SPORTIST STORY
ANNOUNCER / AMERICAN FOOTBALL COACH
有馬隼人
HAYATO ARIMA
STORY

後悔しない人生のために

現在、Xリーグ『アサヒビールシルバースター』HC兼オフェンスコーディネーターを務めつつ、アメリカンフットボールの実況・解説者、ラジオDJなど幅広い分野で活躍する有馬隼人は、自身もアメリカンフットボール選手として活躍していた元アスリートだ。府立箕面高校時代は後に「箕面現象」と呼ばれる伝説的なプレーの数々を残し、強豪関西学院大学では当時20数年ぶりとなる1年生先発QBとして出場、大学卒業後はアナウンサーとしてキー局に入社。細やかな分析力と準備でもって順風満帆な人生を歩んでいた彼が唯一想定できなかったこと。それは、自分自身が持ち続けていた、諦めきれないアメリカンフットボールへの情熱だった。

Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga 
Photo / Naoto Shimada

自分を変えるため「ぶつからなくちゃ始まらない」アメフトの世界へ

ーー子供の頃からスポーツには慣れ親しんできたそうですね。

親がスポーツ好きだった影響もあって、小さな頃からTVやラジオなどでいろんなスポーツを観ていたんです。野球、相撲、ゴルフ、水泳、陸上、バレーボール等、あらゆる競技を観ていたので、自然と「自分もスポーツをやってみたいな」と思うようになりました。小学校の頃にやっていたのは野球です。高学年になった頃、それまで住んでいた広島県から大阪に引っ越したのを機に地元野球チームへ入団しました。

ーーそして中学校でバスケ部、高校ではアメフトと進んでいくわけですね。

バスケを始めたのは、入学した中学校に野球部が無かったからです。「部活はどこに入ろうかな」と考えていた時にバスケ部顧問の先生が熱心に勧誘してくれたので入部しました(笑)。バスケ部でもそれなりにシュートは入ったし、副キャプテンにもなれたんですけど、ゴール下に突っ込んでいくようなプレーになかなか踏み切れないのが弱点でした。実は野球をやっていた時から感じていたことですが、当時の僕はどうも気持ちが優しすぎるというか、野球でピッチャーをやっていた時もアウトコースにしか投げられなかったくらい、ダイレクトにぶつかっていくプレーを避けてしまうところがあったんです。それもあって、高校ではぶつかることが当たり前の競技であるアメフトを選びました。アメフトはぶつからなくちゃ始まらないスポーツ。この環境に身を置くことが、今までの自分を変える新たなステップアップに繋がるんじゃないかと思ったんです。それに、実は高校入学前からアメフトへの興味は持っていたんです。興味を持ちだしたのは、中学時代に友達と万博球技場へサッカーの試合を観に行ったのがきっかけです。当時はまだJリーグ発足前だったこともあり、観客の数はすごく少なかった。しかしその一方で、同じスタジアム内では何万人もの観客が集まる試合も開催されていたんです。ちょうど試合が終わったタイミングだったのか、ものすごい数のお客さんがドドっと溢れ出てくるところに遭遇した僕は、あまりの人の多さに「何だこれは!?」と驚きました。「こんなにお客さんが集まるスポーツって何だ?」と見てみたら、アメリカンフットボールだったんです。強豪大学同士が対戦する試合だとリーグ戦から何万という数の観客が集まるし、熱狂度も高い。その時見た光景は、すごく印象に残りましたね。それ以降、よくよく気をつけてみると、地上波のテレビでも各局しょっちゅう試合を放送している。僕はテレビっ子以上にテレビをものすごく見る子供だったので(笑)、「アメフトってこんなにすごいスポーツなんだ!」と、より強く思うようになりました。ここから自分の中でアメフトの存在が大きくなっていったように思います。

ーーそして高校入学後、さっそくアメフト部へと入部されたわけですが、この高校で有馬さんは伝説的な活躍をすることとなりました。

でも、試合に初めて出たのは3年生の時なんですよ。僕の進学した箕面高校のアメフト部は部員数がそれなりに多かったので、決して1年生から試合に出られるような環境ではありませんでした。だから入学してすぐ、「試合に出られるようになった時のために、今から準備をしておこう」と考えたんです。とは言え、始めたばかりの頃は体の大きな先輩に吹っ飛ばされて「全然ダメだな」と思うことも多かったですね。はっきりと意識が変わったのは、1年生の夏が過ぎた頃。1年生も出られる練習試合に出た時、1番激しいタックルをしてきた選手が、僕と同じ1年生だったんです。それで完全に火がつきました。だって自分と同時期にアメフトを始めたはずの1年生がこんなにハードなプレーをやっているなんて、負けていられないじゃないですか。それからは、接触プレーや倒されることへの苦手意識が無くなりました。ちなみにその選手とは高校3年生の時に一緒にアメリカ遠征をしてプレーしたり、大学のオールスターでもタッチダウンパスを決めたりと、その後も面白い縁が続きました。

奇跡と言われた「箕面現象」の裏で積み重ねた、2年間の地道な努力

ーーそして有馬選手といえば、高校3年時に出場した秋のアメリカンフットボール選手権大会での大活躍も欠かせないエピソードですよね。当時決して強豪校では無かった箕面高校が奇跡的な勝利を繰り返し、「箕面現象」と呼ばれるほど大きな話題になりました。

僕が1、2年の時の箕面高校は、シーズンで1、2勝できれば良いくらいの成績。他の学校からすると「まぁ勝てるだろう」と思われているようなチームでした。だからこそ、僕たち同級生のチームメイトは「自分達が3年になって試合に出られる時には勝てるように、とにかく勝つための準備をしておこう」という考えでもって、それまでの2年間ずっと練習してきていたんです。1年生のときから勝手にグラウンドで朝練をしたり、近隣の学校がやっている試合を撮影しに行ってみんなで分析したり、顧問の先生が空いている教室を貸してくれたのでそこに集まって海外のプロの試合が映ったビデオを見ながら研究したり。「3年生になった時にこの成果を全部出そうぜ」と言い合いながら、地道な準備を続けてきました。だから、3年生になった時出場した大会での僕らの勝利は、当時「奇跡的」と言われたけれど、2年間続けてきた準備の成果を全部出しただけなんです。シード権争いの試合で勝ち進んだ後、春シーズンも1回戦勝利、2回戦では完封勝利で勝ち進みました。最後まで勝ち上がって大阪代表として出場した関西大会では途中敗退となりましたが、次のクリスマスボウルに繋がる秋シーズンでもそれまでの箕面高校の実績からは考えられないようなジャイアントキリングを毎回続けることができ、いつのまにか「箕面現象」とまで呼ばれるようになりました。高校時代を共に過ごしたチームメイト達もこれらの大会での成績を高く評価され、その後たくさんの大学から声が掛かり、大学でもアメフトを続けた選手が多かったです

策をしっかり練って挑めば強い相手でも何とかできることがあることや、人それぞれの役割と特徴を活かしてチームを強化していけば良い結果に繋がること。そういったアメフトの楽しさを人並み以上に体感させて貰った高校時代でした。この時経験したことは、その後の人生にも存分に活きているように思います。

ーー関西学院大学でもアメフトを続けたのは、箕面高校での素晴らしい経験があったからでしょうか。

そうですね、もしあれだけの成果を出せず勝てないまま高校生活を終えていたら、アメフトは高校までですっぱり卒業して、大学では勉強したり留学したりしていたんじゃないかな。

ーーということは、関西学院大学への進学も就職軸というよりはアメフト軸で決められたんですね。

アメフトを続けることを前提に決めました。最初は神戸大学に進もうと考えていたのですが、当時大学アメフト界で3強と言われた3大学(京都大学、立命館大学、関西学院大学)のうち、関西学院は3位に甘んじることが多くなっていました。現在は国内トップのチームですが、当時は「関西学院は二度と日本一になれないだろう」と言われていた。だったらその大学で甲子園ボウルに辿り着くのも面白いんじゃないかと思ったんです。

ーーそして入学後は、なんと1年時からQBでスターター出場。

ありがたいことに、大学での初戦はスターターとしてのデビューでした。当時も28、9年ぶりのことだったそうです。ちなみに今年の開幕戦で星野秀太くんという選手が同じく初戦先発でデビューしたのですが僕以来26年ぶりのことだったそうで、記事を見て嬉しい気持ちになりましたね。

ーーしかし1年生でそこまで活躍していると、同級生や先輩からネガティブな感情を向けられることはありませんでしたか?

関西学院大学は、「後輩を活躍させる」という考えを強く持ったチームなんです。チーム全体が、いかに能力のある後輩を早く育て上げてチームに貢献させるかを最優先に考えるので、練習前のグラウンド整備やボール磨き、後片付けなどの準備・雑用は全部最上級生の4年生がやります。1年生は空いた時間を勉強に充てて早く単位を取ったり、トレーニングの時間に充てたりしろと言われていました。これは当時僕自身もすごく感動しましたし、今でもすごいなと思います。だからネガティブな感情を向けられるどころか、先輩達にはこれ以上無いくらい良くしてもらいましたね。もちろん同じポジションの先輩の中には悔しく思う気持ちもあったかもしれませんが、それで辛く当たられるようなこともなく、とても良い環境を作って貰えました。

ーー体育会系ならではの上下関係を想像していると、すごく意外なエピソードですね。

最近は関西学院大学以外にも、そういった考え方の大学が増えてきているようですね。先輩が後輩を応援するような形で、下級生の力を引き出すことでチーム全体の力を上げていこうと全員が努力しています。この意識が強さの秘訣なんでしょうね。

 

アメフトの世界に戻った背景、それは自身の後悔と向き合ったから

ーー先程お聞きした関西学院大学アメフト部の考え方は、そのまま有馬さんのスタンスにも共通しているように感じます。

確かに、僕自身もキャリアや年齢は関係ないという考え方を強く持っていますね。当時の環境が良い形で作用しているのかもしれません。この考え方はスポーツに限らず、例えば仕事の上でも同じです。縦社会的な考えではなく、やりたい人が誰でも上を目指すべきだし、目指せる環境であるべきだと思っています。

ーー大学時代には選手としてメディアに登場する機会もあったそうですが、この経験がアナウンサーの道へと繋がるのでしょうか。

いえ、実は最初からアナウンサーを目指していたわけでは無いんです。日本にはアメフトのプロリーグが無いので、アメフトを職業として生きていくことができませんよね。だから社会人リーグで活動する選手は、みんな仕事をしながら高いレベルで競技を行っています。でも、僕にはそれができないなと思ったんです。僕は人よりも長い時間をかけてチームビルディングするスタイルだったから、そのやり方のまま社会人として競技を続けるのは厳しいなと判断しました。だから、大学を卒業したらアメフトから完全に離れるつもりで就職活動をしていたんです。職種については、スポーツが好きだから漠然とスポーツに関わる仕事に就きたいと考えていました。選手としてではなくとも、その周りからスポーツを盛り上げることができればいいなと思い、テレビ局や新聞などのメディア、イベント企画会社などを志望したんです。特にテレビ局は、子供の頃からものすごくテレビを見ていた僕にとって、とても魅力的でした。子供の頃は音楽番組やバラエティ番組、そしてあらゆる競技のスポーツ中継に夢中でした。例えば、ゴルフのマスターズが早朝から生中継される日は、出勤前の父と登校前の僕、ふたりで一緒に観戦してから出かけたりしていました。そんな感じで、テレビって僕にとって常に思い出の側にある大切なものとして染みついていたものだから、テレビ局を受けるのはわりと自然な流れでした。アナウンサーという職種については、テレビ局という就職先にそういった選択肢もあったから受けてみた、という感じです。

ーーとは言え、就職先としてのアナウンサーってものすごく狭き門なイメージなのですが……。

そうですね、就職自体が大変な時代でもあったし、僕の同期は3人でしたがそれも当時8000人ほどの受験者から受かった3人だと聞いたので、狭き門だったと思います。でも僕はアメフトの世界でずっと傾向を掴んで準備することを繰り返してきたので、就活においてもやるべきことはそんなに変わらなくて。アナウンサー試験で求められる人はどんな人だろう、面接やカメラテストではどんな結果を出せばいいんだろうと考え、準備して挑みました。

ーーなるほど、考え方としては面接も試合も同じなんですね。

何においても大切なのは準備ですからね。調査して分析に取り組むこと傾向を掴んで対策を練っていくというのは中学時代から持ち合わせていた気質ですが、アメフトの試合でそれを何度も繰り返し実行していくことで、より培われたように感じます。今でいうPDCAを回す、みたいなことですね。トライアンドエラーを続ければ結果に繋がるとアメフトで体感できたおかげです。

ーーその後、テレビ局へと就職されましたが3年後に退職。ふたたびアメフトの世界へと戻られましたが、これはかなり大きな決断だったのではないでしょうか。

就職を機にきっぱり辞めたと思っていたのですが、取材先でプロの選手が大観衆の中でプレーしているのを観ていると……。やっぱり「スポーツをやりたい」という気持ちは、いつもあったように思います。現役復帰の大きなきっかけとなったのは、ライスボウルで大学3連覇のニュースを見たことです。僕は4年生で大学日本一になったあと、社会人の日本一と対戦するライスボウルの舞台で、社会人チームに敗退してアメフト生活を終えているんです。基本的に大学チームよりは社会人チームの方が優勢なのですが、僕が就職した後、関西学院大学の後輩達が社会人チームを破ってライスボウル優勝を果たしたんです。自分が実現できなかったことなのですごく嬉しかったし、羨ましかった。しかもその翌年から2年間、今度は大学時代ライバルだった立命館大学が社会人チームを破って2連覇しました。自分が果たせなかったライスボウル優勝という夢を後輩や当時のライバルたちが達成しているのを見た時に、今度は自分が社会人としてライスボウルに出て強い大学チームと試合をしたい、もう一度日本一を目指したいという思いが湧いてきました。この思いが復帰の大きな引き金になったと思います。

ーーアナウンサーを辞めることへの葛藤はありませんでしたか?

悩んだ時間自体は短かったですね。その時すでに25歳、現役復帰して第一線に戻れるタイムリミットも迫っていたので、悩める時間もあまり無かったんです。2、3年考えてから決めることはできないから、続けるにしても諦めるにしても、決めるのは今だなと思いました。そして悩んだ結果、1月のライスボウルで立命館が2連覇したのを見たその月内に意思を固めて、「この春で辞めます」と会社に伝え、3月末で退職しました。きっと、決断に至った最大の理由は後悔なんですよね。辞めると決めた自分の決意を尊重したい気持ちもあったけど、同時に「自分はまだやりきれてなかったんじゃないか」という気持ちが強かったんだと思います。自分が大好きで長く取り組んできたスポーツなのに納得いくまでやりきれずに終わってしまったという経験は、人生の後悔として残るものだなと、強く実感しました。

ーーアナウンサー時代は、練習やトレーニングもまったく行っていなかったんですか?

時々ジムに行ってはいましたが、アメフトのトレーニングはまったくしていませんでした。一応アナウンサー時代もクラブチームに籍は置いていたのですが、練習もトレーニングもほぼやっていません。

ーートライアウトを経て現役復帰を果たしたチームは、奇しくも大学時代最後のライスボウルで敗れたアサヒビールシルバースターですね。

現役復帰するなら自分が最後に敗れた相手である、アサヒビールシルバースターを選びました。復帰までのトレーニングや体を作り直す過程はかなりキツかったですが、その年の秋リーグ出場を目標としていたので、退職すると決めてからすぐ体づくりを始めて、なんとか間に合わせました。

 

何気ないプレーへの歓声、街ですれ違う人からの声援、その一瞬一瞬で魂が震える

ーー紆余曲折あるものの、有馬さんの人生は常に自身が思った通り進んでこられているような印象なのですが、体感としてはいかがですか?

たしかに、多分一般的な目で見ると、アナウンサー時代までは順風満帆なイメージを受けるでしょうね。「良い学校を出て大きな会社に就職」みたいな、いわゆる「良い道」を進んできていたと思います。でも、自分がその時々でベストだと思ったことをやってきたつもりですが、すべてが想定していた通りということは無いですよ。アナウンサー時代にはアナウンサーとして描いた理想の将来像もあったし、今だって思い描いていた未来とちょっと違うなと思う現状もあります

ーー今は、後悔は無いですか?

後悔は何事にも常にありますよ。こういう時「無いです」っていう人も多いと思うんですけど、僕はすべての判断と行動に後悔しながら生きているんで(笑)。いつも「ああすれば良かった」「こうしておけばちょっと変わったかもな」って反省してます。でも、それも結構大事かなと思ってるんですよ。すっかり忘れて同じ失敗を繰り返すよりは、後悔して反省して、その都度見えないぐらいちょっとでもいいから成長していくことが大事だと思うので。

ーートライアンドエラーを繰り返して成長してきたんですね。

「何ひとつ後悔なく生きています」って言える人は、それはそれで良いことだなとも思うんですけどね。でも僕は学生時代からビッグプレーでみんなが湧いている時も「もしかしたら別のところにパスを出してたらもっと良かったかも」なんて思っちゃってたタイプなので、これはもう性格です(笑)。ものすごい大観衆の歓声が湧き上がっている時でも、客観的に自分のプレーやチームの状況を判断するよう心がけていました。だからプレーに集中している時って、観客の声もあまり認識していなかったりするんです。でもそんな中でも歓声が聞こえる瞬間というのはいくつかあるんですけどね。

ーー特に印象的な瞬間は覚えていますか?

ひとつは大学1年生で、初めて大きなスタジアムのフィールドに立った時。見上げたスタンドから観客みんながこっちを見ていました。試合前だったのですが、視線を向けてくれているこの全員が自分達を応援してくれていると思うと体が震えて、いつのまにか涙が流れていました。目には見えないたくさんの人の感情が波になって、皮膚がそれをピリッと感じて。自然に涙が流れるってこういうことかと驚いたのを覚えています。もうひとつは大学4年の時。甲子園球場で、この時もたくさんの大観衆に囲まれた中での試合でした。前半リードしていたものの、僕の立ち上がりが悪く相手にリードされそうなピンチを迎えた場面で、ボールをサイドラインの外にポンっと投げ捨てたんです。それは相手にボールを取られないようサイドラインの外に一旦ボールを投げ捨てて次の攻撃を選ぶという、特別でも何でも無いプレーだったのですが、サイドラインの外に向かってフワッとボールを投げた瞬間、ものすごい歓声が湧いたんですよ。多分そこそこの距離を投げるので、ロングパスと思っての歓声だったのかもしれません。でも僕が投げるこのボールに対して、これだけの人が湧いてくれるんだと思った時、これは頑張らなくてはいけないと改めて思いましたね。目が覚めたような感覚でした。そこからは緊張も完全に解けて、ちゃんと自分のプレーができるようになりました。

大学の最後の日本一を決める試合だったし、相手も当然強いし、あと個人的にちょっとプレッシャーもあったんですよね。関西ってフットボールが盛んだから、街中でも知らないおっちゃんおばちゃんに声を掛けられたりするんですよ。それこそ電車の中とかで、「絶対日本一やで!」とか「あんたが頑張れば勝てる!」みたいな感じで激励されたりする(笑)。 もちろんすごく嬉しいんですけど、でも同時にプレッシャーも感じていたんです。でも、そのプレッシャーから解き放たれるきっかけをくれたのも、観客の皆さんの応援でした。

ーー有馬さんのターニングポイントとなる瞬間ですね。

他の人には何気ない瞬間にしか見えなかったでしょうが、僕にとっては大きなターニングポイントでした。期待度が上がればプレッシャーがかかるのは当たり前で、そのプレッシャーを力に変えられる瞬間があるかどうかが重要ですよね。

ーー同じように期待をプレッシャーに感じている選手・アスリートは今もたくさんいらっしゃると思うのですが、その状況から抜け出すためには何が大事だと思いますか?

繰り返しになりますが、やっぱり準備ですね。プレッシャーがかかるシーンで緊張するのも、舞台が大きくなればなるほど緊張するのも当然のことなので、緊張するのはもう大前提として考えるべきで。じゃあ緊張した状態でも上手くやれる人とそうじゃない人の差はどこで出るかというと、やっぱり準備だと思うんですよ。ただ、闇雲に練習することが結果に繋がるかというとそうではなくて、的確な準備が必要なんです。的確な準備ができなかった失敗例としてよく見るのは、端から端まで準備しようとして時間が足りずすべてに自信が持てないパターンや、準備はたくさんしたけど想定力が足りないから自分の行った準備がどの場面に活きるのかわからないまま現場に臨んで、あたふたしちゃっているパターン。まず練習を行う前に「本番でどういう場面がやってくるか」をしっかり具体的に考えて、それに即した練習を積み重ねることが大切なんです。どんな場面が来て、相手がどう来るのか。自分たちの弱みはどういう時に出るのか。これは仕事にも置き換えられることで、例えば会議だったら「こういうことを聞かれそうだな」とか、想定されることを全部一旦考えて、そこに対して奥行きのある準備をしていくことが、結果に繋がると思います。準備の幅を広げるのはみんな得意なので、「めちゃくちゃ準備しました!」って自信持って来るんですけど、この奥行きのある練習をやれていないと、何かあった時すぐに総崩れになっちゃう。そうならないために必要なのは想定力です。通常の練習に加えて、奥行きのある想定で厚みのある練習をしてきたという実感を持てていれば、本番のプレッシャーにも打ち勝てるんじゃないかな。アメリカンフットボールって1回ごとにプレーが切れる、セットプレーをぶつけ合う競技なので、流れが悪くてもリセットが比較的効きやすい。それはつまり局面ごとに準備の成果が出しやすいということでもあるので、一手ごとに後悔できるという面では、僕のような性格の人間に向いているスポーツなんだと思います(笑)。

 

HCとして、実況者として。それぞれの場所での課題

ーー現在は実況などアナウンサーとしてのお仕事と並行して、アサヒビールシルバースターでのヘッドコーチ兼オフェンスコーディネーターも務めていらっしゃいますね。ちなみに、アメリカンフットボールでの「HC」の役割は、野球でいうところの「監督」にあたると考えて差し支えないでしょうか。

それで差し支えないと思います。ちょっとわかりにくいんですが、うちのチームの「監督」はチームの創始者で、今は現場を離れて事務局長や代表に近い仕事を務めてくださっています。だから実際に現場でチームへの指示を出す、野球でいう監督の役割を務めるのはHCです。

ーーアメリカンフットボールは選手もスタッフ数も多い競技ですので、今は選手時代とはまた別の大変さがありそうですね。

今、うちのチームは選手スタッフ合わせると100人オーバーの大所帯。コーチだけでも25人くらいいるので、広く組織を見たうえで必要なところに話をするようにしています。選手に何かを話す時の順番にしても、HCから直接話すこともありますが、基本的にはその選手がディフェンスだった場合、まずディフェンスのコーチに話をして、それからポジションコーチ、本人の順番で話が落ちていくイメージです。会社みたいでしょう(笑)? でもやっぱりみんなに役割があって分業されているわけだから、組織として考えるとディフェンスリーダーやポジションリーダーが「有馬さんにこう言われました」と選手から初めて聞くような事態は避けなくちゃいけないと思うんです。僕はアサヒビールシルバースターのヘッドコーチになる前に別の企業で執行役員と部長を兼務をしたことがあるんですけど、その時に感じた苦労と今感じている苦労は、同じタイプのものだと思います。お金を稼ぐための場所でも夢を叶えるための場所でも、たくさんの人が集まった場所をやりやすい形に管理していくのは大変ですね。

ーーそして有馬さんにはもうひとつ、フリーアナウンサーとしてのお仕事もありますよね。

アナウンサーの仕事はアメフトに復帰した年からやっています。陸上などアメフト以外の競技も含め、アスリートとして出演することもあれば、実況やフリーアナウンサーとしてテレビで話したり、イベントMCを行ったりと形式はさまざまですね。テレビ局を辞めた時点ではそれが今後の生業になるか分からない状態でしたが、どの立場からであってもスポーツを盛り上げたい気持ちは変わらないので、最初は「もし頼んでもらえることがあれば受けよう」くらいの気持ちで考えていました。

ーースポーツを伝える側のお仕事として、実況するうえで心掛けていることはありますか?

子供の頃からスポーツ番組を見続けてきているので、自分の中に「こんな実況だと観やすい、嬉しい」っていうポイントも蓄積されているんですよ。例えばたくさんの説明をするべき場面と黙って競技に集中してもらうべき場面の取捨選択であったり、話し方の緩急であったり。そういったところについては、各競技の特性と流れに合わせて実況しているつもりです。

ーー現在平日月曜から木曜まで毎日ラジオの生放送(※)も担当していますが、生放送も実況と同じで瞬発力を必要とするものですよね。

だから僕、生放送ってすごく好きなんですよね。試合と同じで始まっちゃったら最後までやり切るしか無いし、決まった時間の中で起こることにどう対応していくかというところも同じ。決められた言葉じゃなく「今を」話すのは、実況とも通じる部分だと思います。

※『AWAKE』(アウェイク) https://www.bayfm.co.jp/program/awake/ bayfm 月曜〜金曜 06:00〜8:57。有馬さんは月〜木担当DJを担当。

 

応援とは、「自分を信頼するための力」

ーー有馬さん個人として、やってみたいことはありますか? 例えばスーパーボウル関連のお仕事とか。

それはすごくやりたいです。スーパーボウルって今は深夜に放送しているイメージだと思うんですけど、昔はアメリカの試合時間に合わせて地上波で日本時間の朝から昼にかけて生中継していたんですよ。スポーツキャスターの仕事で現地に行ったりキャンプの見学に行ったりした経験もあるので、いつかスーパーボウルの仕事もやりたいですね。

ーー今現在の、有馬さんの夢は何ですか?

大きな夢は特に無いけど、強いていうなら自分が与えられた環境の中の最適をやり続けることですかね。あっ、でも小さな目標なら結構ありますよ。アメリカンフットボールがもっと成熟したリーグになって全国の人に慣れ親しんで貰いたいし、自分が今いるチームも良くしていきたいし、リーグの改革や環境整備にも積極的に取り組んでいきたいです。

ーーそれは小さな目標……ですかね?

意外と大きいかな? 今自分で話していて思ったけど、もしかしてこれを夢っていうのかもしれないですね(笑)。あと、近年テレビ以外にもネット配信や有料放送などスポーツを観られるメディアが増えているじゃないですか。放送する場所や形式が多様化してきたことによって、これからの時代、さらに実況のレベルが上がっていくだろうなって思っているんです。過去60年、70年とテレビやラジオの実況者達が培ってきた実況のお手本みたいなものはもちろんあって、その本流にのっとって実況をすることも正しいんだけど、同時にそこから逸脱したり各メディアにあわせた新しい流れをつくっていくことも、実況者のレベルをもっともっと上げていくことに繋がると思うんですね。いろいろなメディアで競技を見る人が実況によって楽しく観戦できれば、競技のファンも拡大していける。実況者は競技ファン拡大のチャンスを作れる役割でもあると思うので、自分が頑張ることはもちろん、実況の世界全体が動くようなきっかけを作れるような何かも、今後考えていきたいなと思っています。

ーー有馬さんは今、選手時代の注目「される」人生から、コーチや実況として注目「させる」人生にシフトしてきているようですね。

もちろん難しい場面も多々あるんですけど、やっぱりスポーツが大好きだから、スポーツを観て楽しんでくれる人を増やす活動や、選手達がやりやすい環境をつくることには尽力していきたいです。

注目され続けることって疲れますからね(笑)。自覚が無いだけで、やっぱりどんな形であっても表に立つプレッシャーは、選手みんなが常に感じているものなんだと思うんです。それでも選手達はその注目や期待が嬉しいから、みんな続けているんだと思います。

ーー最後に、有馬さんにとって応援とは?

一言で言うなら、「自分を信頼するための力」ですね。応援って、期待だったり、サポートだったり、声援だったり、いろいろな形があると思うんですけど、どれも自分の進む道を肯定してくれているって気持ちの表れだと思うんです。自分の行動を信じてくれる人がいるのは、自身が自分の行動を信頼する理由になりますよね。いつも戦う相手は結局自分自身で、自分に対しての不安や疑心暗鬼に潰されそうになることがほとんどだと思うんです。自分のやっていることに自分で答えを出すのはすごく難しいし、結局何が正解で不正解だったのかわからないまま流れていくことだって未だにある。そんな時、「でも自分の向かう道を肯定してくれてる人がこれだけいるんだ」と思えることってすごく大きい。誰かから受けた応援は、自分を信頼する力に変えていけます。人間のいちばん弱い部分に力をくれる、それが僕の思う「応援」です。