕らが秋田のホーム会場で戦った試合です。
これぞ海賊!川村卓也が魅せたビーコルの大逆転勝利
(横浜ビー・コルセアーズ公式Youtubeチャンネルより)
ーー川村さんのブザービーターで横浜が勝利、秋田のB2降格が決定した試合ですね。
あの瞬間、横浜のファンは歓喜に湧いていたけど、同時に秋田のファンの方々が静まり返ったのも感じていました。秋田のファンってその熱狂的な姿から「クレイジーピンク」って呼ばれているんですよね。それほど熱狂的な方々が静かになってしまうようなことをしたんだなと感じたことは、印象的に覚えています。
ちなみにその試合のあと、僕が初めて秋田で試合を行った際のブーイングもすさまじかったんですよ。アウェイチーム入場の際に選手名がアナウンスされるんですけど、そこで日本ではなかなか聞かないくらいのブーイングが響き渡って、「さすが秋田だな」と思いました。
もうひとつは、これも残留プレーオフなんですけど横浜と富山で戦った片柳アリーナでの試合です。
最終的に僕らが勝って富山は次の試合で勝たなければ降格という危機に陥ったのですが、気落ちしている富山ブースターに向けて、さっきまで泣くほど喜んでくれていた横浜ブースター達がエールを送り始めたんです。
試合の間はファン同士も一触即発の空気感で戦っていたのに、終わった直後に相手チームを讃えて次の試合のための声援を送れるとは……。「自分たちはこういう方々に応援されてきたんだな」と、とても感慨深い気持ちになった瞬間でした。
ーー選手同士の相手をリスペクトする姿勢が、ファンにも伝わった結果だったのではないでしょうか。
どちらのチームにとってもファンはファミリーですからね。
僕、チームに関わる方々を全部ひっくるめて「ファミリー」って言葉でよく表現するんですけど、これは例えじゃなくて、結構本当にそう思っているんです。
試合後のイベントの時、素直な子供に「なんで試合中そんなに怖い顔してるの?」と聞かれるくらい試合中険しい顔になっていたこともありましたが(笑)、でも僕はファミリーを蔑ろにするようなことだけはしてこなかったつもりです。
真剣にやっているからこそ試合中は怖い表情になってしまうけど、でも試合が終わったあとは子供たちの憧れのスポーツ選手として何かを届けたいと思っていたから、例え負けた試合でも、試合後のコート1周ではせめてファンの方々と少しでもコミュニケーションが取れるようにと思いながら歩いていました。
こういうことを言うと「川村はファンサービスが良いよね」なんて言われるんですけど、僕自身はそれをサービスだと思ったことはいちども無いですからね。家族と接するのと同じように、自然体でファンのみんなと関係を築いていきたいと思っていただけなんです。
ーーそういった部分が川村さん本来の自然な姿なんじゃないですか?
そうなのかも。長い時間を掛けて、やっと気を張りすぎず自然体でいられるようになってきたのかもしれませんね。
ーー最後に、川村さんにとって「応援」とは?
やっぱり、「応えるべきもの」ですね。
応援してくれてる声や行動って、ファンの方々自身が思っている以上に、選手にとってパワーになるんです。
僕達が得点を決めた時や素晴らしいプレーが生まれた時、大きな歓声をあげてくれるじゃないですか。あれってマジで選手のギアを1段も2段も上げる要素なんですよね。
良い応援には応えたいと思いますし、罵声を浴びせられたらプレーヤーとして良いプレーで跳ね返したい。「苦しい時こそ」「うまくいってる時こそ」じゃなく、どっちの状況でも必要なものなんです、応援って。
だから、会場に足を運んで声をあげたりハリセンを叩いたりして、選手と一緒に戦ってくれると嬉しいです。ともに行動を起こしてくれるファンの姿が間違いなく選手達の力になっているということは、ここで強く伝えたいです。
あと、僕自身は良い言葉も悪い言葉も浴びせられて大きくなってきたと思っているんです。
きつい言葉を浴びせられるたび毎回傷ついてきたけど、でも厳しい言葉に背中を押されて、「エースという立場は結果を求められるものなんだ」と改めて教えて貰う機会になったこともありました。褒め称えられたり認められたりするばかりだったら、きっと僕はハングリーな気持ちを持ち続けられなかったような気もしています。
ただ、これは間違って欲しく無いんですけど、「アンチになれ」ってことじゃないですからね?誹謗中傷と叱咤激励は全然違うので。選手のケツを叩くのも応援のひとつだし、盛り上げてくれたり素晴らしい笑顔を生み出してくれたりするのも応援。いろんな形があっていいと思うんで、みんながそれぞれの応援を好きな選手やチームに届けてほしいです。
ただ、僕と同じような間違いをしないためにも、言葉選びには十分気をつけてね(笑)。