SPORTIST STORY
BASEBALL PLAYER
前田幸長
YUKINAGA MAEDA
STORY

人生を変えた魔法のスイッチ

厳しいプロの世界で生き残るためにクイックモーションを磨き上げ、国内ではロッテ、中日、巨人と3球団で20年もの長きにわたり現役生活を続けてきた前田幸長。当時としては珍しかったパ・リーグからセ・リーグへの移籍、37歳からの海外挑戦など、現役時代の興味深いエピソードは尽きない。引退後に立ち上げた少年野球チーム『都筑中央ボーイズ』は、今や県内屈指の強豪チーム。現役時代と現在とでは「応援に対する捉え方」に大きな変化が生まれたと話す彼。長きにわたるプロ生活と海外経験で培った知識と経験は、今彼が指導する子供たちひとりひとりの背中を押す大きな力となっている。

Interview / Chikayuki Endo
Text / Remi Matsunaga 
Photo / Naoto Shimada

「明日も野球ができると思うなよ」心に残った星野監督からの叱咤激励


ーー前田さんが「応援」と聞いて、最初に思い出すのはどんなエピソードですか?

応援されている最中って、意外と自分が応援されていることに気付かないものなんですよね。いちばん最初に僕を応援してくれていたのは、両親だと思うんです。だけど毎朝早くに起きて母が弁当を作ってくれたことや、どこに行くにも親父がついてきてくれていたことのありがたさが本当に分かったのは、自分に子供ができてからでした。応援する楽しさももちろんありますが、親が子供を応援するのって大変なんだなと、自分が同じ立場になって実感しました。

ーー現役時代も「応援されている」と実感する機会は少なかった?

ファンや周囲の人に「応援されていたんだな」と心から思ったのも、現役を引退してからでした。現役時代は自分の守らなくちゃいけないものを守ることに精一杯で、応援してくれている人の存在はわかっていても、そのありがたさを心から理解できていたとは言えなかった。テレビや新聞のインタビューでプロ野球選手が「ファンの方のために頑張ります」ってよく話しますが、あれって本音半分、建前半分みたいなところも正直あると思うんです。半分は本心だし、もう半分も嘘ってわけじゃ無い。だけど、「他の選手もこう言っているから」くらいで話している選手もいるんじゃないかな。どうしてそう思うかというと、僕自身がそうだったから。本当の意味でファンからの応援に感謝できている選手からすれば「何を言ってるんだ」と思われるかもしれないけど、でも当時の僕は自分のやるべきことを追うのに必死で、本当の意味でファンの応援を自覚できているとは言えなかった。プロの世界は厳しいです。現役当時、星野仙一監督に言われて印象に残っているのが、「明日も野球ができると思うなよ」「来年もユニホーム着れると思うなよ」という言葉。その言葉通り、不甲斐ない試合が続くと来年どうなるかわからない。だから現役中は「自分がユニフォームをずっと着続けること」が何より重要で、応援してくれている人たちのことにまで気が回らなかったんです。

 

ーー張り詰めていた現役時代よりも、時間を置いて振り返った時の方が気付けるものなんですね。

気付きのきっかけとしていちばん大きかったのは、自分の息子が野球を始めて、応援される側から応援する側の目になったこと。応援のありがたさもそうだし、自分が応援する側になったら「応援の仕方」についてもちょっと考えるようになりました。僕の父はすごく練習熱心で、僕が子供の頃は毎日17時半に父が帰宅したら夜までずっと練習しているような毎日でした。小さな頃は楽しくやっていましたが、それがいつしかやらされるような感じになってくると、やっぱりちょっとした反抗心を感じたこともありました。それなのに、自分が親として応援する側になったらやっぱり同じように「長男にも良いピッチャーになってほしい」という気持ちが強く出てしまうんですよね。でも親の希望や期待が前に出過ぎると、応援がちょっと違う方向にズレてしまうことがある。本人はすでに頑張っているのに「なんでもっと頑張らないんだ」みたいな形になってしまうと、良かれと思ってやっている応援でも、本人のプレッシャーになってしまいますよね。ただでさえ「野球選手の息子」ということで、嫌な思いをすることも多いのに、応援=「頑張れって尻を叩くこと」というような感じで指導してしまったから、長男本人としては面白くない部分もあったんじゃないかな。これは自分としても反省しているところです。


 

ーー前田さん自身も現役時代、応援や期待をマイナスに感じてしまったことが?

ありましたね。読売ジャイアンツにいた時代は特に、当時唯一すべての試合がテレビ中継されている全国区のチームだったこともあり、球団を応援する人たちが寄せる期待はすごく大きい。だからこそミスをした時の反動もすごいんです。ミスが続いている時に「ピッチャー、前田」と僕が登板するアナウンスが流れたら、観客席から「えぇ〜」と落胆の声が聞こえてきたこともありました。だけどそれもチームを応援しているからこその声だし、プロとしては「良かったら拍手、駄目なら批判」というのは当たり前のこと。自分がファンの期待に応えられていないんだから仕方がありません。それこそ星野監督が言っていた「明日もユニフォームが着られると思うなよ」って言葉を思い出して、目の前のことを頑張るしかないんですよね。

 

ーー日々張り詰めた現役時代だったように感じるのですが、心の休まる瞬間はあったのでしょうか。

僕の現役生活はオクラホマ時代も含めて20年でしたが、20年間、毎日ずっとどこかで緊張していました。シーズンオフになれば試合は無いけど来年の保証なんて無いし、契約があったとしてもその次も自分の居場所があり続けるかわからない。新しい選手がどんどん入ってきてチームも変わっていく中、ずっと現役で自分の家族や生活を守らなくちゃいけないと思うと、やっぱり365日緊張していましたね。もちろんオフに出かけたり、楽しい日もあるんです。でもその日が終われば楽しい時間もおしまい。家に帰ったその瞬間から、翌日以降にやるべきことを考え始めるわけですから。僕は現役中、1軍で投げられる機会に多く恵まれましたが、それでも2、3試合連続でミスをすると下部リーグに行けと言われる世界なので、プレッシャーは計り知れなかったです。ある程度の実績を積んでいればミスも2試合までは許されるけど、3試合ともなるとマネージャーが呼びにくる。「今日来るんじゃないか」とビクビクしていた時期もありました。

 

ーー長く現役を続けていくためには、怪我をしないことも重要だと思うんです。前田さんの現役時代は大きな怪我が比較的少なかったようですが、心がけていたことなどはありましたか?

大きな怪我は2度ありましたが、たしかに1年間を丸々棒に振るようなことにはなりませんでしたね。休んだ期間も最長で2ヶ月半くらいです。これは良いのか悪いのかわからないですが、僕が自分の場所を守るためにプロ1年目から決めて守っていたのは「少々の痛みでは休まない」ことです。それこそ骨が折れてボールが投げられないような状況以外では絶対に休まないと決めて20年間ずっと続けてきました。

 

ーーそれは痛くても我慢していたということ?

我慢していましたね(笑)。 それこそ金本さん(金本知憲)みたいに骨折してでも試合に出る鉄人もいるくらいですから、きっと当時同じように我慢していた選手は僕以外にもいたと思いますが、それでも「ちょっとのことでは休まない」という自負はありました。これも「守りたい家族がいるから」という思いに起因していたと思います。

 

新たな環境で自らリリーフを志願。自分の役割を見つけることがチームの勝利へと繋がる


ーー前田さんの現役時代は、周りからの応援以上に、自分自身を応援したり鼓舞したりすることの方が多かったのではないでしょうか。

たしかに、自分で自分を奮い立たせる場面は多かったです。

 

ーー自分自身をコントロールする術は、プロ入り前から身に付けていたのですか?

いえ、高校までは大きな怪我も挫折も知らなかったし、何より自分よりもすごい選手を見たことがなかったから、そんな風に鼓舞する必要もなかったんですよね。順調に甲子園まで進んで、ドラフト1位で入団して……といった感じで本当に順風満帆だったから。ただ、そのぶん努力もしました。特に高校1年の冬から最後の甲子園が終わるまでの約2年間は、今振り返っても人生でいちばん練習したんじゃないかと思うほど、練習に明け暮れた日々でした。

 

ーーよく「プロ入りして、プロ選手のすごさに驚いた」といった話を聞きますが、前田さんとしてはあまりそういった感覚も無く?

さっき「365日緊張していた」と話しましたが、それと同時になぜか根拠の無い自信もずっとあったんです。「プロに入っても俺は大丈夫だ」と思いこんでいたからか、プロ入りしてもそんなにギャップを感じることは無かったです。

 

ーーどうして18歳にしてそこまでの自信を持てていたんだと思いますか?

それも多分、プロ入りするまで自分よりすごいって思う選手に当たってなかったからだと思います。プロに入れば当然すごい選手がたくさんいます。だけど、それでもどこかで「でも自分は大丈夫」と思ってたんですよ。悪くいうと天狗ですね(笑)。そう思えるだけの練習もしていたし、実際プロに入っても大丈夫だったから、そのまま自分で自分を信じてやってこれた感じでした。プロ入り5年目までは。

 

ーー6年目にして初めて壁に当たったんですね。

僕、プロ6年目で成績を落としたんです。当時ロッテに在籍していたのですが、急にバッターをおさえられなくなってしまった。「おかしいな、何が悪いんだろう」と、そこから2年間もがきました。当時のロッテはそれほど強いチームではなく、僕はルーキーで入ってから5年目までずっと先発を任されていました。よく言えば安泰です。2年目からの4年間は1度もファームに落ちることなくローテーションで投げさせてもらえていたので、自分としてはある程度上手くやれていると思っていました。油断じゃ無いけれど、「チームが弱いから2桁出せなくても仕方がないよね」みたいな風潮もあったかもしれません。同じことをやっていれば同じような結果を出し続けられるだろう、というある種の安心感みたいなものが生まれていたように思います。それが6、7年目と結果を出せなくなった。そこで「何かを変えなくちゃいけないな」と考えるようになりました。自分のせいじゃなく、不調を環境のせいにしたんです(笑)。それで「環境を変えたいから」と6年目にトレードを志願しました。だけどその時は「まだ戦力として考えているから」と言われて、6年目はそのままロッテに残留。でもその1年、やっぱり何をやっても自分を変えられなかったんです。復活の兆しを掴めないまま7年目のシーズンに入りましたが、結果は6年目と当然同じ。不調で2軍生活が長くなってきたこともあり再度直訴して、念願かなってトレードで中日ドラゴンズへ入団することになりました。移籍してすぐに大きな怪我をして2ヶ月半休みましたが、戻ってからは7勝。怪我で休んだ期間があっての7勝なので、まずまずの結果です。自分自身、環境を変えてやっとスランプから抜けられたような、ちょっとホッとした気持ちになりました。ところがドラゴンズに移籍して2年目、プロ9年目にして、また勝てなくなってしまったんです。チームという環境を変えて再び同じことになったのなら、今度は違う部分を変えなくてはいけない。そこで、今度はリリーフをやらせてほしいとお願いしました。もちろんチームの方針もあるから希望を出したからと言って必ず聞いてもらえるわけではありませんが、10年目の契約更改の時に先発からリリーフへとシフトチェンジしました。リリーフになってからそれまでよりも当然成績は落ちました。ただ終盤のベンチに入るようになってから、結果は良くなったんです。試合の結果と内容が良かったことで自分でも手応えを感じました。チームの事情で先発をやることもたまにありましたが、基本10年目はずっとリリーフで出場。そのあたりからは、ほぼそれまでの自分を取り戻せたように思います。

 

ーー前田さんは自身の不調を感じた時に、変革を求めることで解決するタイプなんですね。

それまでも何かを変えていくことで、自分自身の進化に成功してきましたからね。僕のぶつかった壁はそこまで大きな壁では無かったかもしれませんが、不調を感じた時に「もうちょっと良くなれるはず」と新しい技術を身につけようとすることが、自分を変えることに繋がってきた実感があります。やっぱり同じスタイルで20年間ずっとやっていけるわけではないので、結果が出なくなる時期がきたらそこで何かを変えていけないですよね。それにそこで何か新しいことをひとつ掴んだら、そこから2、3年くらいはそれでご飯が食べられる(笑)。逆に言うと、新しいものを探さないと再来年は多分無いですからね。

 

ーー環境を変えるタイミングは、いつもご自身で決断されていたのでしょうか。

そうですね、全部自分で決めています。誰も守ってくれないから、最後は自分で決めていくしかありません。当たり前のことですが、チームとしてはひとりダメになったら次に使える戦力を探せばいい。長く現役を続けていきたければ、自分にプレッシャーをかけ続けるしかないんです。今思えば苦しかったはずなんですけど、当時は必死でその苦しさにも気付いてなかった。あとは生来の楽観的な性格が幸いしたというか、どこかに「それでもなんとかなるだろう」と思う気持ちがあったのも良かったのかもしれないです。

 

ーーちなみに、チームが変わると掛かってくるプレッシャーの質も変わるものですか?

僕の場合は、多少変わりましたね。中日ドラゴンズには6年間在籍したのですが、当時監督だった星野さん(星野仙一)は勝ちへのこだわりがすごく強かった。そして、ドラゴンズ自体も勝つためのメンバーがしっかり揃ったチームでした。ルーキーとして入団したロッテは入団当初からチームの中心的な位置にいさせてもらっていたこともあって、ちゃんと成績を出していれば先発でいられる安心がどこかにあったんです。だけどドラゴンズにはすでに山本さん(山本昌)、立浪さん(立浪和義)、今中(今中慎二)といったスターがすでに何人もいる。だからその中で自分の役割を探すことになります。

 

ーースター選手ばかりの中で、自分の役割はすぐに見つけられましたか?

それが、スター選手ばかりだからこそ逆に見つけやすかったんですよ。ドラゴンズに入って「自分が中心じゃなくても良いんだ」と気付いたことによって、できる事の幅を広げられました。誤解が無いように言うと、もちろん選手としてスーパースターでありたいという気持ちもありました。だけど、数々のスーパースターたちが周りにいるから、「そうか、俺ぐらいの力じゃスーパースターになれないんだな」って気が付いた部分も正直あったんです。

 

ーー今でこそリリーフに特化した選手が評価されるようになっていますが、当時はリリーフ=先発になれない選手がやるものといった風潮とあったかと思います。当時の前田さん自身は、リリーフに対してネガティブな感情は無かったのでしょうか。

当然最初は自分がスーパースターになりたいと思っていたけど、でも「なりたいけどどうもなれないな」と気付いて受け入れるのもプロだよなと、自分の中で思えたから。じゃあ「自分ができることは何か」と考えたら、「10点負けていても10点勝っていても、この間だったら何でも行くよ」っていうのが僕の強みだろうと。そこからは、自分の強みを活かそうという考え方にシフトしました。星野監督が勝つことに対してすごく厳しかったからこそ、自分の強みを活かすことがチームで優勝することに繋がるんだと納得できた部分もありました。自分の考え方を変えることができたという意味でも、中日ドラゴンズへの移籍は大成功だったと思います。

 

体力的には苦しかったけど、毎日が楽しかったアメリカでの最後の1年間

ーーその後、プロ14年目にしてFA(フリーエージェント)で読売ジャイアンツに移籍しますが、この移籍はどのような経緯で決まったのでしょうか。当時FAでの移籍はあまり多くありませんでしたよね。

理由はたくさんありますが、監督の交代は僕の中で大きかったです。僕はドラゴンズが大好きだったし、街全体で応援してくれる名古屋もすごく居心地が良かった。他の選手からも「ちょっと待てよ」と慰留してもらったり、自分自身とても悩みましたが、監督との人間関係や球団の事情で年俸が当初提示された額よりも再交渉で下がってしまうなど、交渉中にもいろいろなことがあって。結果ここでまた環境を変えようと移籍を決めました。読売ジャイアンツは全国規模の大スターが集まるチームだったので、移籍に対する不安も多少はありました。だけどドラゴンズでの経験のおかげで自分に求められることは明確に解っていたので、ジャイアンツではまず1年間、怪我なくフルで50試合投げ続けることを全うしようと思っていました。また、同時に「もっと自分自身の技術を上げていかなくては」とも考えていました。子供の頃、それこそ父とキャッチボールをやっているような時代から「自分の体をこう動かせば、ボールは簡単にここに行く」というような自分の体の適切な動かし方は毎日探っていましたし、それはプロになってからも続けていました。むしろプロになってからの方が、より上手くなりたい気持ちが強まっていたように思います。でも本当に正しい体の動かし方を会得できたのは、プロ14年目になってから。「投げたい場所を狙って、なおかつ体をこう動かせばボールは思った通りのところに行くんだ!」というところに、プロ14年目にしてやっと行き着いたんです。

 

ーークイックモーションも、そういった研究の中で会得したのですか?

クイックもそうです。でも、実はクイックはロッテ時代からできていたんですよ。自分としては「これはランナーがいる時に使えるな」と思ってすぐに使わなかっただけで、技術自体はすでに持っていたんです。使い始めたきっかけは関川さん。中日ドラゴンズに移籍した後に関川さん(関川浩一・現ソフトバンクホークスコーチ)から、「ランナーがいなくてもクイックやってみろよ、バッターからするとアレは凄ぇ嫌だぞ」と言われたんですよね。それまでは自分も自分に教えてくれるピッチングコーチも元投手なので、バッター目線での感想なんて思い至らなかったんです。今ならネットで調べればすぐにいろんな情報が出てきますが、当時は意外とそんなもの。だから関川さんに言われて「なるほど嫌なのか!」と初めて気付きました。自分での判断だけじゃなく、他のポジションの選手に「どんな球だとやりにくいか、どんなことが苦手か」は聞いた方が良いなと思いました。関川さんはキャッチャーもやっていたから、特にいろんな目線で見ることができていたのかもしれないです。その後、読売ジャイアンツに移籍したらチーム自体が注目されていたこともあって、メディアにクローズアップされるようになりました。自分で言うのもなんですけど、クイックのパイオニアかもしれないですね(笑)。

 

ーークイックは前田さんの代名詞ともなりましたよね。その後、現役引退を前にアメリカへと渡りましたが、これはどういった思いで?

きっかけは、ジャイアンツに自分の居場所が無くなってきたと感じたからです。ジャイアンツには6年在籍して、そのうち4年目まではまだ仕事ができていたと思うのですが、5年目にまたバッターをおさえられなくなりました。より自分を進化させなくてはとそれから2年努力しましたが、変わる方法を見つけられなかった。技術の引き出しを探し続けたけれど、どうしても見つからなかったんです。2軍のバッターなら簡単におさえられるんです。2軍で結果を出せば1軍に上げてはもらえるけど、でも1軍に上がるとやっぱり結果が出せない。それでプロ入り19年目、37歳の時に日本での選手生活を終わりにして、最後にアメリカでやってみようと考えるようになりました。

 

ーー野球人生の終え方は、現役時代から思い描いていましたか?

いや、実際現役でやっている時は生涯現役だと思っていたんでまったく考えていなかったです(笑)。 生涯現役が実際には不可能だったとしても、できるだけ長くやりたかった。だから例えば引退試合をやってスピーチをして、みたいな具体的な理想の終わり方などは全然考えていませんでしたね。野球人生の終え方を初めて具体的に意識したのは、プロ19年目の夏です。「日本のプロ野球1軍でバッターを抑える力が自分にはもう無いんだな」と実感した時に、アメリカで最後に1球投げて野球人生を終わりたいと思ったんです。

 

ーーそれはつまり、アメリカへの挑戦も厳しい道だと自覚していたということでしょうか。

すごく難しい道だろうと思っていましたが、反面、「ワンチャンいけるのでは?」って気持ちも少しはありました。体のケアだけは大事なのでトレーナーだけを連れて、2人で渡米したのがプロ20年目。でもアメリカに渡ってすぐ、この壁は思っていたよりもさらに厚かったなと思いました。メジャーの契約選手は40名。そのうちベンチ入りできるロスター枠は25名で、残りの15名はマイナーリーグのトリプルAとダブルAに振り分けられます。つまり、その40名に入れなければ、マイナーリーグでどれだけ結果を出していてもメジャーの舞台に立つことはできないということです。やっぱり契約社会という面でアメリカは徹底していました。日本なら結果を出した人間が2軍から1軍に上がりますが、アメリカはまずその枠に入っていないとどれだけ結果を出してもメジャーには上がれない。努力しても報われない苦しさがありました。とは言え、新たな環境という楽しさもありました。日本で19年プロとしてやってきましたが、アメリカ野球は1年目。だから毎日すべてが新しくて新鮮なんですよね。僕はオクラホマの球団に所属していたのですが、移動の半分は飛行機で、もう半分は長距離バス。8時間以上かけてのバス移動も当たり前でした。バスも白人と中南米の選手で分かれていて、中南米の選手のバスに乗ったらみんな暑がりなのか、バスの中がエアコンでものすごく寒くて、着いてすぐショッピングモールに直行して毛布を買い込んだこともあったし、試合中に雹が降ってきたことや、同僚の選手に飲みに誘われて着いて行ったらちょっと危ない雰囲気の地域だったこともありました(笑)。すべてが初めてばかりの環境の中、「明日は何が起こるんだろう、次の街はどうなんだろう」と毎日ワクワクしていました。体力的にはしんどかったけど、最後にとても楽しい経験をさせてもらったと思います。

 

ーー21年目以降もアメリカで続けようという気持ちにはなりませんでしたか?

初年度はすべてが初めてで楽しいんですけど、一度経験してしまうとその過酷さも分かるわけです(笑)。 次の年に39歳になることを考えると、このままここで続けるのはちょっと大変だなと。エージェントとも相談しましたが、これ以上は厳しいかなということで一旦帰国することにしました。AAAでも1シーズン怪我なく投げ切ることができたので、自分からテストを受けることは無いにしても、もしどこかの球団から声が掛かることがあれば日本で続けたい気持ちもありましたが、声はかからなかった。それはつまりここが潮時だということで、帰国後、2008年の12月3日にメディアに向けて引退のお知らせをしました。

 

応援とは「スイッチを入れてあげること」

ーー引退後に少年野球チームを設立、現在も指導に尽力されていらっしゃいます。海外での経験はチームでの指導にも活きていると思いますか?

活きている部分もあるし、海外の環境を知っているからこそ疑問に思う部分もあります。日本はとにかく選手に優しい環境が整っていますよね。1軍でも2軍でも同じユニフォームを着て、同じ環境で充実した練習を行うことができる。良い面でもありますが、ハングリーさが失われる理由にもなっているように思います。あと、指導のうえで心がけているのは、個人に合わせた指導をすることです。選手によって、接し方、言葉の選び方、練習方法、どれがあっているかは千差万別。厳しい指導の方が伸びるタイプもいれば、褒めることで伸びていくタイプもいます。それなのに一律の指導を行っていたのでは全員が伸びないですよね。だから個々を見極めて、指導の手段を使い分けるようにしています。

 

ーー小中学生はまだまだ成長期ですし、体格的な差も大きそうですね。

成長度合いが違うからこそ、3年後どの子がどうなるか分かりませんからね。それを本人たちに気付いて貰ううえでも、会話はすごく重要です。少年野球で強いチームを作るのは簡単なんですよ。体格が良くて数字を出している選手を集めれば、ある程度強いチームを作ることはできるんです。だから、うちのチームでは先着順での入団としています。今の体格や強さは関係ないし、僕もどんな選手が来るかわからない。体格の大きさでレギュラーが決まることはないし、扱いも変わりません。だからこそ、今活躍できている子にはそこで止まらないための練習や声かけが必要だし、今小さい子には、ちゃんと練習を続けていればいずれ成長して結果が出せるようになる可能性があると伝える必要があるんですよね。その子に必要な応援の仕方は、ひとりひとりに違います。だから今できないことがあっても頭ごなしに否定するのは違うと思っています。今勝つことも大事だけど、負けたって別に怒りはしません。

 

ーー怒ったり練習量の詰め込みで成長させることよりも、コミュニケーションによって成長を促すことを重要視されているんですね。

今できることにあぐらをかいてやらない子には怒りますけどね(笑)。 それはどう考えても本人のためにならないから。練習の取り組み方で手を抜いているかどうかはすぐに分かります。今だけを評価されて伸びなくなるのでは本人のためにならないから、気付いてくれるかわからないけど一生懸命言い続けていくしかないんです。もちろん伝わらないまま卒団してしまう選手もいて、それは本人次第な部分も大きいので仕方がないところもある。でもだからと言って目を背けるわけにはいかないですからね。中学の3年間は高校での3年間の準備期間でもあるんだよと伝えています。彼らがチームにいる間、自分が指導できる間に、彼らが良くなっていくために今やれることをやっていくしかないと思っています。とてもやりがいのある仕事ですよ。

ーー最後に、前田さんにとっての「応援」とは何でしょうか。

僕も応援される側から応援する側になったので、今の僕にとっての応援とは「スイッチを入れてあげること」。スイッチを入れることで、背中を大きく押してあげることですね。だから僕の今の目標は、選手全員にスイッチを入れること。僕自身が高校の時のコーチにスイッチを入れてもらったことでプロにまでなれたから、僕も子供たちのスイッチを入れてあげたいと思っています。高校の時、創価高校でコーチをやっていた方が臨時で来られて指導してくださったことがあったのですが、そのコーチに「お前は肘の使い方が抜群だ、ドラフト1位でプロ入りした選手よりも良いぞ」って言われたんです。それが僕のスイッチでした。僕の父は厳しかったので子供の頃からあまり褒められたことが無くて。だから初めてちゃんと褒められたうえに、その比較がドラフト1位で入った選手ですからね。そんなこと言われちゃったら、やっぱり頑張りますよね(笑)。「やっぱり俺はやれるんだ!」と思えた、魔法のスイッチでした。スイッチが入ると誰に言われずとも頑張るし、自発的に動けるようになるんです。だから、今チームにいる子供たちのスイッチを探し続けるのは、僕にとって永遠のテーマです。どこにあるかはわからないし探すのも難しい。だけど、僕が入れてもらったのと同じように、子供たちのやる気につながる魔法のスイッチを見つけてあげたいんです。