SPORTIST STORY
FIELD HOCKEY PLAYER
瀬川真帆
MAHO SEGAWA
STORY

逆境と隣り合わせの運命、すべてを前進する力に変えて

生まれてたった数年の子供たちが、その人生の大半を闘病に費やしている現実がある。東京オリンピックに日本代表として出場、現在は東京ヴェルディホッケーチームに所属する瀬川真帆も、そういった幼少期を過ごしたうちのひとりだ。岩手の小さな街に生まれた彼女は、母や兄弟たち、そして家族同然に接してくれる優しい街の人々に見守られながら病を克服し、現在は選手活動と並行して過去の自身と同じように病気と闘う子供たちの支援活動に取り組んでいる。自身も語る通り、逆境だらけの険しい道を歩んできた彼女。それでも「これまでの経験が誰かの力になれば」と語れる強さは、果たしてどのように身につけてきたのだろうか。これまでの半生を振り返りながら、スポーツの持つ力と自身の内面について語ってもらった。

Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga
Photo / Naoto Shimada
Interview date / 2023.04.17



長期療養を乗り越えた幼少期。負けず嫌いな性格とホッケーが自分を強くしてくれた





ーーまずは幼少期のお話から聞かせていただけますか。

家族は母と兄がひとり。うちは母子家庭で、母がひとりで兄と私を育ててくれました。私は5歳の時に突発性ネフローゼ症候群という病気になって入院したのですが、入院中も父にはほとんど会わなかったし退院して家に帰ったらもういなくなっていたので、退院してからその後祖父母と同居するようになるまでは、母と兄との3人暮らしでした。でも近所に3人兄弟の従兄弟も住んでいたし、むしろ兄が四人もいるような、賑やかな状態で過ごしていました。母がいない時は叔母がお母さん代わりで、寂しい感じはなかったんですよ。

ーー男の子ばかりの中、いちばん下の女の子という立場であれば周りからもとても可愛がられたのでは?

可愛がってはくれていたと思いますが、でも特別扱いみたいなことは一切無かったです。何かスポーツをやるとなってもまったく手加減してくれないから、いつもボロボロ泣いていました。今となっては対等に接してくれてありがたかったなと思いますが、今でも小学生の時にボコボコにしたと自慢されます(笑)。ちなみに母は「勉強しなさい!」みたいなことは言わないんですが、代わりに箸の持ち方や靴の揃え方などの礼儀作法についてはとても厳しい人でした。でも何かあった時は必ず「あなたはどうしたいのか」「どう思っているのか」と聞いてくれましたね。「これをやりなさい」と言われたのは、ホッケーくらいだと思います。そういえば、叔母(母の姉)はいつも優しくしてくれていたんですが唯一厳しいところがあって、テストやスポーツテストの結果を見て1番じゃないと「なんで1位じゃないの?」と言うんですよね。私の負けず嫌いの根源なのかもしれないです(笑)。

ーー瀬川さんは5歳から小学校低学年くらいまで闘病されていたそうですが、当時のことは覚えていますか。

母がいつも側で「痛くない?」と聞いてくれていたことを印象的に覚えています。検査の時や具合が悪くなった時に母が隣にいてくれるのはとても心強かった。家族もきっと、私がいろいろなことを考えていることは解ってくれていたから、むやみに「大変だね、しんどいね」みたいなことは言わず見守ってくれていたんだと思います。ただ、辛いことはやっぱりたくさんありました。毎日ものすごく苦い薬を飲まなくちゃいけないのも苦痛だったし、点滴も辛かった。あと、ネフローゼは腎臓の病気なので1日に摂れる水分量が決まっているんです。当時の私で、だいたい1日にたったの200ml。薬の副作用で産毛がすごく濃くなるのも子供ながらに嫌でしたね。自宅と病院はかなり遠かったし、当時母は仕事をしつつ兄の面倒も見ながら私を看病してくれていたので、病院に通える日も限られていました。だから、看護師さんや同じ病棟に入院している他の子供のお母さんたちにも精神面ではかなり支えられていたと思います。

ーーとても大変な経験をなさってきましたが、今、当時の闘病を自身ではどのように捉えていますか。

やっぱり腎臓の病気になる=もともと腎機能が良くないわけなので、今でも浮腫みやすかったり疲れやすかったりというのは多少あるし、ホッケー選手としてそれに向き合うのは大変です。だけど、子供の頃に大きな病気をしたことによって得られたものもあると思うんです。いろいろなことを我慢したり見えない病と戦って勝つ経験だったりは、きっと健康に生きていれば体験しないものだと思うから、それを経験した自分だからこそわかる気持ちや強さもあると思う。これは自分にとって大きな財産だと思っています。

ーーホッケーとの出会いは小学生の時だそうですね。

私の出身地は岩手県岩手市岩手町と「岩手」が3つ並ぶ地名なのですが、フィールドホッケーがとても盛んな土地でもあるんです。小学校の授業にもホッケーが取り入れられていますし、町民向けの大会なども行われているので、小学校低学年からスティックを持つことや、スティックを持った人が街を歩いているのがあたりまえの環境で育ちました。ただ私自身は、本当はホッケーではなくサッカーをやりたいなと思っていたんですよね。でも母に言ったら「あなたは飽き性だからダメ」って言われてやらせてもらえなかったんです。

ーーその頃にはもう運動ができる状態にまで回復していたんですね。

いえ、まだ運動禁止が解かれていたわけでは無かったんですけど、やっぱり小学校に入って学年が上がっていくごとにもう母が制御できないくらい動き回るようになっちゃって……(笑)。学校に通えるようになると何をやっても楽しいから「運動は禁止だよ」って言われているのに動きすぎて、体調を崩すことを繰り返していました。ただ、その状態も年を重ねるごとに少しずつマシにはなってきて。そんな時、「小学校のホッケー少年団で人数が少ないから入ってくれない?」と友達のお母さんに誘われたんです。母自身も昔ホッケーをやっていたこともあってか、ホッケー部にヘルプという形で参加しました。それがホッケーとのいちばん最初の出会いです。

ーー最初はサッカーを希望していましたが、ホッケーも始めてみたら楽しかった?

う〜ん、正直最初は「サッカーが良かったな」って気持ちでしたね。でも母がホッケーしか許可してくれないんですもん、しょうがない(笑)。サッカーは運動を禁止されている時にテレビでみられるメジャーな球技だったし、兄や従兄弟たちもみんな球技をやっていたから憧れていたんですよね。

ーーそんな気持ちでのスタートではありましたが、その後も長く続けられたのはどうしてだと思いますか?

たぶん性格が負けず嫌いだったから。夏のスポーツ、冬のスポーツ、それこそいろんな競技を経験してきました。その中でもホッケーは難しくていろんな動作を同時に進行しなくちゃいけない。その難しさが自分に火をつけたような気がします。

ーー「もう辞めたいな」と思ったことはありませんでしたか?

最初はずっと辞めたいと思っていました。でもできない自分に言い訳をして辞める自分にはなりたくなかったし、「中途半端で終わりたくない」とは思っていたかな。あと、「今日は兄や従兄弟たちと遊ぶ日、今日はホッケー」みたいな感じで自分で楽しい方を選択させてくれる環境を作ってもらっていたのも良かったのかもしれないです。「2時間練習を頑張れば遊べるから、この2時間だけは周りの子たちに負けないように頑張ろう」といった感じで、オンオフをうまくつけてやることができたから続けられたんだと思います。あと、母はある程度の範囲で自由も与えてくれていて、練習に行くことも強制ではなかったんです。小学校でのホッケーも、いつも楽しく教えてくれた監督・コーチ・指導者の皆さんのおかげで、飽きやすい私でも通い続けられました。「練習を2時間頑張ればその後友達や従兄弟と遊べるから、この2時間だけは他の子達に負けないように頑張ろう」と思いながら練習していましたね。オンオフを上手くつけてやれていたことも、長く続いた秘訣のような気がします。

ーー中学・高校時代には全日本中学大会、インターハイ優勝、高校3年生時に海外遠征(U-16、18)への参加など素晴らしい成績を残されていますね。

中学時代は幼馴染のライバルがいたんです。その子がずっと目の前を走っているから、いつか超えたいという気持ちで頑張っていました。私たちが中学生の時は陸上大会にホッケー部員も参加していたのですが、そこで選択した競技もその子と同じ1500メートル。何をするにも、彼に負けたくない気持ちで頑張っていました。男兄弟の中で育ったせいか、学生時代から男子に負けることが何よりの屈辱だったんです。「性別は違えど、私より強くて上手い子に負けたくない」と思って取り組んでいたことで、結果を残すことができたように思います。やっぱり負けず嫌いなんでしょうね(笑)。今も慶応大学内で男子に混ざって練習しているんですが、練習の時に男子に抜かれたりするのは、同じ女子に抜かれるよりも悔しいです。「もっと強くなろう」っていつも思う。今も昔も、そう思わせてくれる人が周りにたくさんいるのはありがたいことですね。

ーー男兄弟の中で育って、自分も兄達のように男に生まれていればと思ったことはないですか?

それはずっと思っていました。小学生の時はずっと自分が男兄弟の中にいたせいで、自分のことを男だと思っていたほどでした。女の子と接するのが苦手で小学生の頃は女友達も数人だったので、男友達と一緒に木の上に秘密基地を作ったり、当時人気だったゲームをすることが多かったです。正直それが原因でいじめられたこともありますが、今ではその子達とも和解して、笑い話になっています。そりゃあ好きな男子の近くに女子がいたら、いい気持ちはしないですよね(笑)。

ーー現在の瀬川さんは美しさと強さを両立させているようなイメージです。それまで抱いていた「男性に生まれていれば」という思いに折り合いをつけられたきっかけは、何だったのでしょうか。

中学生の時に、ファッションに興味を持ったことが大きなきっかけになりました。それまでは制服のスカートすら履きたくなくてファッション誌も従兄弟が読んでいたMEN’S NON-NOを読んでいたんですが、偶然その女性版であるnon-noを手に取る機会があって。そこで「レディースの服でもカッコ良い服ってあるんだ」って、初めて気が付いたんです。あと、映画の『プラダを着た悪魔』を観たことも大きな衝撃でした。この映画をきっかけにココ・シャネルを知ったのですが、彼女の封建的な時代に女性のための動きやすく新しいファッションを提案した生き方にすごく感銘を受けました。「男性として生まれなくても、カッコ良く生きている女性もたくさんいる」と知ったことをきっかけにファッションやメイク、英語や海外への興味が広がったし、価値観もそれまでとは大きく変化しました。

ーーお話を伺っていると、瀬川さんは自らの課題や問題はあまり人の手を借りず、自分自身で乗り越えていくタイプのような印象です。

そうですね、悩みとかは中々相談とかできなかったかも。学生時代は何か考えたいことがあると、犬と一緒に散歩をしていました。離れたところにいても口笛ひとつで戻ってくるようなすごく賢い犬で、何かあったらいつもその子と大自然の中を黙々と歩きながら考えていましたね。家族に泣いているところを見せることも落ち込んでいる姿を見せるのも嫌いでした。実家が魚屋と仕出し屋を営んでいたこともあって、表に出ればみんなが私のことを「あのお店の子だ」って知っているような環境だったんです。小さな街だから、歩いているおじいちゃんやおばあちゃんみんなが自分の孫のように接してくれました。私自身も街の人たちと気軽に話せることが息抜きになっていました。今は相談できる人、弱みを見せられる人、エネルギーをくれる人が周りにできたので、すごく幸せです。



辞めるつもりが一転、ホッケー漬けの毎日がもたらした苦悩と成長とは



ーー高校卒業後はSONYに就職されたそうですが、これはホッケーを軸に選んだ進路だったんですよね。

実は高校を卒業したらホッケーは辞めようと考えていました。高3で出場したインターハイでは「優勝したら絶対に辞める」とチームメンバー全員が言っていて、その目標があったからこそ自主的に居残り練習をしたり話し合ったりと、必死でやれていた部分もありました。当時の監督も私たち選手のことをすごく信用してくれていて、言われていたことといえば「愛のあるパスをだしなさい」くらい。あれこれやりなさいと指示するよりも選手の自主性を重んじてくれる方でした。きっとピッチの中の私たちにしか感じ取れない感覚を信じてくれていたんだと思います。

ーー結果、インターハイでも優勝を勝ち獲りましたが、その後もホッケーを続けることになったのはどういった流れで?

ここで今度は母の意地が出たんです(笑)。「ホッケーを辞めるならもう何もしない!」と言われるほど、母にホッケーを辞めることを反対されちゃったんですよね。うちは母子家庭だったので母にあまりお金をかけさせたくない気持ちもあって、「自分が学びたいことをちゃんと学べて卒業後も自分の身になる資格や能力を得られるなら大学に進学したい」と思っていましたが、ホッケーの強豪校に進学するとどうしてもホッケーが日々の軸になるのでその希望を叶えるのは難しい。そうなるとやっぱり自分としては大学に進む意味を見出せないので、学費免除でお声がけいただいた話もすべて断ったんです。そんな私の状況を耳にした当時のSONYホッケー部の監督が、高校の先生に「あの子がどこの大学にも行かないと言うならうちに誘ってください」と伝えてくださったんです。その話を受けて、「SONYなら給料も得られるし、ホッケーも上手くなれる」と考え就職を決めました。

ーー「辞めたい」と思いつつも、「もっと上手くなりたい」という気持ちも無くなってはいなかったんですね。

どうせ辞められないなら強豪チームで上手くなった方がいいと思って。でもそれまでは「部活終わったら友達と遊ぼ~」くらいの感じでやっていたから最初は「シニアの日本代表を背負おう!」みたいな気もサラサラ無く、舐めた感じで入っていっちゃって。結果、厳しい上下関係の中でめちゃくちゃしごかれました(笑)。それまで上下も特になくみんな対等な環境の中でやってきた分、そのギャップには結構苦しみましたね。人間関係で悩んでしまって、それは闘病の時とは違った苦しさ・辛さを感じることも少なくありませんでした。今考えると、当時は高卒でSONYに入るなんて異例のことだったし、ましてやどこの馬ともわからないど田舎出身の小娘が入社した年からシニアの日本代表合宿に参加していたことも、チームから浮いてしまった理由だったのかな。当時は最年少選手ということで記事にしやすかったからか取材もいくつかきていたので、そういった状況を面白くないと感じる人も少なからずいただろうし、同時に自分自身がいちばんその違和感というか……、「まだまだチームの理解も個人の能力も低いのに、取材される価値がない」とも感じていました。高校を卒業したばかりの私には、周囲とのバランスを取るのは本当に難しい問題だったと今になって思います。 

ーーチーム内の人間関係に悩んだ日々もあったのですね。SONYには2015年の入社以降7年間在籍されたそうですが、当時はどのような毎日を送っていたのですか?

自宅が岐阜にあったので朝6時50分に家を出て、会社がある愛知まで1時間かけて通っていました。会社では8時50分から14時まで仕事をして、そこから岐阜に帰って20時まで練習。土日も1日練習だったので、丸々休みの日はありませんでした。ほぼ1週間毎日ずっとホッケーのことばかり考えていましたね。

ーーそんな中、2017年にはスペイン・レアルソシエダへのレンタル移籍を決めていますね。これはどういった経緯で?

その少し前、リオ五輪日本代表の最終選考まで残っていたのに代表から漏れてしまうという出来事がありました。それに対して悔しい気持ちが消せなくて、「違う環境で成長したい!」と強く思っていたんです。そんな時に、ちょうどSONY内で選手を定期的に海外へ派遣して海外で通用する選手を育成することによってチームを強化するという試みのメンバーとして声が掛かったので「行きます!」と即答して、スペインへ渡ることになりました。

ーースペインでの活動はいかがでしたか。

移籍先のチームには多国籍の選手が集まっていて、なかにはイタリア代表選手なども在籍していましたが、毎回スターターとして出場できましたし、点数も決めることができていました。ちなみに今はMFなのですが、学生時代からFWだったこともあって当時はFWとしてプレーしていました。 練習については、コーチが男子チームの選手兼コーチとして活動していたので、女子の練習が休みの日には男子の練習に混ぜてもらっていました。そのおかげで早い球離れや事前の予測といったプレー面はかなり鍛えられたと思います。 

ーー生活面での苦労はありませんでしたか?

むしろ日本よりも生きやすかったですね。毎日がすごく楽しかった。スペイン語は一切話せず、英語は準2級くらいの語学力で移籍したのですが、人間ここで生きていかなければいけないとなると意外と適応できるみたいで(笑)。会話はずっと英語かスペイン語で、たまにバスク語。毎日友達に英語で質問してはスペイン語で返ってくるという環境の中で生のスペイン語を学ぶうち、最終的にはチームミーティングもある程度聞き取って理解できるようになりました。スペインではシェアハウスに住んでいたのですが、ルームメイトもみんな国籍やジェンダーに捉われないタイプの人ばかりで、毎日楽しく暮らせました。楽しく陽気な国の気質が自分に合っていて、考え方などもすごく勉強になりました。レンタル移籍だから帰らざるをえず帰国しましたが「帰りたくない」と思ってしまうほどでしたね。スペインリーグでの活動は、プレー面でも精神面でも自分を大きく成長させてくれました。

ーー再度海外に挑戦したい気持ちは今もありますか?

もちろんあります。だけど、今はまた当時とは環境が変わってきているから。スペインに行った時はまだまだ若くていろんなことに挑戦できる年齢だったけど、今は今後のキャリアや進む道を考えなくちゃいけない時期に差し掛かってきているので、今は海外でのプレーよりも自身の土台を作ることに結構ボリュームが取られています。海外に行ける環境があったとしても、今はただ何も考えずホッケーだけをやっているだけじゃダメだなと考えています。



「自分は鬱じゃないと思っていた」
環境を変えてやっと気付けた自身の不調



ーーSONYからヴェルディに移籍したのも、自身の今後を考えた結果の選択だったのでしょうか。

SONYでホッケーをやらせてもらっている間は代表活動と並行して仕事をしていたので、当然のことではあるのですが任せてもらえる仕事が本当に少なくて。責任ある仕事を任せられないのもわかるし、会社もいろいろ考慮したうえで仕事をくださっていたと思うのですが、「この環境は自分にとって良いものなんだろうか」と考えるようになったんです。「自分のキャリアとして何か身に付くようなことをやりたい」と考え始めると、これまでと同じ環境に身を起き続けることを苦痛に感じるようになってきてしまって、徐々に移籍を考えるようになりました。ここで何かを変えないと、自分が「ただスポーツをやってきただけの人」になってしまうと思ったんです。

ーー実際に移籍されたのは2022年ですね。

東京オリンピック開催の年ですね。実はその年「怪我をせずオリンピックに向かう」を自分の目標としていたのに年始早々に鼻を骨折してしまってすごく落ち込んで、「やっぱり何かを自分の中で変えないと自分は前に進めないな」と思ったんです。そこで改めて、自分は何をやりたいのかを考えてみました。私自身がスポーツを自分がずっと生活の中に取り入れて生きてきているから、スポーツが心や体に健康をもたらすことは身をもって理解しています。「じゃあそれをより多くの人に伝えるには?」と考えた時に、日本の中心である東京だなと。私のやりたいことは、日本でスポーツの価値を高めること。私自身がスポーツをずっと生活の中に取り入れて生きてきているから、スポーツが心や体に健康をもたらすことは身をもって理解しています。「じゃあそれをより多くの人に伝えるには?」と考えた時に、自分が行動しないと何も変わらないと思いました。競技を続けながら、より多くの人に関わり、人としても成長できる場所を探したときに「東京」を選んでいました。大きな街の中でたくさんの人といろんな繋がりを作っていくことにより、これまで以上に大きなことに近づけるかもしれないし、自分自身も前に進んでいけるのではないかと考え、東京をホームタウンとするヴェルディへの移籍を決めました。急遽決めたこともあり、最終的に移籍した時には、東京オリンピック開催の2ヶ月前になっていました。

ーーそれだけ急な移籍だと、前チームから慰留されるようなこともあったのでは?

でもその時は正直、もう自分自身がいっぱいいっぱいだったから。自覚症状はまったく無かったから自分では違うと思っていたんですが当時鬱病の診断を受けていて、睡眠障害の症状も出ていたんです。監督にも病院に行くことを勧められていましたが、心療内科の先生にいろいろ聞かれるのが嫌で「大丈夫です!」とずっと断っていたんですよね。でも病院でお医者さんに「自分を大事にして。自分が本当にやりたいことは何?」と聞かれたのが、今後を考えるきっかけになりました。「何かを変えて、新しく進まないと自分がもったいない」と考えられるようになったんです。

ーーヴェルディは瀬川さんの移籍当時、まだ創設間もない若いチームでしたよね。

それも移籍先にヴェルディを選んだ理由のひとつでした。私が移籍を決めた時点でヴェルディは創設3年目。選手もまだまだ若く実績が少ない人が多い時でした。だからこそ、その環境の中で自分がやれることもあるんじゃないかと考えたんです。

ーー移籍は選手にとって大きく環境が変わるものですよね。良い刺激であっても体にはストレスになることもあるのでは?と感じたのですが……。

それが移籍して引っ越したら夜もぐっすり眠れるようになって(笑)!診断が出た当時は「自分は鬱じゃないと思っていたけど、やっぱり今考えると寝付けなかったり逆にアラームの音がまったく聞こえないほど眠り込んだりといろいろおかしかった。でも当時は自分がだらしないだけだと思っていたんですよね。今も体質的に疲れやすかったりすることはありますが、もうメンタルからの体調不良は無くなりました。

ーーそれは本当に良かったです。チームスポーツは自身の鍛錬と同時にコミュニケーションも重要だからこそ、対人関係に悩む選手もたくさんいらっしゃるのかもしれませんね。瀬川さんのように代表チームに参加していると、都度新しい人間関係を構築する必要があると思うのですが、それについてはいかがですか?

これは自分の問題なんですが、もともとあまり人に興味を持ちにくいところがあって。でも相手に関心を持たないと会話が 続かなかったりもするから、意識的に関心を持つよう心がけています。あと例えば何かプレーのうえで改善をしたい時も要望だけを伝えるのではなく、良かったところも伝えるようにするようにしています。プラスアルファの思いやりで、受け取る側の理解度や受け取るスピードも変化してくると思っています。

ーー先ほど「人に興味を持ちにくい」と仰っていましたが、でも本当に人に興味をまったく持たない人であれば、病気の子供たちへの活動などを行わないように思うんです。

確かに。これは人に言われたことでもあるのですが、私は多分他人の外見にはあまり興味を持たないけど、考え方や習慣などの中身には興味を持っているんだと思います。以前読んだ『20代で得た知見』という本(著:F)の一節に、「人は本のようなもの」という言葉があって。「何回でも読みたいと思う本や、終わりがわからない本が良い」という文を見て「そういうことだ!」ってすごく腑に落ちた感じがありました。服やメイクに興味を持ち始めた頃に外見ひとつで自分の見られ方が変わったのを自分も経験しているから、そこだけで人を判断することはしていないですね。それよりも、その人の中身やこれまでどう生きてきたかの歴史・軌跡に興味があります。 

ーーその人の歴史が考え方を作り、行動へと繋がっていくのは瀬川さん自身にも言えることかもしれませんね。

この間活動を通じて交流した女の子は、お姉さんを病気で亡くしていました。だけど、そんな姿は1ミリも見せないほど強い子でとても太陽みたいな子供でした。自分自身が治らない病気だったり、家族がいなくなったりした人に、夢を持ってもらったり「もう1日くらい生きてみたい」とどうすれば思ってもらえるのか。ひとことで「病気」といってもみんな同じ経験じゃないし価値観も違うから、何がベストなのかはすごく難しいです。 

ーー当人もそうですし、イベントに参加している親御さんもいろいろな気持ちを抱えていますよね。

そうなんです。その女の子も本人は明るく楽しんでくれていたけど、私はそのお母さんのこともすごく気になって。私自身が闘病していた時の母の姿を覚えているからこそ、娘を亡くしたお母さんは心に大きな傷を抱えているだろうなと思って……。だから長期医療を受けている子供たちの支援活動に参加する際は、子供たちも、そして親御さんにも、せめてイベントの時間だけでも心を楽にする何かを与えられているといいなという気持ちで、自分の最善を探しながら接しています。長期療養の子供たちの触れ合える機会ってなかなか普段の生活では無いので、そういった機会を作ってくれる日本財団HEROsの存在は、とてもありがたいです。

ーーきっと子供たちにとっても、親御さんにとっても励みになっていると思います。先ほどお話ししていたように、心の交流+スポーツを通して与えられる心の栄養もあると思いますし。

スポーツのもたらす効果って本当にすごいんですよ。日本では今精神の病気を抱える人が多いですが、それは運動の機会が減っていることと相関関係があるとする説もあるくらい。スポーツが与える心肺機能と、ストレスで与えられる負荷って同じくらいなんです。スポーツは体にとっての負荷ではあるけど楽しいから本来ストレスにはならないはずなのですが、普段スポーツをやっていない人だと、スポーツでかかった心拍の負荷を大きなストレスと判断してしまうらしいんですね。それを避けるには普段から軽い運動を習慣化するのが効果的なのですが、今って学校で怪我をすると大事になっちゃうし責任問題を避けて運動に消極的な学校も増えているから、子供たちでさえ運動不足だったりする。大人になっても、割と身近にスポーツがある海外に比べると、日本はまだまだ普及しているとは言えない状況です。私にとってスポーツは人生に欠かせないものだし、これまでずっと助けられてきたものでもあるから、今後はそういった問題を解消するための活動にも力を入れていきたいと考えています。 



応援とは、前進していくための力



ーー現在の瀬川さんはヴェルディでの活動と並行してモデル活動も行っていますが、毎日どのような生活を送ってらっしゃるんですか?

普段の日は会社員として働いています。東京オリンピックが終わった後に入社した会社なので、今は2年目。入ってすぐに大きなプロジェクトに参加させてもらって、そこからの1年は毎日深夜まで働くくらいの激務でしたが、今はそれが落ち着いたところです。だから普段は仕事をしながら、午前か午後のどちらかでウエイトトレーニングや慶応大学での練習に参加しているような感じですね。やっと時間ができてきたから、今後はもう少し社会貢献活動に費やせる時間が欲しいなと思っています。今はその活動をやりやすくするための、生活の基盤を作っているような段階です。

ーー2024年開催のパリ五輪も迫ってきましたが、それも目標のひとつですか?

パリももちろんですが、その先、2028年開催予定のロサンゼルス五輪が現段階でのいちばんの目標です。ロス五輪を自分の競技人生のピークにしたいんです。東京オリンピックでは、プレイヤーとしてすごく良い試合、それこそ人生でいちばんと言えるほどの良いプレーができました。東京オリンピック前も怪我をしたり両足首の手術をして長期間走れない時期があったり、本当にいろいろあったけど結果的に良い試合ができたから、次はもっともっとパワーアップした姿を見せたいと考えています。パリももちろんですが、その先、2028年開催予定のロサンゼルス五輪が現段階でのいちばんの目標です。ロス五輪を自分の競技人生のピークにしたいと思っています。東京オリンピックでは、怪我をしたり両足首の手術をして長期間走れない時期があったり、本当に色んなことがあった中で、プレイヤーとしては自分史上最も良いプレーができました。でも結果に繋げることはできなかったので、自分としてもチームとしても、さらにひとまわりもふたまわりも大きくならなければならないと思っています。次はもっともっとパワーアップした姿を見せたいですね。

ーー逆境をも力に変えて結果を残してきた瀬川さんですから、5年後にどんな姿を見せていただけるのかとても楽しみです。

入院したり怪我したり、プライベートでもいろいろあったり本当に人生逆境ばっかり(笑)。だから、いつも辛いことがあったら「ネタが増えたな」って思うことにしています。そう思わないと乗り越えられないし。でもその全部に絶対意味があると思うから、逆境カモンって感じです。良い経験もどんな経験も経験したからこそわかることもあると思うし、母に辞めさせてもらえないからと続けていたホッケーも、ここまで続けてきたからこそいろんな機会や出会いに恵まれた。だから今はホッケーをやってきて良かったなと心から思っています。

ーー最後に、瀬川さんにとって応援とは何でしょうか。

家族や友達含め、周りの人みんなに応援されていることはわかっているけど、みんな直接言葉に出して「応援しているよ」みたいなことはあまり言わず、いつも静かに見守ってくれているんですよね。私が結構恥ずかしがやで、意外と考えすぎることを知っているからですかね……(笑)。だから私自身はいつもそういう存在がいることを忘れずに、常に「誰かのために」と思いながらプレーしています。応援してくれている人にプレーで返せるものもあるかもしれないし、それ以外の人にも、私のプレーから何かを感じ取ってもらえるかもしれない。よく憧れの選手を聞かれるのですが、私は誰かになりたいと思ったことはないんです。いろんな選手を見てそれぞれの良いところを学んで、自分の一部にしていきたい。人は自分の目で見たもので形作られていくと思うから、今私と接している子供たちにも私を将来の自分を構成する一要素にしてもらえると嬉しいです。いつも見守ってくれる家族や友達、私の姿を自分の力にしてくれる子供たち、そういった存在そのものが応援だし、その存在のおかげで私も前進できている。みんなの応援が、私自身の背中を押す力に繋がっています。