SPORTIST STORY
HANDBALL PLAYER - ZEEKSTAR TOKYO
部井久アダム勇樹
ADAM YUKI BAIG
STORY

異国の熱量、静寂の夢舞台、僕を奮い立たせるすべての記憶

今まさにプロリーグ化を目指し奮起する日本ハンドボール界。その代表的なチームのひとつが、部井久アダム勇樹が所属する『ジークスター東京』だ。高校在学時には史上初の高校生日本代表選手として選出され、卒業後はハンドボール強豪国のフランス一部リーグでプロ契約を交わすなど、日本ハンドボール界の最先鋒として世界を舞台に活躍してきた彼は今、このチームでの仲間達と日本一を目指している。最初は正式加入を考えていなかったというジークスター東京との出会い、幼少期からの夢を叶えた東京オリンピック、そして来年に控えたパリ五輪への思いまで、練習前の体育館で存分に語ってもらった。

Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga 
Photo / Naoto Shimada

子供の頃から目標はオリンピック 代表を目指してハンドボールの道へ

ーーハンドボールの魅力はどんなところだと思いますか。

ダイナミックで迫力があるスポーツだと思います。コンタクトスポーツなので、僕自身も196センチで100キロ以上ありますが、そうした体格の良い選手同士が正面から強くぶつかりあう激しいプレーが見られます。あとは、シュートの場面も見応えがあると思います。コートプレーヤーが投げるいろいろなシュートと、それを止めようとするキーパーとの駆け引きがあります。身体能力が高い選手がコート中を走りまわってパスしてジャンプしながらシュートして、ぶつかりあってと、ルールをあまり知らなくても見ていて「おおっ!」て思ってもらえるんじゃないでしょうか。

ーーハンドボールは選手の交代も無制限で行えるんですよね。

コートに入れるのは7人ですが、その人数の中であれば交代は自由で、申告も必要なく、いったんコートから出た選手も戻れます。選手交代やファールなどでもほとんど時計が止まらないので、ハーフタイムをはさんで前後半30分ずつ、試合はずっと動き続けています。スピーディーでおもしろいと思いますよ。

ーーアダム選手が初めてハンドボールに触れたのは何歳の時ですか?

スポーツ自体は小学校1年生から地元チームでソフトボールをやっていたのですが、ハンドボールに出会ったのは小学校6年生の時ですね。当時福岡県内の学生を対象に行われた、県内の身体能力の高い生徒を集めて競技適性を測る『タレント発掘事業』というプロジェクトに参加したのがきっかけです。30種目くらいの競技を行ったのですが、その中でハンドボールの先生に「君ならハンドボールの日本代表になれるよ」と言われて「じゃあやってみようかな」と始めたのが最初でした。その時はハンドボールのルールも知らないような状態でしたが、実際にやってみたら面白かったんですよね。


ーー他の競技に惹かれることはありませんでしたか?

それは結構ありました。タレント発掘事業プロジェクトには小学校4年生から参加したのですが、中学校3年生までにいろいろな競技に触れたうえで、高校から何を専門にするかを最終的に決めるといった内容だったんです。だから中学と高校に上がるタイミングの2回、「自分は何をやっていくか」を決めて先生や親の前でプレゼンしなくちゃいけないんですよね。そのプレゼンの基になるものとして、これまで自分がやってきた競技の適性データが資料としてあるんです。評価はCからSで分かれていて、Sは国際大会出場レベル、Cなら適性無し。だから自ずとS競技の中から選ぶことになるんですけど、僕は結構最後の方までどの競技を選ぶか決めかねて悩んでいました。そんな時、担当の先生に「とりあえず今の段階でのS競技のピクトグラムを並べるから、自分の直感で選んでみろ」って言われて、パッと指差したのがハンドボールだったんです。それで最終的にハンドボールをやっていくことになりました(笑)。

ーー他の競技でもS評価をたくさん貰っていたのでしょうか。

体が大きかったのでそのポテンシャルだけでSをもらっていた競技もあると思いますが、S評価の競技が実は結構多くて、それもあって悩んでいたんです。でもその中でもいちばん「やっていて楽しいな」と思えたのはハンドボールだったので、最終的に選んで良かったと思っています。

ーーハンドボールは現在プロ化を目指している段階ですが、アダム選手がハンドボールを初めた当時はまだまだ競技として将来的な道筋が見えているような状況ではありませんでしたよね。それでも敢えてハンドボールを選んだのは、その時感じた「楽しい」と思える気持ちを優先した結果?

そうですね、自分が楽しんでやれる競技という部分は大きかったです。

あとは、「逆に今まだ競技人口が少ないからこそ、日本代表を狙っていける」という思いもありました。「将来オリンピックに出る」ということが選択の軸でもあったので、当時は自分のその競技での将来性や収入のことはあまり考えず、「代表に選ばれる可能性がある競技」という部分を優先した面が強かったように思います。

ーーオリンピックを志したのは何がきっかけだったのですか?

うちは子供の頃から、家族みんながスポーツを観る家だったんですよ。競技を問わず、例えばサッカーの国際試合やボクシングのタイトルマッチがあれば家族みんなで観るような感じ。父は格闘技を観るのも好きですし、母は父よりもさらに熱い(笑)。 そんな環境だったので、「オリンピックに出たい」という気持ちは自然と芽生えていました。

ーーアダム選手がスポーツの道を志す中で、両親から掛けられた印象的な言葉はありますか?

それが、僕がやる分にはあまり「こうしなさい」みたいなことを言わない両親だったんですよ。逆に褒められることもあまりなかったんですけどね。だけど高3の時、最年少で代表入りしたりフランスに行くことになったりといったことが一気にいろいろ決まった時に手紙を貰って、そこで初めて手放しに褒められたんです。手紙には「すごいことだし、誇りに思う」みたいなことを書いてあって、とても嬉しかったです。

ーーアダム選手は高校時代も、高校生として史上初の日本代表に選ばれたり数々の国際大会に出場したりと、輝かしい成績を残していらっしゃいますよね。

当時は高校で所属している部活動と日本代表として活動が同時進行で、さらに世代別の世界選手権もあったりしたのですごく忙しかったですね。海外チームのテストを受けるために国外に出ることもあったので、夏休みなんて家に2日くらいしかいられない。やっと日本に帰ってきたと思ったらすぐに新学期がスタートするような感じで、本当に目まぐるしい毎日でした。

ーー大学時代は中央大学に籍を置きつつフランスのチームに所属する形で活動されていましたが、この進路についてご両親の反応はいかがでしたか。

「海外に行こう」と決めたのは、高校時代の部活の先生に「オリンピックに出たいなら、ただ大学で活動しているだけでは厳しいのでは?」と言われたことがきっかけでした。そこから海外への道を意識するようになって、少しずつ現実的になっていったような流れです。親にも海外を考え出した段階で軽く話はしていたので、実際に海外に行くことが決まった時も特に反対されることなく、「じゃあ行っておいで」くらいのテンションでしたね。むしろ「やりたいならしっかりやってこい!」という感じで送り出してくれました。

 

思い描いた夢とは少し違っていたコロナ禍の東京オリンピック

ーーフランスで初めに所属したのは『セッソン・レンヌ・メトロポールHB2』でしたが、男女ともにオリンピックで優勝を飾るほどのハンドボール強豪国の一部リーグに身を置くことになったのは、どのような流れで?

今の代表監督でもあるアイスランド人のダグル・シグルドソン監督は当時から世界的に有名な監督で、僕を日本代表に選んでくれた方でした。だから海外を目指すと決めて、まず彼に相談したんです。そこで彼が「このチームのテストを受けてみろ」と紹介してくれたのが、『セッソン・レンヌ・メトロポールHB2』でした。高校の卒業式が終わってすぐに3週間ほどフランスに渡って練習に参加して、その後契約することになりました。

ーーとてもスムーズに決まったように感じますが、アダム選手自身もテストの時点で手応えを感じていたのですか?

いえ、最初はものすごく緊張していたので手応えを感じられるほどではありませんでした。言葉もわからないし、場の空気に圧倒されていましたね。何もわからない状態で行ってしまったので最初はあらゆることを知ることから始めるような感覚で、いろいろと戸惑いました。だけど、ハンドボールで使う言葉って意外と決まっているので、1、2週間すれば「なるほど、そういうことか」と解るようになってきました。

ーー実際にチームに合流して、どんな感想を持ちましたか?

まずは「行って良かったな」と思いました。すごくレベルが高いし、その環境に飛び込んだことで「今の日本にはこういう部分が足りていないんだな」といった問題点も具体的に把握することができました。具体的な課題や問題をきちんとわかっている選手は日本ハンドボール界にまだ少ないと思うので、大きなメリットだったと思います。あとは、プロ選手としての取り組み方やメンタリティから勉強できることも多く、選手としてのあり方を学べた時間でもありました。フランスの選手はほぼ全員がプロなので、結果で給料が変わります。一方で、日本は実業団のチームが多いので、会社の仕事をしながらハンドボールをすることになります。そうすると「ハンドボールで給料をもらっているわけではないし…」と考えてしまうことがあると思うんですよね。その点、フランスの選手たちは結果によって、下手をすれば仕事が無くなってしまいます。だから練習の段階から争う姿勢がすごく強い。チーム内でも「試合でも絶対に俺がやってやる」みたいな意識が強いので、試合前の雰囲気も日本とはかなり違いました。崖っぷちにいるからこそではないですが、選手みんなが常に自分自身にプレッシャーをかけて取り組んでいます。

ーーということは、ファンの応援もすごく熱いのでは?

もう半端ないですよ(笑)。 イメージとしてはサッカーの応援が近いですね。フランスではサッカーと同じくらいハンドボールも人気なので、遜色ないくらい応援も熱いです。あと、かなりの地域密着型なんですよね。僕がフランスで移籍したふたつめのチームの本拠地はそこまで都会では無い街だったのですが、その地域では試合開催日には街中が渋滞になってしまうくらい、みんなが体育館目掛けて集まるんです。だから会場は必ず満員。小さな子供からおじいちゃんおばあちゃんまで、たくさんの人が来てくれます。みんな地元愛が強くて、この街出身の人全員が応援してくれるような雰囲気ですね。良いプレーをした時の歓声もものすごくて、その度に「あぁここに来て良かったな」と思わされました。
特に印象に残っているのは、最初に所属した一部チームでのデビュー戦の時。初試合最初のシュートを決めた瞬間、僕もかなり興奮して大声で吠えていたんですけど、パッとベンチや観客席の方を見たらみんなが立ち上がってものすごく盛り上がってくれていて。あの時の景色は今でも頭の中にしっかりと残っています。遠い国にひとりで来て、僕のことをまったく知らない人たちが、僕のシュートでこんなに盛り上がってくれるってすごいことだなと思いました。あの光景は忘れられないですね。

ーーちなみに、フランスのリーグは3部に分かれているそうですが、下部リーグになるにつれ集客数なども変わってくるものなのでしょうか。

そこはあまり変わらないですね。2部リーグの試合であっても3000人収容規模の会場が常に満員状態ですし、3部以降は僕も詳しくないのですが、それでも結構な人数が来場していると思います。

ーーそういった部分については、日本とのギャップを大きく感じてしまいますね。

そうですね。多分フランスでは文化としてハンドボールが根付いているんだなと思います。「ハンドボールを観に行く」ということが、きっと日本よりも当たり前に人々の中にあるんでしょうね。

ーーそんな素晴らしい環境でプレーしていたアダム選手が日本に戻ったのは、やはりコロナが原因ですか?

正直、コロナが無ければ大学の4年間はずっとフランスで過ごしていたと思います。帰国する理由のひとつとなったのは、オリンピックが延期になってしまったことでした。フランスに滞在し続けることもできたのですが、代表合宿が日本国内でしかできない状況になってしまった以上、ヨーロッパにいるとどうしても参加の機会を逃してしまうことになる。オリンピックの代表チームに合流しなければ、という思いがいちばんでしたね。だからその時は、オリンピックが終わったらまたフランスに戻るつもりでした。

ーー東京オリンピックに出場したことで子供の頃からの「オリンピックに出る」という夢は叶えられたと思うのですが、反面コロナの影響もあり、思い描いていたオリンピックとは少し違った印象もあったのではないでしょうか。

たしかに、日本開催のタイミングでの出場ということで満員の国立代々木競技場を思い描いていたりもしていたのですが、実際には無観客での開催となりました。分かってはいたのですが、1試合目の選手入場で会場に入ってガラガラの観客席を見た時は、すごく寂しさを感じましたね……。会場は東京オリンピックカラーで統一されていてとても綺麗で、だからこそ残念でした。

ーーフランスリーグでの盛り上がりを知っているだけに、そのギャップは大きかったでしょうね。夢に思い描いていたオリンピックだったからこそ、寂しさもひとしおだったのではと思います。

両親には試合を直接見てもらいたいと思っていたので、そういった面でも残念でしたね。また、試合の結果としても大きな壁を感じました。日本代表は初戦で、その後決勝まで勝ち進んだデンマークと対戦したのですが、この試合については正直かなりの実力差を見せつけられました。とは言え、それ以外のチームとは僅差の試合も多かったので、少しずつ力を付けてこられた実感もこのオリンピックで得ることができました。ただ僅差とは言っても、勝ち切るためにはその点差以上の部分を埋めなくてはならないんですよね。例え1点差の試合であっても、ラスト10秒のワンプレーが勝敗を決める。勝ち切るのに必要なのは、点差以上の実力です。裏を返せばそこが足りていないから今この結果になっているんだなと思いました。

ーーそれを埋めるためには、どういった事に取り組むべきだと考えますか?

それがわかればすぐ強くなれるんですけどね(笑)。

でもひとつは経験かなと思います。海外だとチャンピオンズリーグなどのビッグマッチもかなりの数開催されているので、そういった何万人規模の大きな試合を経験する事で、どんな状況であっても落ち着いていつものプレーができるようになるのはあるような気がしています。日本ではなかなか大きな試合を経験できる機会が少ないので、場慣れじゃないですけど、練習以外の部分での経験の差を埋めることができれば海外との差は埋めていけるのではないでしょうか。そういう意味では、各々がレベルアップして海外のビッグクラブでプレーしていくのが、日本代表を強くするひとつの道のように思います。それが結果として日本のリーグをリードし、日本ハンドボール界を盛り上げていくことに繋がるんじゃないかなと考えています。

 

不慮の事故での世界選手権欠場。ファンの声が選手たちの力になった

ーー帰国当初はオリンピックが終わったら再びフランスに戻るつもりだったと仰っていましたが、2022年11月にジークスター東京に加入されています。どのような心境の変化があったのでしょうか。

実はジークスター東京との出会いはオリンピックよりも前なんです。オリンピック出場が決まった大学3年生の時、新型コロナウイルスの影響で試合もなく、部活動さえできないような状況でした。ジークスター東京はこの年に日本リーグに参入したのですが、当時は1年目ということもあり、選手の数が少なかったり主力選手が怪我をしていたりとなかなか勝てない状況が続いていて。その状況を見た大学の監督がジークスターと話をして、同級生の中村翼、1年下の蔦谷大雅とともに短期契約がまとまったんです。でもその当時は僕らもジークスター東京がどういうチームかなんてまったく知らない状況だったので、監督から話を貰ったときも正直「えぇ?」みたいな気持ちだったんですよ。だから当時は「短期移籍しても正式加入はしないですからね」みたいなことを言っていました(笑)。その時は特に 「自分はフランスに戻るんだ」という意識が強かったからというのもあったんですけどね。でも実際に入ってみたらすごく良いチームだなと思いましたし、チームを運営している方々の「東京からハンドボールを盛り上げて、スポーツビジネスとして絶対に成り立たせていく」という壮大な目標に向かって取り組む姿勢に触れたことで、チームへの印象も大きく変わりました。ジークスターでプレーしていく中で、「まずはここで日本一になりたい」と思うようになってきたんです。

ーーその心境の変化は自身でも予想していなかった?

僕自身も「まさかこういう気持ちになるとは」と思いましたね。ただ、僕は日本でプレーするとしてもプロ契約でやりたいと思っていたので、そういった条件面でも合致することができたのも正式契約に至った理由として大きかったです。まさか日本で大学卒業と同時にプロとして契約してもらえるチームがあるとはという驚きもありました。

ーー現在はジークスター東京で活躍なさっていますが、いつかまた海外でプレーしたいという想いもあるのでしょうか。

もちろんあります。だけど、今はまずジークスター東京で結果を出すことが目標ですね。

ーーところで、ジークスター東京で特に仲の良い選手はどなたなんですか?

みんなと仲は良いですが、ひとり挙げるなら隣を守っている玉川選手(玉川裕康)ですかね。僕が18歳で代表入りした時からずっと近くにいる先輩なんです。彼はイランのハーフで、お互いのルーツである国同士も近いからか顔の系統もちょっと似ているので(笑)、僕の中ではなんとなくお兄ちゃん的な存在なんです。他にもいろんな先輩方に、食事に連れていってもらっています。

ーー普段選手同士でどんな話をしているんですか?

同期の選手とはハンドボールの話をしたり、お互いの好きな漫画の熱いシーンについて語ったりもしますよ。あと、最近だとNetflixで放送している『初恋』にハマって「この芝居がやばい!」みたいなことを話しながら飲んだりしていました(笑)。

ーー体の大きな選手同士で集まっているとプライベートの場でもどうしても目立ってしまうと思うのですが、最近は街中で声を掛けられることも増えてきたのでは?

東京ではまだまだそれほどですが、地元では声を掛けられることも多いですね。東京オリンピックに出た際に地元メディアがすごく取り上げてくれたので、その影響が大きいんじゃないかと思っています。

ーー街中で声を掛けられた時のことで印象的な思い出はありますか?

友達と3人でディズニーランドに行った時、おじいちゃんおばあちゃんと孫2人で来られていた方々に「昨日テレビに出ていらっしゃいましたよね?」と声を掛けてもらったんですが、その時の僕はめちゃくちゃはしゃいでいてキャラクターの耳やサングラスを付けまくっていたのでちょっと恥ずかしかった……という思い出ならあります(笑)。ちょうどその前日に僕を特集してくださった番組が放送されていたので、おそらくそれを観てくださったんだと思うんですよね。付けていたグッズを全部はずして一緒に写真を撮りました(笑)。その時に、「あっ、自分も選手として見られているんだな」と思いましたね。

ーー選手としての知名度がハンドボールの普及に繋がっていく部分もありますよね。観客やファンの声は、ご自身の力にもなっていると思いますか?

やっぱりすごく力になりますね。きっとまだ、日本のハンドボールをどう観ればいいのか分からないという方も多いんじゃないかと思うんですよね。「応援の仕方が分からない」という感じというか……。例えば野球やサッカーは、日本でもすでに応援歌など応援の仕方や伝え方が確立されていますが、ハンドボールにはまだそれが無いように思います。フランスにいる時は「正直今日はファンのおかげで勝てたな」と感じる試合があったんです。ファンもチームの一部というか、一緒になって攻撃しているような感じ。もちろん自分がawayに行った時にやりづらさを感じた部分もありましたけどね。これが良いというわけでは無いんですが、フランスのファンの方って結構汚い言葉でいろいろ言ってくるんですよ。ベンチ裏の席は結構選手との距離が近いので、「お前!10番のお前だよ!」って振り向くまでいろいろと言われ続けるなんてこともありました(笑)。 でも、それくらい凄まじい熱量で応援しているんですよね。

ーー日本の観客の方々はみんな優しいし、それが良いところでもあるんですけどね。でもその反面、SNS上では結構えげつない言葉が飛び交ったりもしますよね。

僕自身はSNS関連で嫌な思いをしたことはこれまであまり無いのですが、それも逆に言うとまだまだということなのかもしれないですね。僕の感覚で言うと、批判されるほどまだファンがいないということでもあると思うので。例えばこの間のサッカーワールドカップでも、プレーで何かミスをしたらもう大騒ぎだったじゃないですか。でも仮に今の僕らが世界選手権に出場してミスをしても、きっと話題にもならない。ある意味批判や議論をされるくらいになって一流なのかもしれないですよね。

ーー反面、SNSの声が力になった経験などもありますか?

それはめちゃくちゃありますね! 僕、前回の世界選手権で代表としてエジプトに行っていたんですが、大会の2日前に骨折して試合に出られなくなっちゃって。結構調子も良くて、自分自身も「どのぐらいまでいけるかな」とすごく楽しみにしていたので、かなり落ち込んでいたんです。でも落ち込んでばかりいても仕方ないので、気持ちを切り替えて試合を控えた選手たちの気持ちが上がるようなモチベーションビデオを作ることに決めて、SNSでファンの人たちに応援メッセージを募ったんです。そうしたら、数百件ものメッセージが集まって。集まったメッセージに目を通している時、「これだけたくさんの人たちがチームを応援してくれていたんだ」と実感しました。励まされたのは僕だけじゃなくて、出来上がった映像を見た他の選手たちもです。感極まって泣いている人もいました。しかもその後の試合、勝ったんですよね。

ーー応援が力に変わった瞬間ですね。あと、自分が試合に出られなくなって辛い時に、出場する選手たちのために何かをしようと考えられるアダム選手も素敵だなと思いました。

いや、正直試合に出られないと決まった時はめちゃくちゃ落ち込みましたし、「もう日本に帰らせてください」と監督にも伝えたんです。だけど監督に「駄目だ、お前はチームに残ってできることをやってくれ」と言われちゃったんですよね。そうは言っても手の骨折だったからできることもそんなに無いし、最初は本当に「一体何をすればいいんだろう」といった感じでした。宿泊していた部屋はひとつ年上の選手との相部屋だったのですが、僕が怪我をしたせいで当日は部屋の中が地獄みたいな雰囲気で(笑)。 でもこれじゃ自分がいることがマイナスにしかならないなと思ったので、次の日から切り替えて自分にできることを探そうと決めたんです。だからそんな良い話なわけでもなくて、やらざるを得なかったという感じだったんですよ。

ーーそれでも自分が辛い中、なかなかできることではないと思います。チーム内で自分以外の選手を鼓舞することも応援のひとつですよね。

 

応援とは、自分を奮い立たせてくれるもの

ーー今、ジークスター東京には元フランス代表のリュック・アバロ選手も加入されています。海外の一流選手から得られる刺激などもあるのではないでしょうか。

ひとつひとつのプレーに対して、「もっとこういうふうにやってみたら」などわかりやすいアドバイスを貰えることはすごくありがたいですし、フランスで感じた選手としての考え方や、集団としての在り方についてヒントになるようなことも話してくれます。彼はフランスで世界一になった経験をもつ選手なので、対話や練習を通じて得るものはとても大きいです。

ーー今、日本のハンドボール界は数年以内のプロ化を目指して奮闘していますが、アダム選手は選手としてどのような思いを抱いていますか?

僕は日本のハンドボールレベルを上げるために、プロ化は絶対必要なことだと思っています。個人的には全チームがしっかり興行として成り立つ状態を作って、それが選手にもきちんと還元される形を確立していくシステムができることが望ましい。選手みんながプロになれる競技としてハンドボールが拡大していくと良いなと思っています。

ーーそして来年にはパリオリンピックも控えていますね。

東京オリンピックでは一勝できましたが、失点が3点ほど足りなかったために目標だったベスト8進出が叶わなかったんです。この時感じた悔しさは同じオリンピックでしかはらせないと思うので、まずはオリンピックに出場できるようアジアチャンピオンになって、出場権を獲得することを目標に頑張りたいと思います。

ーー最後に、アダム選手にとって応援とは何でしょうか。

自分を奮い立たせてくれるものです。

僕たち選手は自分自身の目標があってハンドボールをやっています。目標のため、相手に勝つため、自分のため、仲間のため、ハンドボールを続ける理由はいろいろありますが、やっぱりそれだけでは自分自身を奮い立たせられないときも時にはあります。「今日は体がしんどいし、練習に行きたくないな」と思っちゃう瞬間ってきっとみんなあると思うんですけど、そういう時に応援してくれる人の存在を思い出すんです。試合中に辛い時間帯を迎えた時も、やっぱり観客の方々の応援が奮い立たせてくれる。今は声を出して応援できない状況が続いていますが、目に入ったり耳に入ったりした瞬間に、自分以外の力で自分を奮い立たせてくれるもの。それが、僕にとっての応援です。