SPORTIST STORY
PARA NORDIC SKIER
森宏明
HIROAKI MORI
STORY

パラスポーツとは「生き方への応援」

森宏明。中学時代強豪のシニアチームに所属四番でエースでキャプテンだった高校球児は、不慮の事故により両足を切断する大けがに見舞われ、思い描いていた未来とはまったく異なる新たな人生の幕が開く。スポーツから離れる期間があったものの、縁あって大学時代にノルディックスキーと出会い、北京パラリンピックではノルディックスキー距離座位の日本代表として出場した。現在は選手として活動しながらも朝日新聞に務め、自身もさまざまなスポーツを応援する立場にいる。森は「パラアスリートにはそれぞれのヒューマンストーリーがある」と語る。彼はどのように挫折を乗り越えたのか。選手として、応援する立場として、パラスポーツのあるべき姿とは。思いのたけを語ってもらった。

Interview / SPORTIST
Text / Atsushi Kuramoto 
Photo / Naoto Shimada 
Interview date / 2023.06.02



最初の挫折は中学時代。諦めずに自分の長所を伸ばそうと決めた




――森さんはもともと野球に打ち込んでいたそうですね。 

小学2年生から野球を始めて、それから高校までずっと野球一筋でした。出身は東京都板橋区で、地元には野球用具の専門ショップがあり、荒川の河川敷沿いにはグラウンドがたくさんあって、野球がとても身近に感じられる環境でした。小学校ではプロ野球選手になるという意気込みで野球に取り組んでいましたし、実際に地元の地区ではトップレベルのチームに在籍していました。

――ずっとプロ野球選手を目指していたんでしょうか?

じつは、プロ野球選手になるという夢は中学に上がって早くも諦めてしまいました。というのも、中学時代に所属したのが硬式野球のいわゆる名門シニアチームで、都内のクラブにも関わらず、他県からでもそこで指導を受けたいと実力ある選手が集まってくるような競争の激しい環境でした。とくに中学時代は体格差があり、身体能力に大きな壁を感じて、入団当初は、同世代なのにまるで大人と子どもが野球をしているようにさえ感じました。

――そこが最初の大きな挫折だったと。それでも野球は続けられていますね。

プロ野球選手になる夢は打ち砕かれたものの、野球は好きだからこそ高校、大学、できれば社会人になっても実業団に入ってプレーしたいと考えるようになっていました。小学校まではピッチャーをやっていて、それが中学のクラブチームでは通用しないと早い段階で思い知らされるわけですが、今となってはそれが大切な気づきだったと感じます。それからは自分にできることを着実に取り組みました。内外野いろんなポジションに挑戦してあらゆる視点を養い、最終学年ではキャッチャーに定着して、戦術面や野球の考え方を根本から学び直しました。キャッチャーとしてチーム内で評価を得てからは、自分の知らない新たな一面を発見できたように思います。そうした経験から長く野球生活を続けるために、自分の長所や短所を見極めて得意分野を伸ばすことを考えるようになりました。

――強豪校に進まなかったのも、そのような考え方があったためでしょうか?

そうですね。中学の最終学年でチームは全国大会へと出場し、さらには上位の成績を収めることもできたので、自ずと強豪校を目指す選択肢がありました。ただ当時の僕の目標は「大学に入って東都リーグで野球をする」ことだったので、下級生からでも実戦経験が多く積める環境、そして勉強もしっかりと教えてくれる近場の高校を選びました。

――進学した高校では早々にレギュラーを獲り、選手として活躍されていたと聞きました。

1年生の早い段階から試合での出場機会をいただき、自分たちの代では主将を任されました。野球選手として次のステージを目指すうえで高校最後の1年間は本当に重要で、次の夏の大会までにどれだけ成長できるかをつねに考えていた時期です。自分のなかでは大学野球に必要なレベルがより明確にみえていたこともあり、居残りでの個人練習を含め、もっとも真摯に野球へ取り組んだ時期だったと思います。



家族や友人を悲しませたくない。その一心で前を向いた。



――野球に打ち込んでいた矢先に起こったのが、両足を切断するほどの事故でした。当時の状況を少しだけお話いただけますか。

事故が起こったのは、高校2年の夏休みで、毎日のように他校の選手を招いては練習試合を行っていたんです。審判など人手が足りないこともあり、顧問の先生がOBの方々に声をかけて手伝ってもらっていたんですね。事故が起きたのは、ちょうど試合を終えて片づけはじめ、先生たちが女子マネージャーを車に乗せて駅まで送り届けるタイミングでした。現場は子どもたちだけの世界が広がっていたように思います。あるOBが運転している車がすごいスピードでこちらに向かってきて、車のバンパーと建物との間に挟まれて足を轢かれたんです。最初は何が起こったかわからず、次にこれが本当に起きたことか、とただただショックで。自分の身に起こったことを理解してからは、痛み以上に、生きていられるのか、今後どうなるか分からない不安感と、悲しさのピークが一気に訪れて呆然としていました。もう野球ができないとか、そういうことを悔しがる時間はなかったです。そもそも自分の足が千切れて、歩くことはおろか立ち上がることもできなかったので。ただ野球部の仲間たちにパニックが起こっていて、その状況を引いた目線というか、上から俯瞰で現場をみているような錯覚もあり、どこか冷静だった自分もいたように思います。出血多量だったこともあり、何度も意識が飛びそうになりました。ただこのまま気を失ってしまうとショック死してしまうのではないかという思いが頭によぎり、必死で自我を保っていました。救急車で運ばれているときのことも覚えていて、最終的には手術室に入って麻酔を打たれた瞬間に意識が飛んで。気付いたらベッの上で足が無い状態で横たわっていました。

――手術後に目覚めたとき、事故のことは冷静に受け入れられたのでしょうか。

事故が起きた現場でも自分の足の状況はわかっていましたし、緊急手術に際しても担当医の整形外科の先生から「君の足は治らない」とはっきり言われたので、そこからはもう無いものは無いし、仕方がない、という気持ちにはなりました。救急車が来なかった数十分間に一生分の地獄を見ていたので、いろんな諦めがついていたんだと思います。手術後は1日、2日か、長い時間寝続けていたそうです。集中治療室で目覚めて自分の状況と対面することになるのですが、足下に目をやると、包帯でぐるぐる巻きになった膝下までしかない両足があって「ああ、本当に無くなったんだな」 と思ったのが最初の感想でした。それでもショックというよりは、ただ淡々と目の前に広がる現実を受け入れて、一つずつ状況を理解していった感じでしたね。

――その後はリハビリに移られるわけですが、回復は順調だったのでしょうか。 

僕の場合、緊急搬送された大学病院で傷の治療を経て、その後は歩行の訓練を実施するためにリハビリ病院へ転院したのですが、まずは傷の治療が大変で。術後は、下肢の長さがひざ下約10センチまでに短くなってしまい、ひざが自然と曲がってしまうんです。これを放置すると変形したまま関節が固まり、最終的にはひざを伸ばせなくなる状態になってしまいます。そうなると義足を履いて生活する際に支障が出てくるので、それを防ぐため早期にひざの伸展をするリハビリを行うわけですが、まだ手術で縫合した傷口が塞がっていない時期は本当に痛みで涙が出ました。さらに、術後、右足の治療経過が芳しくなく、皮膚を切除して再縫合する手術も経験しました。2週間ほどが経ち、自分の中で回復に向かっていると信じていたのに、また振り出しに戻ったんだと勝手に思ってしまって、そのときが入院期間中でもっとも落ち込んだかもしれません。結果的に入院生活は、再手術からリハビリ期間を経て半年ほどで終えることができました。事故が起きたのは8月の夏休み中だったのですが、翌年2月にはすでに高校へ復学していました。その当時は長く入院をしていたように感じましたが、最短で日常に戻ることができていました。僕がお世話になっていたリハビリ病院は、入院患者のリハビリのスケジュールを基本的には1時間単位で管理していた記憶がありますが、空き時間にも自主的に歩けるようにと万歩計を手渡されて個人練習をしたり、その他の時間にもお願いしてトレーニングメニューをガンガン入れてもらいました。きっと当時は「野球に代わる目標をみつけたい。とにかく前に進みたい」という思いで突き動かされていたのだと感じます。

――当時から事故のことをあまり引きずらずに、前を向いていることに驚かされます。どのようにしてマインドを切り替えましたか?

気持ちの切り替えがうまいかどうかというよりは、僕自身が周りを気にしてしまうタイプだったことが大きい気がします。自分がしょげていると周りも変に気にしてしまうので、それがとにかく嫌で。もちろん最初は空元気だった面も大きかったと思います。ただそれによって本当に元気になれた部分はありました。自分の周囲では憎しみの感情をできる限り持ってほしくなかったということも大きかったです。加害者も関係性がある人で、犯してしまったことに対しては許すこともできないけど完全に恨めるような相手でもなかっただけれど自分が親の立場だったら到底許すことはできない気持ちになるのは痛いほど分かります。しかし、それでも僕が前向きにその後の人生を受け入れながら歩んでいたら、そういった負の感情もいつかは薄れていくのではないかと考えたのが正直なところです。たとえば、あまり勉強しなかった子どもが勉強するようになって、次の目標を見つけて、自身で納得した人生を歩んでいるという結末になれば、家族も最終的には僕の人生を肯定的に捉えてくれるかもしれないなという気持ちはありました。

――やはり家族の支えは大きなものだったのでしょうか。

本当に大きかったです。入院したのが埼玉県だったので、病院に通い詰めること自体も大変だったと思います。また、医療ソーシャルワーカーさんとの相談のなかで障害者手帳を代理で申請するときや、障害当事者の家族として今後必要になる手続きを本人よりも先に初めて知ることになるわけで、いろんな苦労をかけてしまったかなと感じます。だけど、直接僕にそれを見せないようにしてくれたことは、すごくありがたかったです。だからこそ、退院してから親には心配をかけたくなくて、野球を失っても次の目標に突き進んでいる姿を一番に見せたかったのだと思います。



頑張るものがあれば、人はそれに向かって努力することができる



――リハビリを終えてからは勉強して大学に進学。一度はパラスポーツを離れていますね。

大学に入っても、サークルにアルバイトにインターンシップにとせわしなく動いていたのですが、そのころに岡部文明さんの本と出会いました。ラグビーの試合中の事故で車いす生活となって、その後画家になられた方です。岡部さんの『ピエロの画家 魂の旅路』にご自身が人生のテーマとしてピエロを描かれるようになった経緯が書かれていて、その時にもう少し自分の人生のテーマをしっかりと考えたほうがいいんじゃないかと思うようになりました。事故にあってからは前向きな姿勢でさまざまなことに関わり続けてきた自分ですが、これは裏を返せば現実から目を背けて、どこか突っ走ること自体が目的となっているような節もありました。「自分のやりたいこと」というよりも、人からの誘いや好奇心だけで、あまりよく考えることをせずにさまざまな活動へと参加していたのですが、そこで一度立ち止まったんです。大学とアルバイトに通う以外のことをいちど全部やめて、自分の中の興味に向き合って、自分の時間を過ごすことにしました。とくに自分がこれまでやってこなかった芸術作品に触れて、本を読む時間を大切にするよう心がけました。僕が通っていた明治大学の駿河台キャンパスは、楽器屋やスポーツショップが立ち並ぶ御茶ノ水と、本の街である神保町がそばにあって、また美術館がある上野や六本木にも行きやすい環境だったことが影響していました。

――その後、競技者として復帰されます。

1年ほどの空白期間は、大学での研究のほかに芸術分野へ強い関心を持っていたわけですが、クロスカントリースキーの誘いを受けたのは2017年の7月、大学3年生の夏休み前でした。そのときは自身の進路についても考えていた時期で、就活に向けてインターンシップの選考を受け始めていました。それと同時に新しいことへ挑戦してみたい気持ちが高まっているタイミングでもあって、まったく新しい競技からお誘いを受けたのはなにかの縁だと思いました気づけば就活をいったんストップして競技を始めていました。もちろん実際に始めると、自分の考えの甘さやクロスカントリーの厳しさに直面して悩むこともありましたが、最初に自分と向き合ってから始める決断をしたことが今に繋がっているように感じます。

――クロスカントリースキーを始めてみての感想を教えていただけますか。

いちばん初めに滑ったのが北海道大雪山の旭岳です。そこで見た一面の銀世界に衝撃を受けました。僕は非日常的な景色に魅了されたんです。そして実際に競技をはじめたらまあキツくて(苦笑)。当初は楽しいと思ってはいなかったです。じつは数年続けた今も、面白さが何なのかと問われると、一言で言い表すのは難しいです。ただ、非常にやりがいのあるスポーツだと感じています。

――森さんが感じられた競技の過酷さを詳しく教えていただけますか。

まずは精神的な要素です。通常、スキーは足にブーツを履いて滑りますが、私が属している座位の部門では、シットスキーと呼ばれる椅子に、直接スキー板を取り付けてブーツ代わりとしているため足でターン動作ができません。下り坂などでいちどスピードに乗ってしまったらもう止まれないという恐怖心が常に付き纏います。最初はその恐さを克服することからはじまりました。加えて身体的な要素です。レースは平地だけではなく坂の登りや下りなど、起伏があるコースを己の身一つで推進します。そんなフィジカルだけを強化すればよい競技かと思えば、天候や気温などのコンディションに合わせてスキー板に塗るワックスの選択や、細かな部分でタイムロスを防ぐためのコース上での繊細なテクニックの数々は、まさに経験がものをいう職人のような芸当です。下りカーブを曲がる技術は、座って滑るとより難しく感じられるかもしれません。もともと身体バランスにはある程度自信があったのでやれるだろうと漠然と思っていたのですが、全然できない。そこから必死に雪上での感覚を養うべくスキートレーニングを行いました。

――国内選手としてはたったひとり一人という状況だと、練習やトレーニングも大変だったのではないでしょうか。

僕がクロスカントリースキーを始めたタイミングは、かつて日本代表として活動していた座位カテゴリーの選手がちょうど引退したあとの空白期間でした。なので、最初はどうやって練習したらいいか、そもそもどういうフォームで滑ったらいいのかすらも分からなかったです。まずは研究の日々で、動画サイトで過去のパラリンピック競技大会の映像を観て、他国の選手のフォームを参考にすることから始めました。手探りではありましたが、自分なりの創意工夫で取り組めたことが当初モチベーションとなっていました。また、同じ日本チームで立位選手の先輩方やコーチの方からスキーの基礎を教えていただいたことが短期間での成長につながりました。日本では僕しか競技者がいない時期もあった男子座位ですが、じつは海外だと冬季のパラスポーツのなかでも競技者が多いカテゴリーです。メダル獲得を目指すのはハードルが高いと思えるほどに選手層が厚く、だからこそやりようがあると感じています。

――競技を行う過程自体がさまざまなことへの挑戦になっているんですね。

競技を始めた頃は、国内でも競技の魅力を伝えて仲間を増やしていく役割を同時に担っていました。これは僕しかできなかったことですから。いまでは競技者も増えて、シットチームとして活動ができるまでになりました。種目によっても自分より速い選手がいて、競技者としてつねに刺激をもらっています。



「自分で決めて自分で責任をとる」スタイルが合っていた



――2022年の北京大会を振り返っていかがでしたか。 

悔しいですね。不完全燃焼でした。いちばんの要因はノルウェー遠征時にコロナに罹患したことで、つねに最悪の想定を考えられなかった準備不足な面と、自身の弱さが垣間見えたことです。代表に選ばれてから北京大会まで、自分なりに準備のプロセスを立てていたものが大きく狂ってしまいました。さらに北京に向けて出発するタイミングでも陽性反応が出てしまい、大会直前に北京大会の会場の標高に体を順応させることができませんでした。立て続けに起こった外部要因で心身のバランスを立て直しきれないままに大会が終わってしまい、個人では結果も残せず、自身の弱さをただ痛感しました。パラリンピック出場までの道のりは、まるで雲を掴む話のように感じていました。もちろん自分が目指すべき大会には変わりないですが、実際にこの目で見たことがないからこそ、自分は出られるのか、そもそも本当にあるのだろうかと勝負以前に気持ちの準備が足りていなかったように思います。出場したうえで、競技者として上位を目指す。いま振り返るとそういった部分まで明確にビジョンを描けていませんでした。もともとは北京大会で一区切りにすることも考えていたんです。普段は東京に住み、社会人として仕事をしながら競技活動を続けていて、雪の地域を拠点にする方やアスリートとして専念する方たちとどうしても練習量の差が生まれることで上手くいかずに、仕事と競技の狭間で悩んでしまうことが幾度となくありました。ですが、この悔しさ、そして応援してくださっている人たちのおかげで、「次のミラノ大会ではちゃんと成長して結果を残したい」という決意に変わりました。

――陸上競技もスタートされたのも、ミラノ大会を見据えてということでしょうか。 

そうですね。ミラノ大会を目標とする中でオフシーズンの過ごし方を変えなければならないと思い、新たにスタートさせたのが陸上競技です。自身がスキーで得意とするのがスプリントと呼ばれるいちばん距離の短い競技で、瞬発力と持久力をどちらも向上させる必要があります。陸上だと400メートル走に感覚が近いものです。僕がやっている競技は座って滑る競技ではありますが、スキーのダブルポールと呼ばれる動作が体幹や腸腰筋を使ったりするいわば全身運動で、下半身の筋力強化も必要という結論に至りました。春頃からは毎月のように記録会に出ているので、ふたつの競技をやる大変さもありますが、その効果も実感しています。陸上競技のほうも徐々にタイムが上がっていて、それがオフシーズンでもモチベーションにつながっています。スキーのほうでも自身のベースとなる部分を意識し、そこに対して今日の調子がどうか、ということを意識しながら今は競技を掘り下げている感覚があり、そこに面白みを感じています。

――改めて個人競技と団体競技で違いを感じることはありますか?

個人競技の「自分で決めて自分で責任をとる」というスタイルが僕自身の感覚には合っていたように思います。競技者としても一人ひとりの哲学、世界観をもっている選手が多いです。そうした選手は最先端のトレンドをキャッチアップしつつ、毎シーズン自分のなかでテーマを決めて掘り下げていて、そういった姿勢に学ぶべき部分が多いです。一方で個人競技といっても孤独ではなく、やはりサポートしてくださっている方々の存在や、同じ競技で切磋琢磨する仲間たちとのつながりも感じます。

――スキーを始めたことで世界は広がりましたか? 

あの時に声がかからなかったとしたら、あるいはやる決断をしていなければ、今の人生にはなっていないと思います。勇気を出して飛び込んだことで知らない世界を知ることができました。また、さまざまな寒冷地や雪山で滑るというハードな経験からか、年々価値観も変化してきて、「何かを欲しい」と感じる人間から、「何か得難い体験をしてみたい」という人間になりました。あの時は就活で、仕事をするか、何かスポーツするかの二択でしたが、その時に真ん中を行くような決断ができたのも、2020年の東京オリンピックが目下に迫っていて、企業が応援してくれる時節柄だったことが大きかったと思います。仕事の中でもさまざまなスポーツの現場を見ることができ、日々新たな刺激を受けています。

――最近は、同じパラアスリートである水泳の西田杏さんとご結婚され、新たな一歩を踏み出されています。

じつは家庭ではあんまり競技の話はしません(笑)。競技歴としてパートナーが圧倒的にキャリアと実績があること、アスリートに専念しているということもあり、僕も弱音は吐いていられません。もちろんお互いに敬意をもって応援しあっていて、「もっとあなたはできると思う」というような気持ちで叱咤してもらうことが多いです。



「生き方への応援」



――パラスポーツに向けられる声援は、プロ野球だったり高校野球だったりといった勝負ごとに向けられる応援とは少し違いますよね。
そうですね、パラスポーツの場合、その人の勝負への応援というよりはその人の生き方への応援になっている部分が強いと思います。パラスポーツでも各競技のトップクラスの選手だと、純粋に競技者として見てほしいと語る人もいらっしゃいます。ですが、パラアスリートはそれぞれ少なからず困難に直面していて、ヒューマンストーリーがあるので、僕自身はそれも含めて競技をみてほしい気持ちがあります。

――森さん自身はどのような方々から応援されていますか?

本当にさまざまです。身近なコミュニティで応援してくれるだけでなく、メディアを通して広く社会的な側面から自分のことを知っていただき、応援してくださる方がいます。アスリートとしての成績を期待されているというよりは、いろんなことを乗り越えて、いま目標に向かって挑戦している姿を応援してくださる方が多いことは、僕自身すごく幸せなことだなと感じています。野球をしていた時代には身内が中心だった応援の輪がだんだんと広がっているのを実感します。学校などで講演会をさせていただく機会もあるのですが、聞いていただいている方々もそれぞれ挫折したり、うまくいかなかった経験がもちろんあると思うので、それに共感していただく部分もあるのかなと思います。最近は、闘病生活をして、もともと通っていた学校から編入して、学ぶ環境を変える決断をした高校生の方とお話をする機会がありましたが、同じように不安だった当時の僕の経験を話すことで、自身の人生を以前よりも肯定的に捉えてくれたかなという出来事がありました。僕自身は自分がスポーツを頑張ること、経験を話すことがたくさんの方を勇気づけるきっかけになれればという気持ちでいます。僕は野球ができなくなるまで「自分には野球しかない」という気持ちで日々を生きていました。でも、いざ野球ができなくなったことで、野球にこだわらずとも人は目の前の目標に向かって努力することができる、そのことに気づくことができたんです。

――日本においてはパラスポーツがパラスポーツの域を出ていないのではないかと感じることがあります。森さん自身はどのようにとらえていますか。

日本の今のパラリンピックでは、メダルをどれだけ獲得したかが世間の興味・関心を引く部分になっています。そのため、普及のためにメダルの獲得が必要だという発想から、健常スポーツやオリンピックで活躍されたコーチを招聘することは珍しくありません。なかにはトップ選手だけを見て、それ以外の選手への指導や成長の機会があまり図られていない競技もあるようには感じられて、パラスポーツ人口をむしろ減らすことになってしまうのではないか、という危惧があります。さまざまな障害やそれに合わせた多様な競技がある、画一化できない部分のなかで、個々が創意工夫してやってきたのがパラスポーツという文化だと思います。各種目で競技者が少ないからこそ、いま活動している選手を大事にしつつ、普及や発掘をしていかないといけない。僕自身が経験したように、かつて活動していたトップ選手が引退したときに次世代選手が育っていないと、選手強化が成り立たなくなってしまうことは組織としてマイナスです。普及活動という点では、パラアスリートを引退した後にどうしていくのか、という話ができる人も少ないことも課題だと感じています。パラアスリート選手のロードマップを整備し、競技に打ち込めるようになる活動を積極的にしていきたいと思っています。

――最後に、森さんにとって応援とは?

応援とは一言でいえば「愛」ですかね。いま朝日新聞社の社員としてさまざまなスポーツを応援させていただいていますが、仕事を通じて僕自身、本当にスポーツが好きなんだと実感しています。もちろん競技者としても大きな愛を感じています。もともと自分のなかで未経験なことをやりたいと思って取り組み始めたのがスキーでした。北京パラリンピックへ出場が決まり、いろんな方々に今の僕のことを知っていただき、そして応援を一身に受けて大会に臨むことができました。個人的なチャレンジとして始めたことだけれど、結果的には自分だけの活動じゃないと気付くことができました。自分はこれまで、本当にたくさんのことを応援という形で受け取っているので、さまざまな形で恩返しがしたいと思っています。