SPORTIST STORY
PERFORMER / ARTISTIC SWIMMER
杉山美紗
MISA SUGIYAMA
STORY

「自信」って、自分を信じること

2022年、7年間活躍した世界最高峰のエンターテイメント集団『シルク・ドゥ・ソレイユ』を卒業した杉山美紗は、元アーティスティックスイマー。日本代表選手として多くの大会に出場し、mermaid JAPAN.としても活躍していた彼女は、ある日幼少期から追い続けていたオリンピック出場という目標から自身の夢である『シルク・ドゥ・ソレイユ』を目指す道へと、大きく舵をきった。期待に応えたい気持ちや身を削りながら長年積み重ねてきたものをすべて手放し、本当に心が求めることへと歩みを進めた彼女が夢を叶えたその先で見た景色とは。

Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga 
Photo / Naoto Shimada

水が苦手でダンスが大好き。姉の後を追いかけていた子供時代

私は3兄弟の末っ子だったので、小さな頃は兄と姉のまねっこをするのが大好きでした。とにかく2人のうしろについていきたくて、習い事も姉が習っていたバレエ、新体操、スイミングスクールのレッスンを一緒に受ける形で始めました。

でもスイミングだけはすごく苦手だったんです。踊ることが大好きだったからバレエと新体操は楽しかったけど、泳ぎだけはどうしても上手くできなかった。兄も姉も進級テストに一度も落ちたことがないのに、私だけは母に「美紗は泳いでるのか溺れているのかわからなくて心配になる」と言われちゃうくらい不得意でした。

それでもなんとか頑張って続けて4泳法すべてが泳げるようになった頃、姉がスイミングスクールのアーティスティックスイミングクラブに入ったんです。姉が練習しているプールの横で遊んでいるうち、いつの間にか練習にも参加するようになっていたのがアーティスティックスイミングを始めたきっかけです。

クラブのコーチはアメリカにずっと住んでいた方で、教え方もアメリカンスタイル。年上も年下もコーチもみんな敬語を使わないし、先生がとても面白い方だから練習は本当に楽しかった。でもその頃も、まだまだ水の中は苦手。アーティスティックスイミングも全然上手じゃありませんでした。

ーー水が苦手だったとはすごく意外です。不得手なことでも辞めずに続けられた理由は何だったのでしょう。

姉の存在が大きかったと思います。私の姉はすごく努力家で、子供の頃からひとりでも延々練習しているようなタイプ。コーチが誰かに教えている時って他の子が手持ち無沙汰になりがちなのですが、姉はそんな時間も無駄にせずいつも黙々と練習していました。そんな姉についていきたい気持ちが強かったのも、続けられた理由のひとつです。小学校4年生の時には姉妹でチームメイトとして大会に出て、姉の肩からリフトで飛ぶ技を披露したこともあります。この時の事は、今でも良い思い出として記憶に残っています。

ーーオリンピック強化選手のオーディションに初めて参加したのは小学生の時ですか?

11歳、小学校5年生の時です。「国を挙げてオリンピック選手の卵を育てよう」という趣旨の一貫指導オーディションが行われた際に、スクールのみんなと一緒に参加しました。その頃の私にとってはオリンピックなんて遠い世界の話で、好奇心だけで飛び込んでみた感じ。しかも2次試験の200m個人メドレーではビリだったんです。だからまさか合格するなんて思ってもみなかった。

「クラブでひとり合格者が出た」と聞いた時も「誰なんだろう、きっとあの1番上手な子だろうな」と思っていたくらい。だから「(合格は)美紗ちゃんだよ」と言われた時は信じられませんでした。

それからはアーティスティックスイミング1本の生活になりました。ただ、受かったからといって最初から順調というわけでもなく。選ばれた選手のことを「一貫生」と呼ぶのですが、初めて一貫生が集まる合宿に参加した時は競泳の練習メニューで常に周回遅れしているような超劣等生でした。

得意なバレエの練習メニューの時は張り切って踊っていたけど、やっぱり水の中で行う練習はずっと苦手なまま。それでも合格してみんなに褒められたのは嬉しかったし期待にも応えたかったので、できないながらも頑張っていました。

ーー周りとの差を感じて辞めたくなることはありませんでしたか?

落ち込むこともありましたが最初がいまいちだった分、伸びしろもあったからやっていけたのかも。小5から中3までの5年間を強化選手として過ごしましたが、その間に「以前できなかったことができるようになった」と思える瞬間はたくさんあったし、タイムなどわかりやすい数字でも自分の成長を確認できていたので続けられました。

ただ、それでも周りのみんなにはなかなか追いつけないし、選ばれた子の中には遠征に連れていってもらっているような子もいる。私は遠征の存在すら知らなかったので、その事実を知った時には「私も頑張っているのにな」と落ち込んだりもしました。だからこそ、「自分は確実に伸びている、成長できている」と確認できることは、当時の私にとって唯一の希望だったように思います。

また、一貫生の中では周りに追いつけないしんどさを感じているのに、外では「強化選手に選ばれた子」という目で見られるギャップもありました。一貫生に選ばれた直後、競技成績が今までじゃ考えられないくらいポンと上がったんです。それを受けて私は「上手になれたんだ!」って単純に嬉しく思っていました。

だけどその後、何も変わっていないはずなのに、また急にガクンと成績が下がったんです。おそらく「一貫生に選ばれた」というフィルターで一時的に上がっただけだったんだと今なら推測できますが、小学生の私にはまだそこまでの理解はできなかった。自分は常に一生懸命やっているけど、それに対する評価の物差しは外にある。子供ながらに、人からの評価で自分自身がものすごくアップダウンしているように感じてしまうことにとても疲れた時期がありました。

ーー採点競技ならではの難しさかもしれませんね。

最近はフィギュアスケートなどでもルール改正が行われて採点基準がクリアになってきましたし、アーティスティックスイミングでも今後より明確になっていくとは思うのですが、やっぱり完全にフェアな採点をするのは主観が入る以上難しいのではないかなと個人的に思っています。

それが表現の良いところでもあるとも思うのですが、当時の私はまだまだ子供で視野がとても狭かったので、それに違和感を感じつつも、人の評価=点数や、選考会の結果がやってきたことのすべてだと思い込んでしまっていました。今ならそれは「いろいろある評価軸の中のたったひとつでしかない」と思えるんですけどね。

ーー期待に応えたい気持ちが強いタイプだと、特に外からの評価は気になってしまいますよね。

子供の頃から人の目をすごく気にしてしまうところがあったので、余計にそうだったかもしれないです。新しい洋服を買ってもらって気に入って着ていたのに友達に「変な色」ってひとこと言われただけで「もう二度と着ない!」ってなっちゃうようなところが小さな頃からありました。だから良い演技ができて喜んでいる時にコソッと「一貫生だからね」って言われているのが聞こえたり、逆に成績が下がったら「一貫性なのにね」って言われたりするのは堪えましたね。

幼い頃って自分の身の回りの世界がすべてだから、違和感はあるのに逃げられない。でもそのうち、何をやっても良いことをいう人と悪いことを言う人の両方が絶対にいるって解ったんです。それなら自分が本当にやりたいこと、心が求めるものをやりたいと考えるようになりました。


メッキが剥がれて初めて本当の自分を知った

ーージュニアの日本代表に選ばれたのが17歳。以降はmermaid JAPAN. としても数々の大会に出場されていますね。アスリートとしてよりハイクラスな舞台に進んでいくとなると、大変な場面も多々あったのではないでしょうか。

大変だったといって思い出すのは、2010年のワールドカップとアジア大会に出場するための選考会ですね。最近気付いたんですけど、私、代表に入る時は毎回左手が折れているんです(笑)。

その時はゴールデンウィークに開催される日本選手権の結果とその直後に行われる代表選考合宿の結果を照らし合わせて選手を選抜する形で、私は日本選手権のソロ・デュエット・チーム・コンビネーションすべての種目に出場していました。

うちのクラブはちょうどその年に私が最年長のトップで、なおかつ「メダルも狙える」と言われていた年でもあったので特に気合を入れて挑んでいたのですが、初日のチーム演技でジャンパーをした時にプールの床に手が刺さるような形になってしまって、左手甲の骨が折れたんです。だけどその後まだ1曲残っていたし、しかも着替えの時間も足りないくらいタイトなスケジュールだったから、テーピングで左手をぐるぐる巻きにしてそのまま泳ぎきりました。

その後急いで病院に行ったら「折れているし、複雑骨折に近い」と言われました。「手の甲部分の骨なので水圧が上から掛かったら皮膚を突き破って折れた骨が出てきてしまうかもしれないし、そうなったら大変なことになる」とも言われたのですが、どうしても出たいとお願いしてなんとかテーピングで3日間を泳ぎきりました。

その後、再度病院に行ったところ骨が少しずれてしまっていたので、手の中にワイヤーを入れる手術を受け、その術後すぐに行われた選考合宿に参加。なんとか代表に選んでもらえました。

だけど骨折の治療中、左手が使えないから右手ばかりを使っていたせいで体のバランスを大きく崩してしまったんです。私はそれまで体が完全に左右均等と言っていいほどブレが無く、スピンもすんなり綺麗に回れていました。

それが骨折している間に崩れてしまって、いざ左手が治って使えるようになっても体がいうことをきかない。ただでさえギリギリで選抜メンバーに入っていてこの合宿で代表メンバーに選ばれなくちゃいけないし、今はもう自分の軸を直しているような段階じゃないのに、わかっていてもどうにもできなくて。

そこからはもう、自分自身のメッキが剥がれていくような感覚でした。

みんなから「頑張れ」「あなたには素質がある」って言葉でキラキラしたものをくっつけてもらっていたけど、自分の中身はこんなに空っぽだったんだって痛感してしまったんです。

これをきっかけに、もともとの持病だった逆流性食道炎とストレスが重なって食事が摂れなくなりました。代表合宿中も、3食食べても3回吐いてしまう。食べようと頑張っても体が受け付けてくれないから体重も激減して、定期的に記入しなくちゃいけない体重表には嘘の数字を書いていましたがそれでもわかってしまうくらいみるみる痩せて。本当にボロボロの状態でした。

それでも食らいついていこうと頑張ったけど、自分も「こんな状態で代表だなんてとても言えない」と思っていたし、案の定その次の年からは代表落ち。その後もロンドンオリンピックの選考には選ばれず、次の世界選手権の年までは復活できませんでした。

その当時はもう、「辞めたい」じゃなく「辞める」って言い切っていましたね。水着を着ようとしたら涙が溢れて更衣室から出られなくなっちゃって、選考に落ちてから1週間くらいは練習にも参加できないような状態でした。ちょうど20歳くらいの時です。

ーーそこまでの状態から、どうやって気持ちを立て直したのですか?

落ち込んでいる日々の中、ふと「バレエのレッスンを受けたい」と思ったんです。20年ぶりに受けたレッスンは「ここまで体が動かないものか」と思うくらい何もできなかったけど、レッスンを受けたことで「私はやっぱり表現することが好き」だってことを思い出せた気がしました。そこからバレエのレッスンに通ううちに、少しずつ戻ってこれたような感じです。

あと、ちょうどその頃にアーティスティックスイマーとしてシルク・ドゥ・ソレイユの舞台に立てることを知ったんです。初めてシルク・ドゥ・ソレイユのショーを観たのは14歳の時。当時のコーチが表現力のためにたくさん舞台や演劇を見ることを推奨していて、その一環で目にしたのですが、初めて観た時の衝撃はすごかった。その舞台に立っている人たちが羨ましいを通り越して妬ましいと思ってしまうくらいの激しい感情が湧いてきて、それからずっと憧れていた舞台でした。

アーティスティックスイマーからシルク・ドゥ・ソレイユへの道があると知った時、オリンピックの先の目標が初めて見えた気がしました。

これまではずっとオリンピックを目標にしてきたけど、その先に憧れとして思い描いていたシルク・ドゥ・ソレイユへの道も続いていると知ったこと、そして改めて自分の思う表現をやっていきたいと思ったことが重なって、再び今を頑張れるようになりました。

その先の夢に向かっていくためにも、自分の体をきちんとコントロールできるようになっていたいと思ったし、それにやっぱり代表を落ちたまま辞めるのは悔しい気持ちもあったんですよね。この気持ちを自覚したのはそれより少し後のことですが、時間が経つにつれ、胸を張って「日本代表でした」と言える選手でありたいなと思うようになりました。



誰にどれだけ反対されても、大切にしたいと思った気持ちが本物

ーーその後、2年後に再び代表選手となりましたが、ロンドンオリンピックの選考会には落選。しかし、これがその後の杉山さんの人生を変える大きな選択へと繋がります。

ロンドンオリンピックの代表落ちした翌年の2013年、世界選手権に出場しました。こういった状況の時は、みんなすぐに次の目標であるリオオリンピックに向けて体や気持ちを作っていくし、チームも「次のオリンピックに向けて、この1年目をどう過ごすか」という考えでチームを構成します。だけど、みんなの視線がリオに向いている中で、私は一緒にそこを目指すべきか迷っていました。

あと3年間リオに向けて頑張ったあとにシルク・ドゥ・ソレイユを目指すのか、それともここで離脱するのか。すごく悩んで弾丸でラスベガスにシルク・ドゥ・ソレイユのショーを観に行き、そこで気持ちが決まりました。実際にその場に行って自分の目で見たことで、確信したんです。

それから日本に帰ってすぐ「次の選考会は辞退します」と伝えましたが、母にもコーチにも猛反対されました。2013年はちょうど東京オリンピックの開催が決まった年で、2020年の開催時に私は30歳。まだ出場の射程圏内に入る年齢なんです。「そんな時にどうして」と思うのも当然ですよね。すごく反対されたし説得するのもかなり骨が折れましたが、でももうこの衝動は抑えられませんでした。

その後、お世話になったクラブの選手としてソロで1曲集大成の演技を見せて終わりたかったので、2014年6月に行われた日本選手権に出場し、その次の選考会を辞退する形で引退しました。

ーーお姉さんのあとを追いかけて始めたアーティスティックスイミングから、自身がどうしてもその舞台に立ちたいと憧れたシルク・ドゥ・ソレイユを目指す道へ。もちろんそれまでも血の滲むような努力を重ねてきていますが、それをおしても絶対に譲れないものに気付いたタイミングだったのかもしれませんね。

そうですね、小さな頃から人の目が気になりがちなタイプだったと話しましたが、この気付きを得てからは何を言われても「私はこれがやりたかったから」というところですべて収まりがつくようになりました。

それまでの私は「アーティスティックスイミングでオリンピックに行かなくちゃいけない」という気持ちをずっと持っていました。でもそれは夢とかやりたいことというよりは、目標。「周りの期待に応えたい」という気持ちがすごく強くて、そのうえにあるものだったんです。

もしかしたら実際は周りも私が思っていたほど期待を寄せていなかったかもしれないし、勝手に期待されていると思い込んでいただけかもしれません。だけどその声に応えたかった。

でも改めて考えると、競争心もあまり強いほうではないし、そもそも「競技」よりも「表現」の方が向いていたように思います。シルク・ドゥ・ソレイユを目指すと決めてから、バレエも新体操もアーティスティックスイミングも、子供の頃は観客に貰える拍手が嬉しくて頑張っていたのに、いつからか拍手よりも点数が気になるようになってしまっていたことを思い出しました。自分がどう感じるかよりも、人からの評価やどう思われるかを重視するようになってしまっていたんですよね。

だけど、今回の決断はもう絶対揺るがなかった。誰に批判されようとも、本来ならいちばん応援して欲しい母や周囲の人にどれだけ反対されても、それでも行きたいと自分自身が感じた気持ちが何より大事だし本物なんだと、この時解ったんです。

ーーずっと目標にしてきたオリンピックに出なかったことについての悔いは、まったく無いですか?

オリンピックそのものへの悔いはありませんが、「自分がずっと目標としてきたことをクリアできなかった」という部分については少し心残りがあります。やっぱり決断したからといってすぐに切り替えられるものではなくて、数年後のリオオリンピックの時も少し心が乱れました。

リオオリンピックはラスベガスで観たのですが、リオの代表メンバーはほぼ私と一緒に泳いでいたメンバーたちだったんです。そのみんながオリンピックでメダルを獲って「シンクロ日本代表復活!」とメディアですごく話題になっているのを見た時、急に胸がザワザワしたんですよね。「あれ、私はもしかしてリオに出たかったの?」と、自分でも驚きました。

どうしてそんなふうに思うのか。自分とじっくり対話してみて気がついたのは、「人からの称賛」を羨ましく感じていたんだなということ。ちょうどその時は大きな夢を叶えたその先の目標が見えず悩んでいたタイミングでもありました。

次に何を目指すべきなのか模索していた時に元メンバーのみんなが歓声を浴びているのを見て、羨ましく感じた結果のザワザワだったんです。結局、「人からの評価が欲しい」という気持ちからくるものだったんですよね。それに気付けたので、今は選んだ道に進んで良かったと思っています。


夢を叶えるために重要なのは、チャンスを掴む準備をすること

ーーこれまでお話を伺ってきて、杉山さんの中でお母様の存在がとても大きいように感じました。

母の存在はとても大きいです。競技生活にずっと寄り添って、いつも応援してくれていました。コーチよりもコーチっぽいことを言うこともあって、「なんで家の中にお母さんじゃなくてコーチがいるの」と不満に思ったこともあったけど、でも本当に二人三脚でやってきてくれたと思います。

ただ、私は勝手に母はオリンピアの娘を持ちたかったんじゃないかなってずっと思っているんです。母もずっとスポーツをやっていて代表合宿にも出るような選手だったのですが、祖母が長崎の被爆者で心臓が悪かったこともあり、看病のために辞退したそうなんです。私に夢を託してくれていた部分もあったと思うので、引退してシルク・ドゥ・ソレイユを目指すと伝えて泣かせてしまったのは、私にとってもすごく苦しいことでした。

ーーだけど、それでもやっぱり行きたかった。

そうですね、あの時からやっと自分の人生を歩み始めたような感覚です。もちろんそれまでの人生も自分の意思でやってきたことではあるのですが、行くと決めた瞬間から「自分の人生を生きる」ことにコミットしはじめたような気がします。

ーーところで、シルク・ドゥ・ソレイユの一員になるには、どういった方法があるんですか?

不定期で開催されるオーディションのほか、キャスティングのサイトがあるのでそこから応募することができます。私の場合はサイトの「アーティスティックスイマー」枠で応募しました。サイトから必要な資料を送ったうえで、私はシルク・ドゥ・ソレイユに先に入っている知人がいたので、その方を通して直接コーチに資料を見てもらえるようお願いしました。

書類審査をパスしたらオーディション開催の連絡がきます。そこには書類応募した人以外にスカウトされた人も参加します。それに合格したら、「バンク」というリストに載ることができるという流れです。

ーーということは、合格したからといって必ずショーに出られるわけではないんですね。

合格してもショーに出られる確約はなくて、「この役のためにこんな人が欲しい」と必要になったタイミングでバンクからピックアップされた人に連絡が来るんです。「オーディション合格の5年後に突然連絡がきた」という話も聞いたことがあります。

だから私もアーティスティックスイミングを引退する時、母に「シルク・ドゥ・ソレイユに5年間だけ全力を注いで、それで選ばれなかったらその時は就職するから5年間はアルバイトでいさせてください」とお願いしました。

ーーそんな覚悟で挑戦したシルク・ドゥ・ソレイユへの道でしたが、なんと選手引退の半年後には契約を勝ち取りラスベガスへと向かわれたんですよね。

シルク・ドゥ・ソレイユ側で急遽人が必要になったこと、コーチが私の資料を見て気に入ってくれたこと、私を信頼してくれている知人からの後押しなどもあって、すぐに契約を貰えたのは本当にラッキーでした。

ーーとは言えとても狭き門だと思うのですが、この結果を引き寄せた要因について、ご自身ではどのように考えていますか?

チャンスを掴む準備をしていたことが大きかったように思います。シルク・ドゥ・ソレイユに入りたい人は世界中にたくさんいるし、技術的な部分で求められることだけであれば対応できる人もたくさんいると思います。

「じゃあその中で舞台に立てる人と立てない人の差は何なんだろう」といつも考えていました。それはいまだに不明ですが、きっと何かしらのプラスアルファがないと難しいだろうと思って、全身全霊で目指すことだけは心がけていました。

例えばアルバイトの面接でも、シルク・ドゥ・ソレイユはいきなり連絡がきて「すぐに来て!」と言われることも多いので、「私はシルク・ドゥ・ソレイユへの入団が夢で、もし明日来てくださいと言われたらシフトが入っていても行きたいと思っています。無責任なのですがそれでももしよろしければ働かせてください、働かせてもらえるなら一生懸命頑張ります」と伝えていたんです。引退後シンガポールに2ヶ月間臨時コーチとして呼ばれた時も、同じように伝えていました。

そうやって真剣に話すと応援してくれる人もたくさんいます。全身全霊をかけて目指している思いを伝えていると応援してくれる人も増え、それが夢を叶える後押しにもなったように思います。

ーーラスベガスに渡り、シルク・ドゥ・ソレイユに入団してからの日々はいかがでしたか。

先程少しお話ししましたが、実はシルク・ドゥ・ソレイユに入ってショーに出て、「全部夢が叶った‼︎」とアドレナリンが出まくったあと2ヶ月くらい経った時に、「あれ?次は?」って燃え尽き症候群のような状態になってしまったんです。夢の舞台に立ったらすべてが満たされると思っていたのに、そうじゃなかった。夢が叶った後何を目指せばいいのか、目標を見失ってしまっていました。

ショーを終えて帰宅したら深夜。海外にひとりで、孤独もすごく感じていて。その結果まったく眠れなくなりました。そんな中でも新しいことに挑戦してヨガインストラクターの資格を取ったり、不眠症をきっかけに自分の体と向き合ったり、エアリアルを始めたりしました。

特にエアリアルはものすごく練習したんですけど、結局それも私がちょうどできるようになったタイミングで女性ポジションがカットされて男性のみのパフォーマンスになってしまったので、エアリアルパフォーマーとしての契約は取れませんでした。

その時は「叶わなかったという事実だけがすべてだ」と思っていましたが、そこで契約できていたら自信や目標に繋がっていたかと言われたら、多分そうじゃないと後に気付きました。エアリアルも「まったくできなかったことをひとつ達成したら自分の自信になるんじゃないか」という思いから始めたことだったから。

悩みの原因は結局自分に自信が無いからで、アーティスティックスイミングで初めて代表になった時の「自分は空っぽなんじゃないか」という思いから、まだ抜け出せていないんです。シルク・ドゥ・ソレイユにいた7年間は、どうすれば自信をつけられるのかを模索し続けた7年間でもありました。

だけど、ラスト1年で何だか自分の中にすごくいろんな動きがあったんです。特に大きかったのは、シルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーを同時期に卒業した佐藤麻衣さんに貰った言葉。彼女にはすごく仲良くしてもらったんですけど、会話の中で「美紗ちゃんはどんなことがあっても、最終的に自分と逃げずに向き合う力があるから信用している、だから心配じゃないよ」と言ってくれました。

この言葉を貰った時、「これは自分自身に対しても言える言葉かもしれない」と思ったんです。私から私自身に向けても、「いろいろあったけど自分と向き合うことはこの7年間やめなかったね」「もがき苦しみながらも辞めなかったならこの先も大丈夫だよね」と言ってあげられる。

「自信」って自分を信じることだ、って解ったんです。

自分がやってきたことを人から認めて貰うんじゃなく、自分自身で認めて、自分自身の中に落としこんでいく作業こそが、自分の自信になっていくのかなと気付きました。


応援とは、心を温めるもの

ーー2021年にシルク・ドゥ・ソレイユを卒業、今年から拠点を日本に移されたそうですね。

本当は12月31日がラストショーの予定だったのですが、12月30日に週1回のPCRテストを受けたらなんとまさかの陽性。明日がラストショーだと思っていたのにすぐ帰らなくちゃいけなくなって、結果その前日に出たショーがラストだったということになっちゃって。

この話を聞くとみんな「残念だったね」と言ってくれますが、でも自分ではそこまでショックを受けなかったんですよ。自分としてはもう毎回やりきっていたから。

別に私のラストショーだからといってお客さんは変わらないし、自分が「ラストだ」と思って泳ぐかどうかの差しかない。逆に言うと、悔いなく終われる準備ができていたんだなと自覚できたので、そう思える最後で良かったなと思っています。

ただ、その後日本に帰る当日に最後のショーを観に行ったのですが、その時はもうシアターに向かう車の中から号泣していました。私は泣くのが苦手で普段からあまり泣かないのに、車でもショーでも号泣して、終わった頃にはもうショーをやる時よりも疲れ果てていて(笑)。

そして日本に帰る飛行機の中、「あの涙は何だったんだろう」と考えたんです。
嬉しい涙じゃないし、悲しい涙でもない。あれは一体何だったんだろうと考えた時、きっとあれは「いろんなことがあったけど、ここで7年間よくやったよ」と初めて自分に対して心から思えた涙だったなと思いました。

人からすごく評価されるような結果を出せたわけじゃ無いけど、ただ、7年間ちゃんと生きてきた。観てくれる人たちに拍手を貰うのが嬉しかった自分が、初めて自分に対して「お疲れ様」と心からの拍手を贈ることができた瞬間の涙でした。

ーーその時感じた思いは、今後の人生でも大きな財産となりそうですね。

最近、人生に無駄なことって無いなってよく思うんです。これまで感じてきた葛藤や苦しさが無かったら、今の自分は絶対に無い。

ごはんが食べられなくなった時があったから、今お母さんが作ってくれた1個のおにぎりを「本当に美味しい」と思いながら食べられるし、不眠症で悩んだ時期があったから、普通に眠れることがすごく幸せだなって思う。20代でこう思えるようになったから、このあとめちゃくちゃお得な人生だなと思っています(笑)。

自分が本当に喜ぶものに最初から気付ける人ならこのステップは全然必要無かったと思うんですけど、でもいろんなことがあったうえで今本当にやりたいことにたどり着いて、日々の生活から幸せを感じられること自体、本当に大きな財産ですよね。

ーー今後はどのような活動を考えていらっしゃるんですか。

シルク・ドゥ・ソレイユを離れる決意をしたのは「一旦今のショーを終えて新たな表現に取り組みたい」という思いからなんです。今の自分のスペシャリティとしては水中と空中とあとフィットネスなので、これらを組み合わせた体での表現を行っていきたいと思っています。

あと、文章を書くことにも興味があるので、写真と文章で表現できる本も面白いですよね。まだまだ自分でも手探りなので、何をしたいかを都度自分に問い続けながら進んでいきたいです。

ーー最後に、杉山さんにとって応援とは?

心が温まるもの、です。

これまで行ってきたアーティスティンクスイミングやシルク・ドゥ・ソレイユでの演技に対して送ってもらった応援のすべてが心を温めてくれたし、力になりました。

だからこそ、もっと自分自身が自分を応援できるようになれたらいいな、とも思っています。私は気を抜くとどうしても「もっと誰かに応援されたい」と自分以外に求めてしまうので、私が帰国の日に自分へ贈った拍手のように、なるべく自分自身に対しての応援も意識してあげられるようになっていきたいです。