SPORTIST STORY
PROFESSIONAL BASEBALL COACH
雄平
YUHEI
STORY

イップス、野手転向、大怪我。絶望を希望に変えた「できることをやり続ける意志」

投手としてドラフト1位での指名を受け、プロの世界へ飛び込んだ雄平。イップスで投げることに苦しんだ日々を経て、25歳で野手に転向。上達の喜びを取り戻し、大怪我からの復帰も果たした。そんな彼に選手人生のハイライトを尋ねると、人として最も成長したのは、現役最後の1年だったと振り返る。思うように動かなくなる体、減っていく出場機会。それでも「もう一度活躍したい」という思いを胸に、自分を律して野球に向き合い続けた時間だった。
幼い頃から変わらない「上手くなりたい」という気持ちと、結果にかかわらず、やるべきことをきちんとやり切る責任感。その姿勢は、コーチとして選手とともに学び続ける今にも繋がっている。そして、その歩みの裏には、彼を支えた人たちの存在がある。「自分は強い人間ではない」と語る彼に、野球人生と、挑戦する力をくれた応援への思いを聞いた。

Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga
Photo / 株式会社楽天野球団、株式会社ヤクルト球団 / Katsuaki Sato
Interview date / 2026.09.04



体格を言い訳にしたくなかった。投手への憧れと負けず嫌いの原点



ーーまずは雄平さんが野球を始めたきっかけから聞かせてください。

3歳上の兄が小学校で野球を始めていた影響で、僕も小学1年生になったタイミングで兄と同じチームに入りました。兄が野球を始めると、兄弟間の遊びも自然と野球になるんですよ。僕も保育園の頃からずっと兄と野球をして遊んでいたので、「小学校に入ったら絶対にチームに入ろう」と決めていました。

ーーご両親も野球がお好きだったのですか?

そうですね、父も中学校まで野球をやっていたそうです。

ーー小学生になって、実際にお兄さんと同じチームに入ってみて、どうでしたか。

当時そのチームは、学年ごとにA、B、Cと3つのチームに分かれていたんです。6年生がAチームだったんですけど、低学年のCチームはまだ試合ができない。だから始めてすぐに、「なんで僕はBチームじゃないんだ」「早くBチームに上がりたい」と思っていたことは覚えています。

でも左利きだったので、他の子たちより少しだけ早くBチームに上げてもらえたんですよ。試合にはまだ出られなかったんですけど、それは嬉しかったな。

ーー当時のチームでは、どのような指導を受けていたのでしょうか。

暴力的なことや暴言はありませんでしたが、野球については厳しいチームだったと思います。ランニングもきつかったし、練習はハードでした。

ーー遊びだった野球から厳しい野球になったことで、嫌になることはありませんでしたか。

それはまったくなかったです。「上手くなりたい」としか考えていなかったので。長距離を走るのは得意じゃなかったし、練習も大変でしたけど、野球を嫌だと思ったことはいちどもありませんでした。

ーー小学生の頃から、上達したいという気持ちが強かったんですね。

かなり強かったと思います。負けず嫌いな性格なので、「負けたくない」という気持ちが強かったのかな。小学生くらいの年齢だと、まだチームの外のことはあまり見えないじゃないですか。だからその頃は「チームの中で上手な兄や、年上の上級生たちよりも上手くなりたい」と考えていました。

ーー中学に上がっても、その気持ちは続いていたのでしょうか。

そうですね、中学校までは完全に身近な年上の人達に追いつきたいと思っていました。1年生の時は2、3年生に勝ちたかったし、2年生になったら3年生を追い越したかった。

その気持ちが変わったのは高校に入った時です。僕の2つ上にいた先輩のうち3人がプロ入りしているのですが、その方々のプレーを見た時に、「この人たちのようなレベルまで行けたら、僕もプロに入れるんだろうな」と思ったんです。

高校に入ってからは、それまで単純に抱いていた「負けたくない、追い越したい」という気持ちが、「プロになるために、2年後この人達のレベルにまで到達する」という明確な目標に変わりました。

ーー母校である東北高等学校を選んだのは、どのような理由からだったのでしょうか。

理由はいくつかあるんですけど、まずピッチャーをやりたかったんです。

他の名門校からもお誘いはありました。ただ、東北高校以外の高校では、どちらかというとバッターとしての評価が高かったようで、「ピッチャーもやってもらうけど、どちらかといえばバッターで」という話だったんです。

でも僕はピッチャーにプライドを持っていたので、ピッチャーをやりたかったんですよね。それにピッチャーをやれば、バッターもできるという思いもありました。

そんな中、当時の東北高校の監督は、「バッターとしても良いけど、ピッチャーとしてすごく素質を感じるから、ピッチャーとして育てたい」と言ってくださいました。

さらに、中学時代に、先ほど話した2つ上の先輩たちの試合を見せてもらったことも理由として大きかった。関東遠征の時に試合を観たのですが、強豪校である対戦校を圧倒するほど強くて。そのプレーを見て、すごいなと衝撃を受けたことも選んだ理由のひとつです。

あと、当時僕が所属していた緑東シニアのチームメイトである同級生2人が、僕より先に東北高校へ行くと決めていたんです。その2人がいたことも大きかったです。

ーー先程ピッチャーにプライドを持っていたと仰っていましたが、その意識はいつごろからあったのですか?

小学校の時からですね。当時から自分のことをバッターだとは思っていなくて、ピッチャーとしてプロ野球選手になりたいと思っていました。

桑田さん(桑田真澄)や工藤さん(工藤公康)のように、背の高くない選手が大活躍している姿に憧れました。僕も小さかったので、彼らのようなピッチャーになりたいと夢見ていたんです。

ーーご自身の体格に対して、コンプレックスを感じることはありましたか。

小学校の頃は小学校の時は、まだ身長が伸びると思っていたのであまり感じていなかったのですが、中学校くらいから気になり始めました。ただ、全国大会などでいろいろなすごいピッチャーを見るうちに、「小さいからこそ負けたくないな」という気持ちも芽生えてきました。

ーー小柄だからこそ負けたくない、できないことをできるようになりたい。そうした競争心は、幼い頃からの経験で育まれていったのでしょうか。

そうですね。中学時代、後にヤクルトに入団した泉(泉正義)選手が同じ地区のシニアにいたんです。彼は全国大会でも優勝していて、身長も180センチ以上あって、しかも140キロを投げる。つまり近いところに、自分よりもすごいと思える選手がいたんです。

そういう選手を見ると、やっぱり「負けたくない」って思いますよね。速い球を投げたいし、能力でも負けたくない。体格のせいで速い球を投げられないとは言いたくなかったんです。コントロールはあまりつかなかったんですけどね。

バッティングも同じです。体が小さいと飛ばすのに不利だというのはわかっていましたけど、それでも大きい人より飛ばしたかった。体のせいにしたくなかったんです。

とは言え、プロ野球選手は大きい人が多かったので、不利だとは感じていました。でも、プロの中にも小柄な方はいる。工藤さんや桑田さんのような選手がいたことは、僕にとって憧れであり、励みにもなっていました。

ーー当時は「体のせいにしたくない」という気持ちを、練習にぶつけていたのですか?

当時は子供だったので、理論的なことはそこまでわからなかったんですけどね。でも、「どうしたら球が速くなるんだろう」「どうしたらもっと飛ばせるんだろう」「どうしたら足が速くなるんだろう」という風に、上手くなるための方法を常に考えていました。

本もたくさん読みましたし、中学生の頃から、自分の理想に近づくにはどうしたらいいのかを考えながら、毎日練習しました。特に高校生の時は、練習メニューも自分で考えて取り組みました。それが結果に繋がったのかどうかはわかりませんが、ただ練習をこなすだけではなく、自分なりに考えて動いていました。

ーー当時受けた指導や言葉で、今も大切にしていることはありますか。

高校時代の監督からは、本当にいろいろなことを教わりました。もう亡くなられたんですけど、野村さん(野村克也)と少し似ているところもあって。

いつも「人間的に成長しないと、野球もうまくならない」というようなことを言っていました。野球だけではなく、私生活や挨拶、返事、掃除。そういったことも含めて徹底する。そこができなければ、野球人としても成長しないという教えは、今も心に残っています。

今コーチの立場から若い選手を見ていても、そうしたことができない選手は、なかなか伸びていないように感じます。楽天の選手はみんなきちんとやっている選手ばかりですが、大切なことだと思いますね。



イップスと向き合い、やり尽くした先に。野手転向に懸けた覚悟



ーー高校時代から150キロを超える球を投げ、卒業後はドラフト1位での指名を受けました。当時の周囲の評価と、ご自身の評価にギャップはありましたか。

すごく高く評価していただきましたけど、正直に言うと「自分の何がよくて、どう評価されているのか」については、あまりきちんとわかっていませんでした。「ドラフト1位は確実」と言われても、「球が速いからなんだろうな」とは思うんですけど、それ以外の理由はわからなくて。

「左ピッチャーで150キロを投げているならプロでもやれるだろう」と評価してもらったんだとは思っていましたが、自分がプロでできるかどうかは、僕自身も当然未知数なんですよね。「まだ高校生だから伸びしろもあるし、現時点で150キロも投げられるから、ある程度できるんじゃないかな」という気持ちもあったんですけど。

でも、やっぱり身長は自分の中でネックだと感じていましたね。

球団側も、この身長で150キロが160キロになるかというと、「ならないだろう」と考えていたかもしれません。僕自身も、155キロくらいまでは投げられるかもしれないけど、160キロを投げられるようになるイメージは湧かなかったんです。

だからスピードだけではなく、コントロールや変化球など、野球そのものが上手くなりそうな伸び代を見せていかなければいけないんだろうなとは、うっすら思っていました。コントロールもすごくいいとは思っていなかったので、それがプロでどれくらい通用するのかという面での不安も、もちろんありました。

ーー実際にドラフトで名前を呼ばれた時は、どのようなお気持ちでしたか。

ドラフト1位で名前を挙げてもらったことは、純粋に嬉しかったです。「やった」という気持ちでした。プロ野球選手になるのは夢でしたし、ドラフト1位で入れるわけですから、その時は「嬉しい」という気持ちでいっぱいでした。

ーー入団して最初のキャンプでは、プロの世界を感じましたか?

僕は1軍スタートだったんですけど、他のピッチャーが試合に向けて調整して、実際に投げ始めても、僕はまだ投げさせてもらえなかったんです。だからピッチングをしながら、他のピッチャーの投球を見ていました。

なかでも石井弘寿さんと五十嵐亮太さんの球の速さはずば抜けていて、衝撃を受けました。コントロールで言うと、石川さん(石川雅規)や藤井さん(藤井秀悟)、高津さん(高津臣吾)もいる。ピッチャーだけでも、とんでもない顔ぶれの方々ばかり。キャッチャーには古田さん(古田敦也)、宮本さん(宮本慎也)、稲葉さん(稲葉篤紀)、ラミレス(アレックス・ラミレス)、岩村さん(岩村明憲)もいる。

もちろん自分もこれからはその中でやっていくわけなんですけど、入ったばかりの頃はそれまでテレビで見ていた人たちと一緒にやっているわけですから、正直、夢の世界にいるような感じでしたね(笑)。「すごい球を投げるな」「すごいバッティングをするな」と、衝撃ばかりでした。

自分もこういう選手達のようになりたいと思いましたが、当時はそれ以上に、周りの方々のプレーから勉強させてもらっていた感覚が強かったです。

ーーその後、1軍で勝利を挙げる一方で、制球に苦しんだ時期もありました。投げることは、次第に苦しくなっていったのでしょうか。

どんどん苦しくなりましたね。理由としていちばん大きかったのはイップスです。

1年目はコントロールが悪くてもイップスではなかったので、その時点の自分の力は発揮できていました。5勝6敗で、イニングも投げさせてもらったんですけど、防御率は悪かったし、フォアボールを出したり暴投もあったので、もっとレベルアップしなければいけないと感じていました。10勝以上したいという夢もありましたから。

それで「このままでは来年も5勝か、それすらできないかもしれない」と思ったことから、新しいことにも取り組み始めたんですけど、そこから少しおかしくなってきました。

ーーイップスになった、明確なきっかけはあったのですか?

ありました。雨の日の阪神戦で、バント処理の時に暴投してからおかしくなりました。確かあれは2、3年目のことだったと思います。

大雨が降っていた日の試合で、人工芝に水がたまっているような状況でした。先発していて、同点のノーアウト一塁という大事な場面で、投げた球がすっと抜けたんです。

暴投はそれまでもありましたが、その時は手の感覚がやたらと残ってしまって。そこから送球がおかしくなって、次に投球がおかしくなって、キャッチボールもおかしくなって……といった感じで崩れていきました。

実はそれ以前にも、1年目を終えたあとにフォームを変えたことで、2年目の初めにイップスっぽくなったことがありました。ただ、その時は克服できて、後半には4勝を挙げることができたんです。

でも、そのバント処理でおかしくなってからは何をしても乗り越えられなくて。いろいろやればやるほど落ちていくような感じでしたね。

ーーその時期は、どのような心持ちだったのでしょうか。

プロ野球選手として、日本の最高峰のところでピッチャーをやっているわけじゃないですか。投げることが仕事なのに、その仕事ができなくなってしまったんです。

逃げられないんですよ。投げることが仕事なのに投げられなくなって、逃げ道がない中で乗り越えるしかない。バッターだったら、走る、守る、打つがあるので、何かができなくても違うところで補える、と思えたかもしれません。

でも、ピッチャーは投げることが仕事です。そこに特化したプロフェッショナルとして在籍しているのに、今までできていたことが、どんどんできなくなっていく。ものすごく苦しい時期でした。

ーー克服するために、さまざまなことを試されたそうですね。

本当に考えつくことは全てやり尽くしました。メンタル面の先生も探して、いろいろなところに行きました。本も読みましたし、練習もしました。

ただ、その練習は、相手を抑えるための練習ではないんです。まずは、自分が狙ったところに投げられるようになるための練習でした。

ピッチャーは相手と勝負しなければいけないのに、そこにまでたどり着けない。投げることが仕事のプロ野球選手なのに、狙ったところの近くに投げるための練習をしているわけです。それでは勝負にならないですよね。

ーーそして25歳で野手に転向。これはどのような経緯だったのでしょうか。

一応、球団には僕から申し出たんです。ただ、球団も野手にさせたいと思っていたのかもしれません。

最初は、秋のフェニックスリーグで「バッターをやってみよう」と言われたんです。「野手転向なのかな」と思ったらそうではなくて、「バッターボックスに立つと、ど真ん中に来ても意外と打てないことを感じてほしい」という意図でのことでした。

センターからピッチャーに行くようなこともやりましたけど、その時はほとんどバッターをやっていました。それがもしかしたら球団からの「野手に転向してほしい」という合図だったのかもしれませんが、当時の意図について球団に聞いたことがないので、その真意はわかりません。

フェニックスリーグを終えて秋の練習に入る時点では、まだ野手には転向していませんでした。でも、僕自身はフェニックスリーグの間に、野手に転向したいと思うようになっていたんです。それで、キャンプ当日に当時監督を務めていた高田さん(高田繁・元監督)に「野手をやりたいです」と言ったら、「いやちょっと待て、サイドピッチャーをやってみろ」と言われました。

ただ、僕はそれまでにもいろいろなことを試していて、サイドピッチャーもやったことはあったんです。だからできないことはわかっていました。とは言え監督に言われたので一度はやってみましたが、その後家に帰って妻とも話して、「やっぱり野手をやりたいです」と、改めてお願いに行ったんです。

そうしたら監督も「球団に確認する」と言ってくださって、その後球団からも了承していただいて、その年の秋キャンプから野手に転向しました。

ーー幼い頃からピッチャーと言うポジションにこだわってきた雄平さんにとって、その決断に至るまではさまざまな葛藤があったのではないでしょうか。

その前年も、その年も、1軍で投げられたのは各1試合でした。でも、その間に自分としてはやり切っていたような気持ちもあったんです。

「投げられなくなった自分はもうクビだ」と思っていましたし、そんな自分に次の1年があるとも思っていませんでした。やることを全部やって、それで駄目ならしょうがないというところまでやり尽くしていたので。

だけどフェニックスリーグで久しぶりに野手をやって、初めは当然打てないんですけど、やっていくうちに打てたり、守備の練習でもできることが出てきたりした時に、なんというかめちゃくちゃ嬉しかったんですよ。

走塁も含めてほとんど何もできないところからのスタートだったので、「できるようになるって、こんなに楽しいんだ」と改めて感じた機会でした。ピッチャーの時は苦しいことばかりだったので、そこでまた野球を好きになれたというか。できるようになっていく喜びを感じるのが、すごく楽しかったんです。

ただ、野手として活躍できるかどうかは、当然わかりませんでした。足は速かったですし、肩も強くて、バットもそれなりには振れる。だから「投げる、打つ、走るの中で何か貢献できれば、1軍で生き残れる可能性が少しはあるのかな」という程度の気持ちでした。「転向すれば活躍できます」という感じでは、まったくなかったですね。

それに、ヤクルトには入団以来ずっとお世話になっていたので、ピッチャーとしては厳しくても、野手としてなら何か球団に貢献できるんじゃないかという気持ちもありました。

ーー野手を始めてから、手応えや自信を感じる瞬間はありましたか。

転向してしばらくは、「いけそうだな」という感覚は無かったです。だけど同時に、長く続けるための、いわば延命のような気持ちも一切ありませんでした。

もちろん、やるからには活躍したいし1軍に貢献したい。でも、自分としては1年勝負だと思っていました。実は「2年契約にしてもいい」と言ってもらえたんですけど、お断りしたんです。「僕はそんな立場ではないので、1年目から勝負できるように頑張ります」とお伝えしました。

目処が立たなかったら、クビでも仕方がない。ピッチャーとしてあれだけ投げさせてもらって、あまり貢献できなかったのに、今度は野手までやらせてもらえる。それだけでも、本当にありがたいことですから、環境に甘んじることなくやりたかったんです。

なので、活躍できそうかどうかではなく、とにかく1日1日レベルアップすることだけを考えていました。あとの判断は球団任せです。使えないと思われたら1年でクビですし、可能性を感じてもらえたら、もう1年。そのくらいの気持ちでやっていました。

ーー先程、送球から投球、キャッチボールへとイップスの影響が広がったとお聞きしました。外野手も送球が必要ですが、そこへの不安はありませんでしたか?

内野手だったら、厳しかったと思います。でも、外野手は遠くへ投げることが多かったので。イップス自体が消えたわけではありませんし、カットに入る選手まで投げるのは少し苦手だったのですが、それは速い球でなくてもいいですし、ピッチャーのように細かいところを狙って投げる必要もない。ある程度の範囲に投げればいいので、イップスに対するストレスは、外野手になってからはほとんどありませんでした。この違いは大きかったですね。



成績のピークと、人として成長する時期は違う。苦しさの中で見つけた選手生活のハイライト



ーーしかし、野手としての経験を積み重ねてきた矢先に、膝に大きな怪我を負います。雄平さん自身は当時、自身の状況をどのように受け止めていたのでしょうか。

怪我をしたのは、やっとレギュラーをつかめる可能性が出てきた年の4月でした。

まだレギュラーにはなれていませんでしたし、ライバルもたくさんいて、彼らと比較されながら順番に使ってもらっている中での怪我だったので、年齢的にも「ここまでなのかな」と思ったのが率直なところです。

2軍で順調に成績を残して、ようやくここまでたどり着いた。でも、治るまでに少なくとも1年はかかるような怪我だったので、その間に他の選手がレギュラーを取る可能性も十分にあるなと思いました。

ただ、そう思ったのは怪我をした最初の頃だけ。1ヶ月後に手術を迎えた時には、もう気持ちを切り替えていました。

1年後にしか野球ができないのであれば、1年後にレベルアップして、周りが驚くほどの成長をして復活してやろうと思ったんです。そして結果的にも、復帰までの時間をすごく良い時間にすることができました。

ーー具体的には、どのようなことに取り組んだのですか。

主に体づくりですね。リハビリのメニューも厳しくて、朝から夕方までやっていました。膝の怪我だったので、地味な練習がたくさんあるんです。

そのうえで、上半身のウエイトトレーニングもかなりやりました。あと、手術したのは右膝だったので、左脚もすごく鍛えました。左脚をトレーニングすることが、右脚にも良い影響を与えるんです。

怪我をした右脚には制限がありますが、それ以外のところは鍛えられるので、夜もトレーニングを行っていました。それを1年間続けられたのが大きかった。

野球選手は野球をしなければいけないので、1年間ずっとトレーニングに特化できる期間はなかなかありません。この1年を持てたことで、大きくレベルアップすることができたと思います。

ーー怪我から1ヶ月とかなり早い段階で気持ちを切り替えられたようですが、どのようなマインドでご自身と向き合ったのでしょうか。

最初の1週間くらいは炎症を抑えないと手術ができないので、あまり動かしてはいけなくて。だからずっと寝ている状態でした。そうすると、気持ちも全然ダメになる。その時は妻にも「いつまでうじうじしているの」「やることがあるでしょ」と喝を入れられました(笑)。

たしかに気持ちを切り替えられないことは良くない。落ち込むばかりでは何も生まれませんからね。

それに、その時期からウエイトトレーニングも始めていたんです。怪我をした箇所以外の筋肉もトレーニングをしておかないと落ちてしまうので、鍛えておかなくてはなりません。

そこで、もういちどトレーニングの勉強を始めました。トレーニングコーチなどに話を聞いたり、本で調べたりして知識を増やして。「1年後に変わった体を見せて、周りをギャフンと言わせるくらいのつもりでやろう」と思ったら、またワクワクしてきたんですよね。

ーーそして翌年、開幕から1軍に入って復帰されました。復帰後は、痛めた膝への恐怖はありませんでしたか?

それはまだありましたね。復帰してからも1年半くらいは、症状が出ることもありました。靱帯だけではなく半月板も痛めていたので、そこがうまくなじんでいなくて、膝が張ったり曲がりにくくなったりすることがあったんです。試合中にスライディングをしなければいけないのにできないような場面もありました。

ーーしかし、成績を着実に挙げ、2014年にはベストナインにも選ばれています。結果として充実した1年だったのでは?

ただ、その中でも打てない時期はありましたし、それでも使ってもらえたおかげもありながらの選出なので、僕自身は「なんとか1年やれた」という感覚でした。本当に、いろいろな人に支えてもらったと思っています。1年間やりきるというのは、結構大変なんですよね。

ーーシーズンを終えた時は、どのようなお気持ちでしたか。

規定打席にも到達したし、いろいろありつつも1年間使ってもらえたことは、ある程度の自信になりました。でも、そうなると今度は「来年もできるのか」という不安が出てくるんです。できた喜びはありますけど、来年も同じようにできるとは思っていなかったので。

ピッチャーの時と一緒です。5勝を挙げられても、「これでは駄目だ。もっとやらなければ」と思っていた。野手としても、自分の中では十分な成績を残せたと思ってはいるんですけど、「じゃあこれを来年もできるのか」、「自分はもっと上に行けるのか」という不安もありました。

毎年、毎週そうなんです。今日試合に出られても、明日出られるかはわからない。そういう気持ちは常に抱えていましたね。

ーー2021年まで現役生活を続けられましたが、ご自身にとって選手生活のハイライトは、いつだったと思いますか?成績だけでなく、人として成長できた時期という意味でもお伺いしたいです。

成績としてのピークで言うなら2014年だと思います。でも、人として成長できたということであれば2021年。現役生活最後の年です。

年々いろいろなことが見えるようになってきて、年齢も重ねて、体もいうことを聞かなくなってくる。体力だけでなく、心も含めて、いちばん苦しかったのは最後の1年でした。

ーー最後の年が、いちばん苦しかったんですね。

年を重ねるほど苦しくなります。いろいろなピークを過ぎて、少しずつ立ち位置が変わっていくんですよね。2軍に下がったり、さらには2軍でも使われなくなったり。

今、僕は2軍のコーチをやっているので、他チームのベテラン選手を見ることもあります。当時の僕と同じような気持ちの人もいるんだろうなと感じます。その環境は、やっぱり苦しいものですよ。

でも、そういう状況であっても自分をしっかりコントロールして、くさらず一生懸命に、いろいろな経験を積んだうえで、葛藤しながらそれでもやっていく。これは若い時の自分では絶対にできなかったことなので、そういう意味では、あの時期が選手生活のハイライトだったと言えるかもしれません。

ーー成績の良かった年ではなく、苦しかった時期の方を、自身の成長を感じたハイライトとして捉えられているんですね。

人って、良い時はいいんですよね。苦しい時にどうできるかだと思います。

年々辛くなるんですよ。クビも見えてくるし、それなのに体も思うように動かない。自分の立ち位置が下がっていく中で、それでも自分は自分としてしっかりやれるかというところですよね。そういう時の自分の姿や立ち居振る舞いは、きっと周囲も見ています。

僕自身も、若い選手に何か教えてほしいと頼まれれば教えたりしつつ、だけど自分自身も「もう一度花を咲かせたい」という気持ちはずっと持ち続けていました。「無理かもしれない」と心のどこかでわかっていても、少しの光を目指して、なんとか道をこじ開けようとする。そういう葛藤の中で過ごした1年は、より自身を成長させた時間だったと思います。

これが1年、2年と長く続くほど、もっと成長していくのかもしれないですね。

ーー引退試合は、強く記憶に残っていますか。

よく覚えています。1軍の引退試合は、ヤクルトが優勝して消化試合ができればという話でした。最後まで順位が決まっていなかったので、ギリギリまで試合が無い可能性もあると思っていて。だから、自分の中ではヤクルト戸田球場での楽天戦が引退試合だと思っていたんです。

その試合ですごく覚えているのが、僕がライトを守っていた時に田中和基(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)が、わざと僕のほうへ打ってくれたこと。明らかに引退する僕に捕らせようとしてくれたように見えたことは、よく覚えています。相手側のピッチャーには同級生の選手だった牧田和久(現・福岡ソフトバンクホークスコーチ)もいました。

ーーその後、1軍での引退試合は2021年11月1日の広島戦でした。

「1軍ではなくてもいい」と伝えていたのですが、球団がそういった機会を設けてくれました。そんな機会をいただけるのであれば、球団をはじめ本当にいろいろな人にお世話になった選手生活だったので、最後にプレーで感謝を表したいと思いました。ただ、出るからには絶対にヒットを打ってやろうとも思っていましたね。

ボロボロになって、もう駄目だから終わったとは思われたくなかったんです。最後まで弱いところを見せたくなかったというか、「まだいけるじゃん」と思ってもらいつつ終われたらいいなという気持ちでした。結果として打てないかもしれませんが、それでも気持ちはしっかり持って臨むことが大事だと考えていました。

ーー雄平さんはフルスイングや全力疾走に加えて、ライトからのカバーリングも大切にされていたと伺いました。カバーリングは数字には表れにくいプレーですが、ここにはどのような思いがあったのでしょうか。

「できることはやらなければいけない」と思っていたので。140試合もあると、カバーリングって結構大変なんです。外野手の中でも、ライトは1塁へのカバーなどでいちばん動くのでかなりきつい。でも、そこは絶対に怠りたくありませんでした。

1年間で1回あるかないかのことですし、実際に僕も、多分1回しか無かったと思うんです。でも、おかげでその1回を完璧にカバーできました。

カバーリングは、できることじゃないですか。できることを怠っていては駄目だという、自分の信念があったんです。

1塁まで駆け抜ける時も、足が痛くて、力を抜いているように見えた試合もあったかもしれません。それでも、その時々のベストを尽くしてできることをやるということは、自分なりに徹底してきたつもりです。

僕はピッチャーも経験しているので、ピッチャーの気持ちもわかります。カバーリングひとつで失点を防げれば、助かるじゃないですか。だからカバーリングの徹底はチームプレーだと思ってやっていました。

ーーやり続ける中で、少し怠りたくなるような時はありませんでしたか?

まったくありませんでした。どんなにきつくても、そこをやらないなら試合に出る資格はないと思っていたので。プロですから、できることをやらないのはプロではないと思っていたんです。打てるかどうかという結果は、出せないこともあります。でも、できることをやる責任はありますからね。

ーーそうした姿勢も、ファンに愛されていた理由のひとつだったのではないかと感じます。

どうなんでしょうね(笑)。でも、とにかく一生懸命やっていたので、その一生懸命さを、そういうふうに感じてもらえていたなら嬉しいですね。



応援とは、「エネルギーの核」





ーー現在雄平さんは、東北楽天ゴールデンイーグルスで2軍コーチを務めています。これまでの経験は、今の指導にどのように活きていますか。

自分が経験した中で絶対に大切だと思ったことについては、信念を曲げずに伝えるようにしています。若い選手が多いので、技術的なことだけではなく、メンタルの面でまだまだ未熟な選手もいますが、高校時代の監督に教わったように、上達するためには日頃の気持ちや私生活、挨拶なども大切だと、僕自身も思っています。だから、そうした自分にできることをやらなかった時は、きちんと話すようにしています。

技術的なことについては、自分の経験だけに頼るのではなく、コーチになってから一緒にやっている仲間のコーチや、監督、そして選手達からも、いろいろなことを学びつつやっています。チームや選手のためにも、僕自身も成長していかなくてはならないので、日々一生懸命です。

ーーコーチにもさまざまなスタイルがあると思いますが、雄平さんは積極的にアドバイスをするほうですか?

会話が多いタイプかもしれません。ただ、「こうしなさい」と言うよりも、まず話を聞くようにしています。やるべきことをやらない時は怒りますけど、技術的なことは、しっかりコミュニケーションを取っているつもりです。

彼らがどう考えているのかが、すごく気になるんです。何を考えたからそうなったのかがわからなければ、指導もできないと思うので。だから、まずは聞くタイプですね。

ーー相手の考えを聞いて、尊重することを大切にしているんですね。

基本はそうですね。ただ、聞いたうえで尊重しないこともあります。「それは違うんじゃないか」と思ったら、話をします。

選手たちが何を考えて、どのような意図を持ってやっているのか。彼らにも、自分なりの理論を持って取り組んでほしいんです。だから基本的に相手の考えを尊重しつつ、違うと思うところがあれば、「こういうふうに思うんだけど」と対話していく感じですね。

ーー引退して、現在はコーチの立場にありますが、ファンの存在について改めて感じることはありますか。

2軍は1軍よりもお客さんの数は少ないので、1軍の熱量はすごいなと改めて思います。もちろん2軍の試合に来てくださる方に対しても、ものすごくありがたいなと思っています。

選手の気持ちは、お客さんの数によっても変わると思うんです。満員の球場は雰囲気が全然違う。空気を変えるだけのパワーが、ファンの方にはあるんですよね。

僕は、ファンの方からあまりやじられることもなく(笑)、いろいろな人に支えてもらった現役生活でした。お客さんが喜んでくれると嬉しかったし、いつも励まされて、エネルギーをもらってプレーしていました。お客さんがいればいるほど、気持ちも高まっていました。

ーー野手転向の際には、奥様から「新しいスタートだよ」と背中を押されたと伺いました。ご家族やファンなど、支えてくれた方々について、今どのように感じていますか。

僕は、本来強い人間ではないんです。ファンの方や支えてくれる人達がいなかったら、絶対にここまで来られませんでした。野球も上手くなれていなかっただろうし、どこかもっと早い段階で挫折していたと思います。それはプロになってからだけではなく、小学校の時からそう。本当にいろいろな人に支えてもらってきました。

応援されることは、本当にエネルギーになります。その力は間違いなく感じていますね。

ーー最後に、あなたにとって応援とは?

「エネルギーの核」ですかね。自分の心の中心に来るものです。

人からの応援って本当にパワーになるんですよね。応援は、自分の外から来るものじゃないですか。それが自分の中にぐっと入ってきて、力になる。だから、自分の核となるものなのかなと思います。

みんなひとりでは生きていけないですから。だからきっと、選手もファンも、誰もが人と人との関わりの中で応援しあって、力をもらっているんだと思います。