SPORTIST STORY
BEACH SOCCER PLAYER
上里琢文
TAKUMI UESATO
STORY

ビーチで叶えた日本代表という夢、僕はこれからも球を蹴り続ける

今でこそ日本人サッカー選手が海外で活躍することはあたりまえとなったが、そのすべての選手にスポットライトが当たっているかというとそうではない。宮古島に生まれ、距離や環境といったビハインドを背負いつつものびのびとサッカーを楽しむ学生時代を過ごした上里琢文は、高卒でのプロ入り後、プロサッカーの難しさやキャリアを阻む大きなトラブルに直面しながら、それでも「サッカーを続けたい」という一心で自分が輝ける場所を探し続けた。現在ビーチサッカー選手として活躍する彼との会話で印象的だったのは、「何を始めるにしても最初はできなくてあたりまえ」という言葉だ。一見茨の道にも見える彼のアスリートとしてのキャリア。それでも長年続けてこられたのは、この言葉が示す通り努力を惜しまず素直な気持ちで目標を追いかけてきたからではないだろうか。道を塞がれても、未来が見えなくても。自身で未来を切り拓いた経験は、この先の道をも明るく照らしている。

Interview / Katsuaki Sato
Text / Remi Matsunaga
Photo / Naoto Shimada
Interview date / 2023.06.07



夢を持ち続けることが難しい、島出身ならではのビハインド





ーー上里さんは子供の頃からサッカー選手を目指していたのですか?

サッカーを始めたのは小学校1年生の時。5年生まではサッカーとバスケの両方を、同じくらいの割合で取り組んでいました。だからサッカー選手になりたいというよりは、スポーツ選手になりたいと思っていましたね。6年生になるタイミングで両親に「サッカーかバスケ、どちらかにしなさい」と言われたので、当時企業チームしかなかったバスケよりも、Jリーグで盛り上がっているサッカー選手になりたいという単純な気持ちでサッカーを選びました。

ーー高校生になるとプロを目指す過程としてJリーグのユースチームなどに入団する方も多いですが、上里さんは部活でのみサッカーを行なっていたそうですね。


宮古島ではJリーグのユースに入るなんて、とても叶う環境じゃなかったので。そもそも島に生まれた時点で、サッカーを本気で続ける選択肢があまり無いんです。

ーー宮古島に生まれてサッカーでプロを目指すなら、まず島外の強豪校に進むそうですね。

当時サッカーを前提に進学するとしたらまずは当該の強豪校に進むのが王道の進路でした。沖縄の那覇西高校、もしくは強豪と言われていた九州の国見高校か鹿児島実業高校あたりかな。でも、実際にその道を進む人はほとんどいません。僕も結局島を出ませんでした。前例がほとんど無いから、中学生の時点でスポーツ選手になる夢をみんな諦めるんです。島外に出るのも大変だし大人もみんな「どうせ無理だ」って感じだから、そのうちみんな夢を口にしなくなっちゃうんですよね。

ーー距離や交通手段の少なさというビハインドを背負っているぶん、島外に住んでいる子供よりもプロを目指すことが厳しい環境なんですね。

でも、当時の僕はその大変さをまったく感じていなかったんですよ。島外に出てから客観的に自分の置かれていた状態をみたら「あぁ大変だったんだな」と思ったけど、島にいる時はビハインドを背負っている自覚がないから、「自分は絶対プロになれる」と思っていたんです(笑)。

ーー宮古島出身のプロアスリートって、まったくいないわけではないんですよね?

少ないですけど何人かはいらっしゃいます。もう引退されてしまった方ですが、去年までJリーグで19年ずっとプレーしていた上里一将選手や、野球選手ではロッテでプレーしていた川満寛弥さん、伊志嶺翔大さん。バスケットでは今長崎ヴェルカに所属している狩俣昌也さんが宮古島出身です。

ーー上里さんは高校を卒業してすぐにプロ入りされましたよね。Jリーグってプロ野球と違ってドラフトが無いので個人交渉になると思うのですが、どのタイミングで、どんなルートで声が掛かるんですか。

最初の連絡は本人か学校にきます。多いのは学校にくるパターンで、だいたい部活の顧問から伝えられるんじゃないかな。大会に出場している時などに直接声を掛けられることもありますね。

ーー上里さんは、声を掛けられた時どんな気持ちでした?

「ついに来たか!」と(笑)。当時はプロになることの難しさを知らなかったから、無知ゆえに「やっとプロになれるのか」みたいな感覚だったんですよね。島でいちばんだから周りに敵がまったくいない無双状態だったし、沖縄からひとりだけ九州選抜のメンバーに入っていたこともあって、プロになってあたりまえというか「絶対になれる」と本当に思い込んでいたんです。

ーー周囲の反応はいかがでしたか。ご両親も喜んでくれたのでは?

「良かったね」とは言ってくれましたが、両親も実はいまいちピンときてなかったんじゃないかな。僕がずっと「プロサッカー選手になる!」って言い続けていたから、声が掛かった時には「プロになれるんだ、良かったね」と言ってくれましたが、多分具体的にどういうことなのかはよく分かっていなかったと思います。

ーーサッカーに詳しい部活の仲間や先生は喜んでくれたでしょう。

いちばんびっくりしていたのは顧問の先生で、「スカウトって本当にくるんだ」みたいな感じでしたね。島からプロになることの難しさを分かっているだけに、驚きつつも「すごいね!」と喜んでくれました。友達はみんな「やっぱり(スカウトが)来たな!」みたいな感じで、めちゃくちゃ盛り上がってくれました。



京都サンガからFC琉球へ 本意では無かったレンタル移籍





ーー生まれ育った宮古島を離れ京都サンガでプロ選手としてのキャリアをスタートさせたわけですが、実際にプロの世界へ身を投じた時、何を感じましたか?


「自分は今まで本当にサッカーをしていたのかな?」と思いました。プロのサッカーは、今までやってた競技とはまったく別物だった。宮古島にはプロの指導者なんていないので、小学校の頃は誰かのお父さんが監督をやっていたし、中学校でもサッカーなんてやったことないような先生が部活の顧問で、高校での顧問の先生も練習指導をするわけじゃない。だからプロ入りするまでの学生時代は好きなように、自由にサッカーをやっていたんです。だけどプロになった瞬間いきなり戦術の世界にはめられ制限を掛けられて、「僕が今までやってきたサッカーって何だったんだろう!?」と悩む日々が続きました。僕、それまでポゼッションという言葉すら聞いたことなかったんですよ。知識ゼロの状態でプロになってしまったので、その後めちゃくちゃ苦労しました。あと基礎体力もまったく足りていなかった。中学も高校もサッカー強豪校ではなかったので、部活の練習メニューに走り込みが無かったんです。それもあってか、他の選手たちとは体の出来が違っていて。僕以外の選手たちはみんな90分走れてあたりまえだし、むしろそうじゃなければ使えないって世界。僕はそんな風に体を作れていなかったから全然ついていけなくて、みんなが平気そうにやっている毎日の練習すら、本当に吐きそうなくらい辛かったです。

ーー強豪校出身選手の場合、入団までにある程度体も出来上がっていますもんね。

さらに基礎技術のレベルも全然違うんですよ。今まで当然のようにやれていたトラップへのプレッシャーもすごいしパスも速いから、そのふたつが同時にきたらこれまで普通にできていたはずのことが全然できない。プロになるまでは楽しかったサッカーがいきなり楽しくなくなって、それがいちばん苦しかったです。練習だけで死にそうなくらいしんどいのに毎日ひとりだけ居残り練習をさせられて、コーチに「これ以上走れるわけないっすよ!」って言いながらひたすら走って。だから1年目はみんなに追いつくだけで今年が終わるんだろうなと思っていました。当然試合になんて絶対出られないんだろうなとも。

ーーじゃあ思いがけず1年目で訪れたデビュー戦の喜びは格別だったのでは?

それが意外と、プロデビューした試合の時も「やっと来たか」くらいの気持ちだったんですよ(笑)。と言うのも、入ってすぐの頃は毎日苦しかったけど、徐々に体力がついて練習や環境に慣れ始めてからは「意外と自分はできる方なのかもしれない」と思えるようになっていたから。

ーープロ入りしたばかりの大変な状況から「意外と自分はやれるな」と思えるまで、どのくらいの期間だったんですか?

半年くらいかな。夏が終わって涼しくなってきた頃には少し余裕も出てきていたので、それからは早く試合に出たいと思っていました。だからデビュー戦はめちゃくちゃワクワクしましたね。僕のデビュー戦は降格争いをしていた試合で、「この試合で負けたら降格」みたいな状況だったんですよ。それもあってスタジアムは観客が2万人くらい入った満員状態。すごい歓声で、ピッチに入ったら監督の声もまったく聞こえない。出て行ってから振り向いて監督の方を見たら何かをめっちゃ叫んでいましたが、本当に何も聞こえないから……「コレはきたぞ、無視だ!」と(笑)。

一同:(笑)

途中交代での出場だったんですけど、「コレはもう好きにやらせてもらおう!」と決めて出ていきました。

ーー指示が聞こえないうえに満員の観衆という状況に怯む方もいると思うんですけど、その状況に怖さは感じなかったんですか?

僕の場合は、怖さはまったく感じませんでしたね。緊張もなかったです。

ーー京都サンガには3シーズン所属、その後FC琉球へと移籍されていますがこれはどういった経緯で?

京都サンガでは1年目最後で試合に出られたのですが、2年目はシーズン前に怪我をしてしまったせいで1年丸々試合に出られなかったんです。3年目の始めくらいまでの期間をリハビリに費やすことでコンディションをやっと取り戻せたのですが、ずっと休んでいたので当然試合経験は乏しいままで。FC琉球からレンタルの話をいただいたのはそんな時でした。最初はお断りしたのですが、チーム(京都サンガ)に「一度やってみろ」と言われたのでレンタルの形で移籍して、最終的にそのまま完全移籍しました。

ーー地元ではないかもしれませんが、馴染みある土地の応援を感じられる環境にはなったんですよね。

沖縄でやれること自体への喜びはありましたが、正直に言うと最初は京都やJ2の舞台でプレーし続けたい気持ちが強かったので、JFLのチームであるFC琉球に移籍すると決断するまでには大きな葛藤がありました。両親が見に来てくれるようになったり、応援してくれている人がたくさんいたり、今思うと良かったなと思うこともたくさんあるんですけど、でもJリーグの舞台に戻りたいというのが本心でした。当時はJFLからJ2やJ1のチームに入る選手なんてほぼいなくて、一旦移籍したら移籍前のカテゴリで活躍する道筋をなかなか見いだせない時代だったんです。



戦う、この意味に向き合った海外挑戦





ーーFC琉球で2シーズンプレーしたのち海外に挑戦されましたが、そのきっかけは?


FC琉球を辞めることが、そのまま海外挑戦のきっかけになりました。当時の監督を批判したことで、チームを退団することになったんです。批判をTwitter(現X)にあげたことで炎上しちゃって、チームでの居場所も無くなってしまいました。退団後に他のチームを探したりもしましたが、やっぱり日本ではもうプレーできないなと思って。でもそれでもどうしてもサッカーをしたかったので、海外での道を探すことにしました。

ーー海外のチームとは代理人を通して交渉したんですか?


そうです。一旦話を通してもらった後、現地へテストを受けに行きました。

ーー当時は海外でプレーする選手が各国に少しずつ出始めた頃だったかと思うのですが、実際に海外でプレーする本人としては、どんな気持ちで向かっていたのですか?


闘争心に溢れていました。「ここで結果を残して絶対Jリーグに戻ってやる」という思いです。

ーーここでもJリーグに戻ることを目標にしていたんですね。


移籍前のカテゴリで活躍する道を見つけるのも難しいし、そもそも日本でプレーすらできない。でもやっぱりどうしてもサッカーを続けたいと思った時に、心を入れ替えて、まったく違う場所で改めて挑んでみようと思ったんです。その気持ちを持って海外でプレーし始めたら、「Jリーグに戻りたい」という気持ちがより一層強くなりました。FC琉球の後に入団したのはオーストリアのチームでしたが、正直行き先はどこでも良かった。その時は「もう一度リスタートできる場所があれば」という気持ちだけでした。

ーー海外に出た日本人選手がよく直面するというサッカーそのものの違いについては、どうでしたか。


当時テストを受けたチームの監督には、「上手いのはわかるけどお前は戦えていない。だからどう扱えばいいのか悩んでいる」と言われました。でも同時に「お前はちゃんと戦うことさえできれば、1部リーグまでいける選手だ」とも言われたんです。とは言え、そもそも僕自身が彼の言う「戦う」の意味がわからない。どういうことなのか詳しく聞いてみたら「お前はそもそも戦ってない」と返ってきました。確かに日本でプレーしていた時も、競り合うことがあまり好きじゃないので足元のテクニックで交わすような、ぶつかることを避けるプレーを選択しがちなところがありました。僕自身に自覚があった部分を的確に指摘されたことは、改めて自分を考える大きなきっかけになりました。テストを受けたそのチームは4部リーグのチームだったのですが、そのチームの監督がものすごく惚れ込んでくれて「隣のスロバキアの1部チームを紹介するから、そこで一発で決めてきてくれ」「負けても勝ってもどっちでも良いからとにかく球際で勝負しろ、そうすれば絶対契約できるから」と他のチームを紹介してくれました。ヨーロッパの1部リーグなんて、Jリーグに戻ることを目標にしていた僕からすると願ってもないチャンスです。めちゃくちゃ気合いを入れて「思い切りやってやろう!」と挑んだら、そこでまさかの靭帯損傷。一瞬で帰国することになりました(笑)。

ーー今は笑って話してくださっていますが、当時はきっととても辛い状況でしたよね。


そうですね。でもあの監督の言葉があったおかげで、その後の考え方を大きく変えることができたので、行った意味はあったと思っています。それまでの僕は体で当たっていくことや球際で戦うことを、戦う前に諦めてしまっていた。それを「戦えない」と言われているとはっきり理解したことで、それ以降は臆さずプレーできるようになりましたし、フィジカルで負けている相手とも対等に渡り合えるようになりました。海外でのサッカーは日本でやっていた苦手なポゼッションサッカーよりも肌にあっていて、プレーしていてすごく楽しかったです。プレーだけじゃなく、海外サッカーの「結局は結果だ」という考え方や個人で打開していくようなスタイルも、自分に合っていたように思います。



ーー実際に海外リーグでプレーし始めたのは、怪我からどれくらい経ってから?


半年後です。先ほど話した4部チームの監督が「俺のチームじゃもったいない」と、改めてまた別のチームを紹介してくれたんです。結果、3部リーグのチームに加入しました。3部リーグも想像以上にすごかったです。それこそJFLよりもずっとレベルが高かった。

ーーだけど、それでもJリーグに戻りたい気持ちは変わらなかったんですよね。

戻りたい気持ちはずっと変わりませんでした。でも1部でプレーしないと戻るのは難しいだろうと考えていたので、1部でプレーできるようになるまではヨーロッパにいるつもりでした。ただ、やっぱり海外でプレーしていると応援が届きにくいんです。3部リーグでプレーしていても、日本の家族や友人、応援してくれている人たちはその試合を見ることができないし、SNSをやっている人なら「ヨーロッパで頑張っているんだな」くらいは知ることができるかもしれないけど、それでも具体的な活動内容まではわかりませんよね。僕の両親はふたりともSNSをやっていないので、当時の僕が何をしているのか、まったくわからない状態だったと思います。生活するうえでの不満や寂しさみたいなものは無かったけど、そういった部分での物足りなさは常に感じていました。

ーーJリーグでは海外選手に助っ人的な役割を求めることも多いですが、日本以外の土地でも同様に、海外選手は助っ人的な立ち回りを期待されるものですか?

それは無いですね、あくまで1選手です。何なら当時は「日本人のサッカーなんて」と少し下にみられていたくらい。「日本代表がどうした」って雰囲気なんですよ。当時でいうと日本人=ドルトムントにいた香川真司選手のこと、みたいな感じでした。ヨーロッパって、外国人枠みたいなものが無いリーグが多いんです。プレミアリーグやラ・リーガにはあるけど、他のリーグやその下のリーグには無いから、だから日本からも多くの選手が行けるんですけどね。ただ、だからこそこちらに求めてくるものもそんなに無い。僕も1試合目はメンバー外で、ベンチにすら入れませんでした。



サッカー選手としての終着点はJリーグではなくフィリピン





ーーオーストリアのチームにはハーフシーズン在籍して、その後フィリピンのチームへ移籍していますね。


オーストリアのチームではハーフシーズンの間にそこそこの結果を残せて、チームからも「来シーズンも来てくれ」と言ってもらうことができました。給料は少なかったけど、僕自身も自分がここまでやれると分かることができたチームだったので「来年もチームに残ります」と伝えて、一旦日本に帰国したんです。しかし、その後交渉が上手くまとまらず、結局そのまま日本に留まることになりました。24、5歳の時です。

ーーそこからどんな経緯でフィリピンに?

全世界で移籍期間というものが決まっているので、チームを探せる機会は半年に1回しかないんです。だから僕も半年後にまたチームを探し始めました。タイのチームからオファーを貰って現地に足を運んだりもしたけれど、そのチームとは条件が合わなくて。なかなか良いチームに巡り会えず、その頃は「もうこのまま引退しようかな」と考え始めていました。そんなタイミングで、サッカーとはまったく関係ない知人から「沖縄にサッカーをすごく好きな人がいるから一緒にボールを蹴ろうよ」と誘われて遊びに行ったんです。そうしたらその人に、「君、すごく上手いね!僕の知り合いがフィリピンでチームを持っているんだけど」と声を掛けられて、それがきっかけでフィリピンのチームに移籍することになりました。

ーーまったくサッカー業界とは違うところから繋がるなんて、驚きですね。

僕自身も最初は話半分くらいの気持ちで聞いていました。その方とも共通の知人を介して初めて会ったばかりだったし、「まさか」と思って。でもその後本当にフィリピンチームのオーナーに連絡してくれて、チームオーナーが沖縄まで会いに来てくれたんです。

ーーフィリピンではプロキャリアの半分にあたるくらいの期間を過ごしていますが、行ってみてどうでしたか?

フィリピンではサッカーがそこまで盛り上がっていないこともあり、選手としての環境は決して良いものではありませんでした。僕が最初に行ったチームはすごくお金のあるチームではなかったから、選手はみんなオーナーの持っている一軒家で一緒に暮らしていたんです。しかも1年中暑い国なのに、なんとその家にはエアコンがなかったんですよ。フィリピンでいちばん強いチームはすごくお金持ちだと聞いたから「活躍して絶対あのチームに行きたい!」と思っていました。毎日必死でしたね(笑)。だけど同時にサッカーができる楽しさも身に沁みて感じましたし、助っ人としての大変さなど新たな学びもありました。

ーー助っ人外国籍の選手は、やっぱりみんなレベルが高いんですか?

それはチームによってバラバラですね。リーグ自体がそんなに盛り上がってないから来る選手が少ないというのも理由のひとつだし、給料の問題もあるから、お金持ちのチームだけはすごく良い選手を呼んでいたり。ちなみに僕が最初に行ったチームは日本人オーナーのチームだったので、助っ人は僕を含めみんな日本人でした。

ーー上里さんはフィリピンで通算3シーズン半を過ごした後、プロキャリアを終えました。ここで引退を決めた理由は何だったんですか?

「今後もずっと海外で生活していくのは厳しいな」と思ったのと同時に、ずっと掲げていた「Jリーグに戻る」という目標にようやく手が届きそうになったけど叶わなかったことが、引退を決めた大きな理由です。先ほど少し話したフィリピンでいちばん強いチームは東南アジアで優勝できるくらいのレベルなのですが、フィリピンに渡って3年目で僕はそのチームに入団することになり、そこではアジアリーグだけでなくACL(AFCチャンピオンズリーグ)の予選にまで出場することができました。ACLの予選では「次に勝てば本戦に出られる」というところで敗退してしまいましたが、その一連の結果を通して「今、自分のコンディションはすごく良い。挑戦するならこれが最後だな」と思ったので、改めて日本でチームを探すことにしたんです。その結果、FC琉球と東京ヴェルディの練習に参加するところまでいけました。

ーー海外でいる間もずっと手放せなかったJリーグ復帰の夢に、ついに手が届きそうなところまできたのですね。

そう、何年もかかってようやくそこまで到達できたんです。だけど、最終的に入団は叶いませんでした。サッカーを続けたい気持ちもあったけど、仮にまた海外チームと契約したとしても1年契約。それを今後もずっと続けていくのは厳しいなと思ったし、自分自身に対して「サッカーのキャリアでもうこれ以上伸びることはない」と感じたので、ここで引退しようと決めました。

ーー11人制サッカーを引退した後、スポーツそのものから離れる方も多いと思うのですが、上里さんは何故ふたたびビーチサッカーで活動することになったのでしょうか。

ビーチサッカーとの出会いは知人の何気ない一言がきっかけでした。引退を考え始めてから、お世話になった人たちに挨拶に行ったんです。そこで「引退するならビーチサッカーに来なよ」と誘われて。その時僕を誘ってくれた方はビーチサッカーの日本代表選手だったのですが、それまでの僕はビーチサッカーなんて考えもしていなかったし、そういう競技があることをなんとなく認識していたくらい。さらに誘われた時は引退を考えつつもまだ今後を決めかねている時期だったので、少し悩みました。「JFLやJ3ならまだ入れるチームはある」と言われて迷いつつ、「でもそのチームに入って例えば5年後にチームが昇格してもそこで自分が切られる可能性もあるし……」とか、本当にいろんなことを考えて。だけど、小さい頃から憧れていた「日本代表」に1%でもなれる可能性があるのであれば挑戦してみたいと思ったんです。本当にまったく知識がない状態からのスタートだったことも、ビーチサッカーを選ぶ後押しになりました。まったく経験のない競技だからこそ「これから挑戦するにあたって自分が伸びる可能性があるのはこっちだな」と考えて、ビーチサッカーへの転向を決めました。



「日本代表になる」それだけが当時のモチベーションだった





ーービーチサッカーを実際に始めてみて、どうでしたか?


1日目で辞めたいと思いました(笑)。

一同:(笑)

ーー楽しくなかった?

まったく楽しくなかったです。とにかくキツいし、何にもできない。それでも続けられたのは「日本代表になれるかも」という可能性を信じていたからです。「日本代表になる」という目標だけがモチベーションでした。

ーーそれまでプロとしてプレーしてきた上里さんですし、当時はまだまだ体も動く状態でしたよね。「まだ11人制サッカーでプレーできる」という思いもありつつビーチサッカーへと転向したんじゃないかなと思うのですが、そのあたりの葛藤はなかったのでしょうか。

葛藤はありましたけど、でも「チャレンジするなら今しかない」とも思っていたから。「まだ体が動く今チャレンジしてできなかったら、絶対にできない」と思ったんです。あと、11人制サッカーをJFLやJ3のチームでやる道を選んでもビーチサッカーを選んでも、どちらにしてもアマチュアとしてやることになるので、大金を稼げるわけでは無いんですよね。どちらかで1000万円の年俸が出るなら絶対そっちを選びましたけど(笑)、でもそうじゃないなら体が動くうちに日本代表になれる道を選びたいなと思ったので。まぁそれでも、それまでやってきたサッカーの道を諦める悔しさはやっぱりありましたけどね。

ーーこれまでとは全然違ったスキルを求められる競技にゼロからチャレンジしたにもかかわらず、結果として国内屈指のビーチサッカーチームであるヴェルディに入団されたわけですから、当時は悔しい思いもあったかもしれませんが、良い選択だったのかもしれませんね。

でも僕、東京ヴェルディに入るまで1年かかっているんですよ。最初は沖縄のチームに入団したんですけど、その頃の自分は、今思い返すとビーチサッカーをやっているというより、ただ砂浜でボールを蹴って遊んでいたようなものでした。そもそもビーチサッカーという競技自体をまったく知らないので、みんながやっていたプレー内容を思い出しつつ走ったりリフティングしたりを半年間やっていただけ。練習も、強豪じゃないチームってあまり平日に練習をしないので、平日の練習に出ていたのは僕ともう1人だけでした。でも僕は当初ビーチサッカーが全然できなかったし、でも絶対日本代表になりたいという思いがあったので毎日練習していました。例えひとりでも、やるしかないですからね。あと、この半年間のあと、実は1回サッカー選手としてフィリピンに戻ったんです。コロナが蔓延し出したので日本に帰ってきたのですが、ハーフシーズンだけフィリピンでプレーしました。

ーーその状況から東京ヴェルディに繋がったのはどうして?
ビーチサッカーを始めた当初は日本代表になりたいけどどうしたらなれるのかもわからないような状態だったのですが、沖縄のチーム時代に2人でずっと一緒に練習していた選手が日本代表チームのキーパーで、「お前が本当に代表を目指すなら東京ヴェルディに行った方がいい」と、チームに繋げてくれたんです。

ーーということは、サッカーでプロ入りした時と同じく、ビーチサッカーでも未経験に近い状態で代表クラスがごろごろいるようなチームに加入したわけですね。

だから東京ヴェルディに入った時も、みんなめちゃくちゃ上手くて圧倒されました。「ここにきて正解だった」と一瞬で思いましたね。入団当初は試合にも全然出られなかったけど、「ようやくちゃんと練習できる環境にきた、ここでなら成長できる」と思えていたので苦ではなかったです。

ーー日本代表になることをモチベーションにビーチサッカーに取り組んできて、いざ2021年のFIFA Beach Soccer World Cupで日本代表に選ばれた時はどうでしたか?サッカーでプロになった時とはまた違う感覚だったのでしょうか。

全然違いましたね。今回はただ「嬉しい」だけじゃなかった。代表に入ることが決まって、嬉しくて泣きました。その当時の僕は全然まだまだだったから、まさか代表メンバーに選ばれるとは自分でも思っていなくて。コロナで予備メンバーを含めちょっと選手枠が増えたから入れたんですけど、それでも本当に嬉しかったですね。今でもアホですけどさすがに高卒でプロになったときほどアホではなかったので(笑)、一瞬でそれまであったいろんなことを思い出しました。何もわからないところからビーチサッカーを始めて、ひとりで練習していた時や移籍するまでのこと……。そういうたくさんの記憶が頭をよぎって、「やっとここまできたんだな」と思いました。あと、やっとこれまで応援し続けてきてくれた人たちが観られる場所で試合ができることも嬉しかった。海外でプレーした期間は長かったけど、やっぱり日本で、応援してくれているみんなに観てもらえる場所でプレーしたいとずっと思っていたんです。

ーー日本代表になるという上里さんの夢を実現することは、同時に地元の子供たちに夢を与えることにも繋がりますよね。

僕は地元である宮古島に恩返しがしたいとずっと願っていました。自分自身が子供の頃から大人の言葉や環境のせいで夢を諦める子供をたくさん見てきたから、宮古島の子供たちに、僕を通して夢を持ってもらいたいと思っていたんです。「宮古島からでも日本代表になれるんだぞ」って。今後引退したとしてもさらに宮古島のために何かしらやっていきたいなという思いも、日本代表になったことでより強まりました。いつか島の子供たちにサッカーを教えたりすることができるといいなと思っています。

ーー引退後、いわゆるセカンドキャリアについてはどんなスポーツ選手も多少不安を覚えるところだと思うのですが、上里さんは現時点で今後のキャリアプランを考えていますか?

今のところはまったく考えていないです。でも不安もありません。プロに入った時も、海外に出て行った時も、ビーチサッカーを始めた時も、いつも「最初はできなくてあたりまえ」と思っていたんです。ビーチサッカーとサッカーは同じ「サッカー」と名が付く競技だけど内容はまったく違っていて、11人制でプロをやっていても最初は全然できなかった。でも本気で取り組むことでできるようになりました。それは、仕事でも同じなんじゃないかなと僕は思うんです。例えば僕は今パソコンをまったく扱えないけど、いざ自分が本気でやろうと思って頑張れば絶対にできると思っています。それこそやり方が頭で解っても体がついてこなければできないスポーツと違って、確実に扱うための方法が決まっているものでもありますから。だから、「この仕事がしたい」みたいな希望もあまり無いかもしれない。結局今の自分は球を蹴る以外何もできないから、どこを選んでもゼロからのスタート。それなら何をやるとしても同じなんじゃないかなって。競技生活を完全に終えて、新しい何かに対して目標をもって100%の力を注げるようになれば、それが何であっても絶対にできると思う。ちゃんと力を注げれば何でもやれると思うし、前向きさと希望だけは常に持っているので(笑)、怖さや不安は無いです。だから早めに決断して引退しても良いのかなって、最近は考えています。



大切な、一緒に戦う仲間





ーー最後に、上里さんにとって応援とは?

仲間かな。僕は、応援してくれる人たちも僕と一緒に戦っているイメージなんです。変な言い方かもしれませんが、応援してくれる人がいるからサッカーを始めたわけでは無いので、たとえ誰ひとり応援していなくても、僕は絶対にサッカーをやるんですよ。でもそこに応援してくれる人たちの声が届いたら、それは確実に僕の大きな力になります。ファンや応援してくれる人は、いなければ競技ができない存在というわけではない。だけど、とても大切な、一緒に戦う仲間です。