SPORTIST STORY
SWIMMER
竹村幸
MIYUKI TAKEMURA
STORY

どんな状況でも、どこにいてもーー「寄り添う」それが今の私にできる応援の形

「オリンピックに出ていない自分が、社会で何ができるのか」――。競泳選手として日本代表を経験しながらも、わずか0.06秒の差でオリンピック出場を逃した竹村幸は、引退後、この問いに悩み続けた。競技生活を終えた選手が直面する「セカンドキャリアの壁」。彼女もまた例外ではなく、引退直後は新しい環境に身を置いたものの「あなたはオリンピアンなの?」という悪意の無い言葉に傷つき、存在意義を見失いかけていたという。
しかし、そんな彼女の価値観は、偶然目にしたパラリンピックの試合とある言葉である日一変する。「オリンピックに固執していた私は、本当に大切なものを見失っていたのかもしれない」。その気づきに導かれ、現在の彼女は、女性アスリート支援やパラ水泳の普及活動、さらにはライターとしてアスリートの声を届ける仕事に力を注いでいる。「オリンピアンになれなかったからこそ、寄り添える人がいる」。そして、自分の経験を武器にすれば、また違う形で社会と繋がることができる。個人競技の光と影と向き合いながら大きな壁を乗り越え、新たな可能性を広げようとする彼女に、これまでの道のりと、これからの挑戦について聞いた。

Interview / Ai Munakata
Text / Remi Matsunaga
Photo / Naoto Shimada・Yoshitada Yamaoka
Interview date / 2025.02.13



アニメか、それとも水泳か??幼少期の小さな選択がその後の人生を決めた





――竹村さんはどんな幼少期を過ごしてこられたのでしょうか。

活発で体を動かすのが大好きな子どもでしたね。私は4人兄弟の3番目に生まれたこともあって、どちらかというと自由にのびのびと育てられた方だと思います。両親は週末になるといつも私たち兄弟を公園や動物園、山登り、プールなどいろいろなところに連れて行ってくれたので、週末は外で思い切り遊び回っていました。

姉たちは習字やそろばんなど、いろいろな習い事をしていましたが、私が習っていたのは体操教室だけ。姉と同じ体操教室に通えることがとても楽しくて、体を動かすことがさらに好きになりました。

――体操の中でも特に好きなことはありましたか?

跳び箱や、練習していた宙返りなどの大技をやるのが大好きでした。他の種目も嫌いなわけではありませんでしたが、跳び箱は得意だったこともあって、ずっと飛んでいたいと思うほど大好きでした。幼稚園の時点で10段がマックスの幼児用跳び箱の10段を余裕で飛べるくらいだったので、きっと向いていたんだと思います。

――水泳は体操を習っている頃から並行して習っていたのですか?

最初の頃は並行して習っていました。水泳を始めたきっかけは幼稚園の活動。みんなでスイミングクラブに通っていたんです。園内にプールが無かったので、毎週みんなでバスに乗って外部委託の施設に通っていました。

ただ、個人で習っている体操とは違って、水泳はあくまで幼稚園での活動の一環だったので、本来であれば卒園と同時に辞める予定だったんですけど、ちょうど卒園に差し掛かる頃に、体操の方をを辞めたくなったんですよね。大好きな『美少女戦士セーラームーン』の放送時間と体操の練習時間が重なっていてので(笑)。

当時は録画機能なんて無かったので、体操があるとセーラームーンを観られないんです。それで母に「体操を辞めたい」と伝えたら「辞めてもいいけど、体を動かせる別の習い事を探そう」と言われて。それで卒園後もスイミングを継続することにしました。

――水泳自体は、当時から楽しく習えていましたか?

スイミングに通い始める前から、夏になると家族でよくプールに行っていたのでプールには楽しい思い出がたくさんあって。だから水泳にも自然と親しみを感じて、楽しく習えていました。

ーー8歳からは選手コースに進級されたと聞きました。竹村さんはかなり早い段階で才能の兆しが見られていたのですね。

選手コースに上がる前は、他の子たちと同じように25級から1級ずつテストを受けて、進級を目指していました。通常であれば週に1〜2回、コーチの前で泳いで進級できればワッペンを貰うのですが、小学校1年生の頃にはテストのたびに飛び級で進級していたので、すぐに選手に上がる前段階の「育成クラス」に入らないかと声をかけられました。

育成クラスに入ると、週2回で18時までだった練習が、週3〜4回に。さらに、小学3年生で選手クラスに進級してからは週6回。終了も夜20時頃と、一気に練習時間が伸びました。しかも日曜日には朝練もあったので、本当に水泳漬けの毎日でした。

でも、これだけ練習が増えて大好きなアニメも観られなくなったのに続けていたことを考えると、きっとアニメ以上に水泳が好きだったんだと思います。

――当時から「プロになりたい」という思いはあったのでしょうか?

週6回の練習で、家にいるか水泳をしているかの生活でしたが、プロになりたいという意識はまったくありませんでした。

母からも、帰り道で「水泳では食べていけないから、小学校6年生ぐらいで辞める?」「中学校からは勉強しようね」と、呪文のように繰り返し言われていましたし(笑)。 だから私自身も「水泳は小学校までで終わるもの」と思っていて、続けていくようなイメージはまったく無かったです。

――竹村さん自身も継続の意思はなかったのですね。

それなのに、小学校5年生の時、トップの選手が在籍するクラスに引き抜かれたことでちょっと辞めにくくなってしまって。

当時通っていたスクールは、たまたま全国大会で総合優勝するほどの強豪だったんです。だから引き抜かれてからは、日本代表を目指すようなレベルのハードな練習が始まったのですが、当時はまだ体罰もあるような時代だったこともあり、毎日のように叩かれて楽しいとはとても思えませんでした。でも「水泳は小学校まで」と思っていたから、「それならあと1年くらい我慢しよう」と思いつつ続けていたというのが本音です。

――体罰については、ご両親もいろいろ思うところはあったでしょうね。

怒られて帰った日は、私の「ただいま」のトーンで判るみたいですごく優しかったですね。
時代背景もあったと思うし、実は怒った日はコーチが親に電話して伝えたりもしていたようですが、でも当時の私はいつ怒られるか、殴られるかといつも緊張していたので、体罰を伴う指導はやっぱり違うと思います。

――本格的に水泳を辞めようとしたことは?

あります。練習が厳しすぎて、もう辞めたいなと思ったのは5年生の時ですね。両親も、最初は「行きなさい!」と通わせようとしていましたが、最終的には私の意思を尊重してくれたんです。布団にくるまって「もうやめたい!」って言い続けていた時は「そこまで嫌ならやめようか」と同意してくれました。

それでスクールに「辞めたい」と言いに行ったら、「設定タイムを切ったら辞めてもいいよ」と言われたんです。その時提示されたタイムはスイミングの中でも強化指定選手になれるタイムで、そのタイムをクリアすれば月謝は免除されるし、スクール指定のジャージも特別仕様になるんです。

だから辞めるために一生懸命練習して、無事に提示されたタイムを切ることができたのですが、小学生にとって特別仕様のジャージってすごく魅力的で(笑)。結局、そのジャージが着たくて水泳を続けることにしました。

――実際にプロになろうと思い始めたのはいつだったと思いますか?

まず自身の意思とは別に、環境としてプロを目指す流れになってきたのが12歳、小学校6年生の時。全国大会で優勝したんです。その結果、小学校を卒業してからも水泳を続けることになりました。

ただ、うちは「水泳をやるなら勉強と両立すること」という教育方針だったので、学年1位を取るほど勉強も必死に頑張る必要がありました。しばらくは両立できていたのですが、中学2年生のときにオリンピックの強化基準タイムを切ってからはそうもいかなくなりました。海外遠征や合宿が増えてきて、努力しても勉強との両立は難しくなってきてしまったんです。

最終的に、水泳と学業のどちらかを選ばなければならないという状況に直面することになり、親と「勉強もしっかりやる」という約束をして、スポーツ推薦で進学することになりました。

ーー進学先は近畿大学附属高等学校のスポーツクラスだったそうですね。

みんながスポーツを頑張ってるクラスなので居心地は良かったんですけど、みんながトップを目指しているような環境なので、私も日本代表に入れないと居残りになるんです。それがまた、すごくプレッシャーでした。

中学校までは純粋に楽しめるものだった水泳が、高校からは比べられるものになった。だから正直にいうと、「この生活を一生続けたいか」って問われると、プレッシャーからYESと答えられるほどの魅力は感じていませんでした。

だけど、ありがたいことに周りからは期待を寄せて貰っていたので、当時は自分がやりたいというよりも期待に応えるためにやっていたように思います。

そんなモヤモヤした感情を抱えながら続けていたのですが、19歳の時、北京オリンピックの代表選考会で、私だけが落ちてしまったんです。自分以外はオリンピックに出場したのに、私だけがオリンピアンになれなかった。すごく悔しかったですね。

そこからは目の色を変えて頑張り始めました。本当にしんどかったし悔しかったけど、自分自身で意識を変えるきっかけとなった出来事でしたね。



女性アスリートの体調管理と理解の壁 アスリートの環境として本当に必要なものとは?





――大学卒業後は競泳選手として活躍されていましたが、当時はスイミングスクールに所属されていたそうですね。この頃はどのように生計を立てていたのでしょうか?

ちょうど私が入社するタイミングで、もうひとり女性選手が入社することになり、その際、会社が「アスリート社員」という枠を作ってくれました。

この制度は、一般の社員と同じ給料が支給されるものの一般的な業務にあたる必要はなく、「練習が仕事」という形です。毎月定額の給料とボーナスも支給されていましたが、日本選手権で優勝しても、代表に選ばれても、追加の報酬は一切ありません。今は成績に応じた報酬が出る仕組みになっていますが、当時は結果に関係なく固定給でした。

また、副業が禁止されており、個人スポンサーをつけることもできなかったため、基本的にスイミングスクールからの給料のみで生活していました。

――その頃は、毎日どんなスケジュールで過ごされていたのですか?

朝4時半に起きて、4時45分にはプールに到着。そこから45分間トレーニングをして、5時半から7時半まで水中練習。その後、朝ごはんを食べて、8時半~9時頃からお昼寝。12時頃まで寝て、昼食をとったら、13時にはまたプールへ。午後は、1時間のトレーニングをして、14時~16時が水中練習、16時~17時が再びトレーニング。その後、プロテインを飲んでまた仮眠。夜ごはんをしっかり食べ、お風呂でしっかり温まり、最後はストレッチで1日を締めくくっていました。

朝が早いのでその頃は常に眠たかったです。水の中にいる時間が長く疲労も蓄積するため、意識的に寝るというよりも、気がついたら寝ているような感覚でした。とにかく疲れ果てていて、水泳以外は何もできないほどの生活でした。

――学生時代から現役中まで、水泳一色の生活を送る中で、いちばん悩んだことは何でしたか?

いちばんの悩みはメンタル面でした。これまでの話を聞いてもらっても分かるように、遊ぶ時間は無く、会うのも同じ水泳仲間。同じ競技の世界で生きる人ばかりなので、当然周囲も同じような考え方を持つ人ばかり、個人競技なので結局はライバル同士です。

気分転換の機会も少なく、違う価値観に触れることもできず、常にタイムや代表選考のプレッシャーと向き合わなければならない閉塞感が、すごく苦しかったです。

さらに、体の面ではPMS(月経前症候群)がひどく、生理の2週間前になると普段の自分ではいられなくなりました。普段は楽観的な性格なのに、その期間だけは自分を責め続けたり、理由もなく涙が出たりするんです。

いちばんひどい時は、当時9階の部屋に住んでいたのですが、「飛び降りてしまおうか」と思うほど精神的に追い詰められました。結果が出ないことで、「自分には価値がない」とまで考えてしまったんです。でも、生理が始まると一転して、何事もなかったかのように普段通り過ごせるんですよね。

さすがに自分でもまずいと感じて、友達に「昨日、こんなことを考えてしまった」と話しました。すると、「すぐに病院に行った方がいいよ」と言われて。通院するようになってからは薬でホルモンバランスを調整できるようになり、PMSで苦しんでいた期間もレースや練習に落ち着いて取り組めるようになりました。

でも、もしあの時友達に相談していなかったら、翌月以降も同じように苦しんでいたと思います。当時アドバイスをくれた友達には、本当に感謝しています。

ーーPMSにはかなりの個人差がありますよね。まったく影響のない方もいれば、症状がとても重く出る方もいます。

アスリートに限らず、そもそもPMSというものを知らない方も多いですよね。精神的に弱くなることはホルモンバランスの影響なのに、「弱い自分が悪い」と思ってしまいがち。だから、「そうじゃないよ」ということを、苦しんでいる女性本人にも、そして周りの方にももっと知ってほしいなと思っています。

ーー女性同士であっても、理解を得難い場合もありますよね。

生理痛が重かったり、PMSを実感したことがないコーチに辛さを理解してもらうのは難しかったですね。言葉を尽くして説明しても「生理は病気じゃないでしょ」とシャットアウトされてしまって、まったくコミュニケーションが取れませんでした。

男性コーチの場合は、身体の作りとして自分自身がわからないものだからこそ、痛みや辛さを想像したうえで対応しようとしてくれる方が多かったのですが、女性は自身の経験値がある分、その自分自身の目盛基準でしか話してくれないので、本当に辛かったですね。

その時に、症状は人それぞれだからこそ、自分の説明書みたいなもので、不調時の向き合い方を説明ができればいいのになと思いました。

ーーたしかに説明書のようなものがあると、周囲の方もわかりやすいかもしれませんね。とはいえ、毎月まったく同じ症状という訳でもないし、そもそも家族も含めて、自分以外の他人に自分の体について話すことに抵抗を持つ人もいる。それは大人でも珍しくないので、10代の選手たちの中には誰にも話せず悩んでいる方も多いのではないでしょうか。

私自身、月経が始まった時は、はじめに水泳の先輩に相談しました。母や姉がいるので生理用品は家にあったので、先輩にいろいろ教えてもらって対処したのを覚えています。母も姉も普段から私を気遣ってくれているんだけど、体のことを家族に話すのが恥ずかしいと思ってしまったんです。

ーー家族や身近な人にも恥ずかしくて話せなかったり、話しても受け入れてもらえないかもという不安があったりする方もいると思います。そういった方々に、どんなふうに声を掛ければ良いと思いますか?

私も選手や、時には保護者の方から相談を受けることがありますが、本人は「言いたくない」、親は「聞きたい」を悩みとしていることが多いように感じています。

私は選手たちには、「必要だったら、自分の体のことを話した方がいいよ」と話すようにしています。例えば生理2日目などで思うように練習ができない時、自分の不調の原因を隠してしまうと、コーチは改善策を見つけることは難しいと思うんです。

言いたくないという感情は理解できますが、伝えないことで自分の記録と体調両方にマイナスになってしまうのであれば、それは事前に共有しておいた方がいいと思います。

ただ、コーチや親側が強制的に共有させるのは少し違うかなとは思います。今、生理やPMSについては、以前よりも多くの方に認識されるようになりましたが、「話さなくてはいけない」と強要することは違うと思っています。

男性コーチからよく「選手が体調について話してくれない」といった話を聞きますが、選手にも何を、どこまで、誰に、どうやって伝えるかを選ぶ選択肢があります。競技のためだからと言って無理に聞き出すのではなく、まずは選手が伝えやすかったり話したくなったりする環境を整えることが大事だと思います。

ーー乱暴に「親だから」「コーチとして競技のためだから」と無理に聞き出しても、選手が自身で伝えることに納得できていなければ信頼関係を壊すことになりますし、結果としてそれは競技にもプラスになりませんよね。

まずは選手の気持ちに寄り添うことが重要だと思います。話しやすい関係値を深めていくとか身体のことで困っていることがあればいつでも伝えてね」と声をかけるなど。直接伝えなくていいように記録アプリやSNSなどで伝えられるように環境を整えるのも良いのではないでしょうか。

指導するうえで情報が必要なのであれば、その必要な理由や、それを納得できるだけのコミュニケーションが事前に必要だと感じています。選手それぞれが心地良い形で体調を可視化して整えながらパフォーマンスを上げていくためにどうすれば良いのか、慎重に手探りでやっていくべきことだと思います。

ーー女性アスリート特有の悩みとして、盗撮問題もありますよね。これは私自身も過去スポーツをやっていた際に悩んでいた事柄なのですが、竹村さんも悩んだことはありましたか?

私も観客席を歩いていたらお尻だけをすごいアップで撮っているのを目撃して、スタッフに伝えて捕まえてもらったこともあります。競技中に際どい写真を撮っては切り取ってネットに載せたり、私以外にも困ったり傷ついている選手はたくさん見てきました。

ただ、この問題は発信すればするほど反応する人も多い、デリケートな問題でもあって。選手も、自衛するにしても、例えば競技で使う水着はFINAマークがついている競技用のものしか使うことができなかったり、やれることはかなり少ないんです。

この問題についてはさまざまな意見がありますが、私としては、「人が悲しむようなことはしてほしくないな」という気持ちです。撮影した写真をアップロードしたりSNSに載せたり、それに対して卑猥なコメントを選手本人も見える状態で残したりするようなことは、絶対にやめてほしいです。




――センシティブな話が続いて恐縮ですが、竹村さんはさまざまな問題に向き合う中で、適応障害にも苦しまれたとお聞きしました。自身の異変に気付いたのは、何がきっかけだったのでしょうか?

現役を引退してすぐ所属していたスイミングスクールに入社したのですが、その当時は「仕事を覚えないと」と思っていたし、仕事以外の時間も「社会に何か貢献したい」と思い、いろんな方にお会いするなどして忙しく過ごしていました。そのため、自分の異変にはまったく気づきませんでした。

だけど次第に、急に息ができなくなったり、勝手に涙が出てきたりするようになりました。そんな自分の異変に、同期の同僚が気付いてくれたんです。

その方は私と同じタイミングで入社したものの、私が競技に専念している間にキャリアを積み、その時は私の上長という立場でした。その上長が「ちょっとおかしくなっているから、いちど休もう」と声をかけてくれたんです。周りにブレーキを踏んでもらって、初めて自分の状態を自覚しました。

それまではアドレナリンが出っ放しのような状態で動いていたせいか、自分ではまったく異変に気付いていなかったんです。でもいちど立ち止まると、一気に「あ、これはもう無理だ」と実感しました。

勤務先のスイミングスクールは社員をとても大切にしてくださる企業だったので、すぐに「病院に行きなさい」と勧めてくださり、診断を受けることができました。

ーーずっと辛い症状に耐えてきていたから、感覚が少し麻痺していた部分もあったのかもしれませんね。お休みの間はどのように過ごされたんですか?

適応障害を患うと、「すごく落ち込む」「病んでしまう」などと思われがちですが、私の場合はそうではありませんでした。自分にとって負担のある環境にさえ行かなければ、普段どおり過ごせるんです。

自分自身がそのギャップに戸惑い、「なんだか都合がいいな」と悩んだ時期もありました。でも休むならしっかり休まなくてはと考え、実家に帰ってゆっくり過ごしながら、自分のこれからを見つめ直しました。

ゆっくり休んだ後は辞めずに職場復帰したいと思っていたので、体調が安定してからは会社に戻る準備も進めていました。とにかくゆっくり過ごして、自分がまた動きたくなるのを待っていたような感覚でした。

ーーご家族はどのように接してくださっていたのでしょうか。

両親は特に何も深く聞くことなく、旅行に連れ出してくれたり、ゆっくり一緒の時間を過ごしてくれました。あの時は本当に家族に救われました。

今思うと、引退してすぐは「今後の道を決めるためにたくさん行動しなくては!」と動き回っていたし、就職してからは仕事を頑張っていたので、思えば「明日の予定が特にない」と言えるほどしっかり休んだのは、引退してその時が初めてだったんですよね。

だからきっと、あのお休みは体とメンタルを整えるために必要な時間だったのかなと思っています。



生理中の運動問題、アスリートは、コーチは、保護者はどう向き合うべきか



ーー生理中の運動は一般的に推奨されていませんが、アスリートにとって毎回完全にオフにするのは難しいですよね。竹村さんは、生理中の運動についてどう考えていますか。

生理中でも運動しても大丈夫だと私は思っています。ただ、体調の波があるので、ひどい日は休んだり負荷を調整したりすることは必要かなと。

私自身も生理中は骨盤が緩みやすいので、強度の高い練習だとパフォーマンスが落ちてしまう傾向にありました。そういう時はコーチに相談をして、メニューを調整してもらっていました。体調に無理がなければ、完全に休むのではなく、コンディションに合わせて、その日できることを考えて動くことがいいと思います。

ーー10代前半のお子さんを持つ保護者は、生理中の運動についてどのように判断すればいいでしょうか?

競技ではなく習い事として水泳をしているのであれば、不安であれば生理期間中は休んでも良いんじゃないかなと思います。体も冷えますし、水圧の関係で水から出るときに出血しやすくなるので。

特に小中学生のうちにそういう経験をしてしまうと、水泳そのものに嫌な気持ちを持ってしまうことも考えられるので、辛い時は無理せず休ませてあげるのがいいかなと思います。

選手クラスで競技を頑張っている場合は、「生理だから休むのが当たり前」ではなく、「その期間に自分は何ができて何ができないのかを知っておくことも大事だと思います。生理中はお腹を温めるなど、できるだけ生理痛を緩和する工夫をしながら、練習のパフォーマンスを上げて行く方法を見つけることも大事だと思います。

ーー竹村さんは以前のインタビューで、「生理の問題を隠さなくていいという認識が広がってきた今、次は、一人ひとり異なる生理との心地よい向き合い方をどう尊重するかを考えるフェーズに入ってきた」と話されていました。これを実現するための第一歩として、どのようなことから始めるのが良いと思いますか?

まず大事なのは、「できることを前提に、情報を蓄積する」こと。例えば、「この日は調子が良かった」「この日は動きづらかった」「このトレーニングはできたけど、こっちはしんどかった」といったことを記録しておくと、自分にとってのベストな対応が見えてきます。そうすると、生理がきた時に適切な判断ができるようになりますし、コーチなど周りの人に伝えたい時にも、自身の状態を具体的に伝えやすくなります。

自分の傾向や体調を把握し、その日のコンディションに納得したうえで動けるようになれば、生理を特別なものとして怖がる必要もなくなりますし、その結果、「できることがないくらいひどい状態」なら、病院に行くべきという判断にも繋がると思います。

ひどい生理痛の裏に病気が隠れている可能性もあるので、そうしたサインを見逃さないためにも、日頃からの情報の蓄積と共有が大事ですね。

ーー自分の情報を蓄積することは、アスリートに限らず一般の方にも有益ですよね。ただ、他者と共有することには難しさもありますし、特に父親や男性コーチなど異性には話しづらいと感じる人も多いと思います。

先ほども少し触れましたが、「オープンに話せる環境にはなってきたけど、絶対に話さなきゃいけないわけじゃない」ということを大前提として考えるべきですよね。無理に聞き出そうとすることは、かえって信頼関係を損ねることにも繋がりますので、そこは慎重に。

何より大事なのは、話しやすい環境をつくることだと思います。私自身は、相手と目線を合わせて話すこと、相手の要望をしっかり聞くことを徹底しています。

自分の「知りたい」という気持ちを押し付けないように、相手から意見が出やすいような環境作りから始めるのが良いと思います。ド直球に聞くのではなく、「最近困ってることある?」くらいのスタンスで、相手がどういうコミュニケーションを求めているかを探ることが大切。

ーー先程少しお聞きした体罰の話とも繋がりますが、なんでも力で強引に進めようとすれば信頼関係が崩れてしまいますよね。

そうですね。適切なコミュニケーションが取れているかどうかが重要だと思います。なぜ知りたいのかと目的が明確なら話しやすくなる場合もあるかもしれません。

何かあったときに「いつでも話せるよ」っていう空気があるだけで、安心感はあります。だから、話したくないなら無理に話す必要はなくて、ただ気持ちに寄り添うだけでも十分なんじゃないかなと思っています。



応援とは、「寄り添うこと」




ーー少し話は遡りますが、現役引退後、やりたいことはすぐに見つかりましたか?

「人の役に立ちたい」という思いはあったものの、何をしたらいいのか、何ができるのかまったくわかりませんでした。当時お世話になっていたトレーナーさんから「引退後は落ち込む人が多いから、とにかく毎日人に会ったほうがいい」とアドバイスをもらっていたので、毎日いろんな人に会いに行っていましたね。

そこで初対面の方に自己紹介するたびに、「日本代表だったってをことは、オリンピアなの?」と聞かれて、毎回傷ついていました。0.06秒足りず、リオオリンピックに出場することが叶わなかったことが、自分の中でまだ吹っ切れていなかったので…。聞かれるたびに、心をえぐられるような感覚でした。

引退後スクールに就職が決まって赴任先に行ったときも、「日本代表がコーチになります!」というポスターが貼られていて。嬉しい気持ちと同時に、オリンピックに出ていないのに恥ずかしいと感じていました。実は、東京五輪まではオリンピックそのものも見られなくて、友達が出ているレースだけパッと見るのが精一杯でした。

ーーそのコンプレックスを乗り越えたきっかけは?

東京パラリンピックの試合をテレビで観戦したことがきっかけです。

選手たちのハンディはさまざまですが、彼らは自分の持っているすべてを出し切って、自分のことに集中して一生懸命戦っていました。その姿を見て、「私はずっとオリンピックに出場することに固執していたけど、本当はスポーツってもっと大事なことをやっていたはずだったんじゃないか」と思ったんです。そのことに気付いた瞬間、涙が止まりませんでした。

さらに同じ時期に、会食の場でまた「オリンピアンなの?」と聞かれて落ち込んでいたら、隣にいた方が「変わらん変わらん!オリンピック行ってようが行ってまいがすごいやん!」と言ってくれたんです。「めちゃくちゃ失礼かもしれんけど、俺からしたらメダル取ってても誰がメダリストかなんてわからへんし」とも言われていて(笑)。

なんだかその言葉で、すごく気持ちが楽になったんです。私がずっと落ち込んだり悩んだりしていたことって、実は別の誰かから見たら大したことじゃなかったんだって。

そこから視点を変えようと思いました。「0.06秒届かなくてオリンピックに行けなかった選手」なんて、日本にはそういないですし、そんな自分だからこそ伝えられることもあるかもしれない。コンプレックスだったことを、自分の強みに変えていこうと決めました。

ーー今、当時の自分のように「オリンピアンじゃない自分に、社会で何ができるのか」と悩んでいるアスリートがいるとしたら、どんな言葉をかけますか?

オリンピックに出られる選手は限られているし、出られなかったことに悩むアスリートもたくさんいると思います。でも、それがすべてではないし、自分にしかできないことは必ずあるはずです。

私自身、すごく落ち込んでいた時期に、益子直美さんのインタビュー記事を読んで救われました。益子さんはオリンピックに出場されていませんが素晴らしい活動をされていて、その姿が当時の私の希望になったんです。

私も「オリンピアンにはなれなかったけど、なれなかった自分にしかできないことがある」と気付いた時、前を向けるようになりました。オリンピックに行けなかったことを悔しく思う気持ちは消えないかもしれない。でも、その経験を生かして誰かの役に立つことができれば、それはすごく幸せなことだと思うんです。

だから、もし今悩んでいる人がいたら、「自分の経験を武器にして、楽しい道をどんどん切り開いていってほしい」と伝えたいですね。歩み続けた結果が、きっと新しい可能性につながるはずです。

ーー現在の竹村さんはパラ水泳のコーチをしながら、女性アスリート支援につながる仕事を続けられています。ライティングなども積極的に行っていますが、まったく異なる業種に踏み出したのはなぜですか?

もともとブログを10年続けていたので、書くことが好きだったんです。それに、個人的な夢として「旅をしながら仕事をしたい」という思いもありました(笑)。

もうひとつの理由としては、私自身がインタビューの場でたくさんの人に話を聞いてもらえるようなトップの選手ではなかったからこそ、自分と同じような立場の選手たちが思いを発信できる場を作ったり、その声を広げる仕事がしたいと思いがありました。
(執筆記事:https://the-ans.jp/coaching/coaching-coaching/484448/3/

私個人の思いとして、アスリートの価値は「結果を出すこと」だけではないと思っています。アスリートは、地域とつながるハブになったり、社会課題解決のきっかけになったりする存在にもなれる。だからこそ、そうした活動をしている人にもスポットを当てたいと思っています。

その流れで、「そういう活動をしている選手と併走したい」と思ってくれる企業が増えたらいいなとも思っています。そうやって広がっていけば、結果的にアスリートも社会も豊かになる。そのきっかけのひとつとして、社会貢献活動をもっと活用してほしいですね。

ーー最近の活動で、特に印象的だったものはありますか?

引退後、毎年「チャリティースイム」を開催しています。マスターズの水泳大会なのですが、「楽しく泳いで社会貢献ができて嬉しい」と声をいただいたことが嬉しくて印象的でしたね。

社会貢献ってハードルが高いと思うので、何か楽しみながらできる場を作れないか」と考えて、「イベントに参加して泳いでもらい、その参加費を全額寄付する」という仕組みを作ったんです。そうすれば、みんなで楽しむ時間を持ちつつ、誰かの役に立つこともできます。

去年は能登半島地震の寄付金として日本財団を通じて届けました。今年は募金箱を新たに設置し、さらに多くの方に寄付していただきました。今年は現地の方々の要望にお応えする形で、集まった寄付金でボッチャを購入し、私自身が届けに行く予定です。

イベントを通じて、みんなが「嬉しい」と言ってくれるのを見ると、「楽しさが循環する仕組み」を作れたことにやりがいを感じますし、引退した時に思い描いていた理想の形を少しずつ実現しつつあるのかな、と感じることもあります。

ーー今後さらに取り組んでいきたいことや目標は?

アスリート仲間と社会貢献活動を実施するための団体ASUWAを立ち上げました。アスリートの力で社会課題を解決できるソーシャルアクションの機会を創出できたらと思っています。また水泳以外でも、競技の枠を超えて、それぞれのスポーツがもっと盛り上がるような取り組みができたらいいなと思っています。

そしてパラ水泳のコーチとしても活動しているので、まずは選手がメダルを獲得できるようサポートすることが目標です。それと同時に、パラ水泳の認知をもっと広げることも大事にしていきたいですね。

ーー最後に、竹村さんにとって「応援」とは?

「寄り添うこと」だと思います。

私は、現役時代「頑張れ」と言われるのが苦手でした。応援の気持ちで言ってくれていても、結果が出ない時の「頑張れ」はプレッシャーに感じてしまっていました。

だから今、人に「頑張れ」と伝えるときは、必ず「応援してるよ」という言葉も一緒に添えるようにしています。どんな状況でも、どこにいても、相手の気持ちに寄り添いながら背中を押してあげることが、本当の「応援」なのかなと思っています。

益子直美さんや母をはじめ、私が憧れる女性たちはみんな、本当の意味で「寄り添う力」を持っている人たちです。私もそんなかっこいい女性になれるように、その思いを大切にしていきたいと思います。