SPORTIST STORY
PARA CLIMBER
平井亮太
RYOTA HIRAI
STORY

踏み出す一歩 よじ登る一手

パラスポーツがメディアに登場する際、「障がいを持ちながら頑張っている姿」にフォーカスされることも多い。しかしそれは本当に正しいパラスポーツの姿を捉えられていると言えるのだろうか。観る側である我々も、知らず知らず「パラスポーツとはこういうもの」という固定観念のフィルターを通して観てはいないだろうか。平井亮太は27歳で突然副腎白質ジストロフィーを患ったが、その後始めたパラクライミングで世界選手権の日本代表として出場するほどの実力を身につけた。病の発症当時はすべてに絶望していた彼が前を向けたのは、スポーツがあったからだと語る。パラスポーツ選手は決して「悲劇のヒーロー」ではない。生身の彼らは1アスリートとして地道な努力を重ねているし、その姿勢は障がいを持たないアスリートと何も変わらない。この意識を広げていくことができれば、その先に本当の意味で垣根の無い社会が実現するのではないだろうか。
※パラクライミングは2028年開催予定のロサンゼルスパラリンピックの実施協議として追加検討されている

Interview / SPORTIST
Text / Remi Matsunaga
Photo / Naoto Shimada
Interview date / 2023.10.13
Filmed with the cooperation of J-WALL Ascent(http://www.j-wall.net/



「なんとなく」で生きていた、少年時代



ーー少年時代の平井さんは、どんな性格だったのでしょうか。

性格は内気で人見知り。人と話したり、自分の感情を外に出したりするのは苦手でした。ただ、体を動かすのは好きで、どんな競技でも少しやれば最初からそれなりにできてしまうタイプでもありました。うちは母子家庭だったのですが、母がすごく真面目な性格なんです。まっすぐで曲がったことが嫌いな人なので、僕も母からそういった気質を引き継いでいるような気がします。

ーー幼少期にスポーツ関連の習い事は行っていましたか?

4歳から小学4年生まで水泳を習っていたのですが、自分の中で「もうこれ以上うまくはなれないな」という思いが出てきて、半分逃げのような気持ちで他のスポーツをやることにしたんです。それで始めたのが野球。同級生に誘われたことがきっかけでした。野球では6年生でキャプテンも務めました。今思い返すと、当時の監督が内気な僕の性格を変えようと任せてくれたのかもしれません。だけどキャプテンになったことで周りのみんなも頼ってくれるようになって、やりがいを感じる時間が増えていきました。

ーーそのまま野球の道に進もうとは思いませんでしたか?

野球を本気でやっていたかと言われたら、そうではなくて。「何かスポーツをやっていたい」くらいの気持ちでなんとなくやっていたので、野球を極めようとはなりませんでしたね。

ーーじゃあ当時の夢は?

ぼんやりと「大工さんになりたい」と思っていました。自分の家を自分で建てたいと考えていたような気がします。

ーー物を作ることも好きだったんですね。

ものづくりは子供の頃から好きですね。普段の生活で「こういう時にこれがあるといいのにな」と思ったら、身の回りにあるもので作ることもありました。

ーー自動車整備士として働いていたこともあるそうですが、それもものづくりが好きだったから?

いえ、それもそんなにしっかりした意志をもって選んだわけではなく、なんとなく決めた感じです。就職を考えた時に「自分の車を自分でいじりたい」と思ったんです。工具を使うことも好きだったから、工具を使える仕事の中から整備士を選んだだけで、別にすごく車が好きなわけでもないんですよ。ちゃんと走れば車種も何でもいいです。こうやって今までの人生を振り返ると、前半は結構「なんとなく」で進んできた感じですね。



「なってしまったものは仕方がない」病気に対して開き直れた瞬間



ーー副腎白質ジストロフィーを発症したのは、社会人になってからだとお聞きしました。

いちばん最初に症状が出たのは27歳の時でした。つまづくことが増えたのですが、その少し前にスケートボードをやっていて足首を骨折してしまっていたのでその後遺症みたいなものだと思っていたし、病院でも「何ともない」と言われていたので時間が経てば良くなるだろうと思っていました。だけどそのまま1年が経っても全然良くならず、むしろ状態は悪化していきました。長時間立ったり歩いたりすると足が棒のようになって、自分の足なのに自分の足じゃないような、気持ち悪い感覚になるんです。だけど、この感覚は人に伝えられない。その頃には、この状態で立ち仕事を続けるのも厳しいなと感じるようになっていました。整骨院や整形外科をいくつ周っても原因不明のままで、そのうち杖が1本必要になって、次は2本必要になって。絶対におかしいはずなのに、原因がはっきりしないことが本当に辛かった。周りの人は「大丈夫、治るよ」と言ってくれましたが、自分でも「これは軽い病気ではない」と感じていました。大学病院に検査入院してやっと病名が判ったのは症状が出始めてから2年後。29歳の時でした。

ーー病名が判った時、どう思いましたか。

『副腎白質ジストロフィー』と言われても聞いたことがない病名なので、最初は「何それ?」くらいの感想でした。現実味もあまり無かったんですよね。だけど同時に、ちょっとスッキリした部分もあったんです。「あ、やっぱり病気だったでしょ?」みたいな感じ。だけど、今後の生活や仕事のことを考えると「これは今後辛くなるだろうな」と思いました。診断が下る数ヶ月前から立ち仕事が難しくなって事務作業をさせてもらっていたのですが、検査入院前には座っていても身体が辛い状態になっていたので。結局診断の3ヶ月後に退職、その3ヶ月後には車椅子でしか移動できなくなってしまいました。

ーー身体的な辛さと生活の不安、両方と向き合わなくてはならない状況はきっと想像もつかないほどの辛さだったと思います。

正直「もう人生終わりだ」と思っていた時期でした。でもそんな状況の中でも、たまに家でちょっとした筋トレはやっていたんです。筋トレや運動をしている時間ってただ必死に体を動かすことだけを考えるから、悩んだり考えたりしなくて済むんですよね。そういう意味でも、やっぱり自分は運動だけは続けなくちゃいけないなと思っていました。

ーー病気について、家族とはどんな話をしましたか?

母は「いつでも戻ってきていいんだよ」と言ってくれました。でも、母は母で僕の病気に責任を感じていたようです。遺伝性の病気なので「自分の遺伝子が原因なんじゃないか」と。だけどこれは突然発症する病気だし、うちの家系でこの病気になったのは僕が1人目。親世代でこの病気に罹った人はいないから、決して母のせいではないんです。

ーーとは言え、その1人目になってしまった自分の運命を受け入れられない気持ちもあったのでは?

「どうして自分が」とは思いました。でもなってしまったものは仕方がありません。事故で体が不自由になったのなら「あの日ああしていなければ」と悔やんだかもしれませんが、遺伝性の病気で突然発症したなら、自分はどのみちこうなる運命だったんだからもう仕方がないのかなと。ある程度経ってからですが、病気に対して開き直った瞬間がありました。

ーーそう考えられるようになったのは、何かきっかけがあったのでしょうか。

車椅子スポーツを始めたことが大きかったです。病気になったとはいえ頭はクリアなので、それなら体を動かすしかないなと始めました。今の病気になった自分を受け入れたうえで、ベストな人生を歩むしかないと思ったんです。最初は横浜ラポール(障害者スポーツ文化センター横浜ラポール)に行って、ハンドサイクルに乗らせて貰いました。そこで「よし、パラリンピックだ!」って思ったんですよね(笑)。

ーー障がい者スポーツセンターに行くうえでの不安はありませんでしたか?

やっぱりゼロでは無かったですね。知らない世界に踏み出す怖さもあって、スポーツセンターに足を運ぶまで1年程かかりました。実際に初めの一歩を踏み出せたのは、一緒に行こうと言ってくれた人のおかげです。車椅子競技を始めてからしばらくは手漕ぎの三輪レースを続けていましたが、「楽しいけど本当にこの競技でいいのかな?」という思いもあって。そんな時、パラクライミングの選手から「パラクライミングをやってみない?」と紹介されたんです。

ーー紹介されてからは、すぐパラクライミングへ転向を?

それが、その当時の僕はお腹に機械が入っている状態で、その機械がクライミングの際に付けるハーネスと干渉してしまうんですよ。だから紹介されたものの、自分にはできない競技だと思っていました。そうしたら、紹介してくれた選手が周りの人にも相談して機械に干渉しないハーネスを見つけてくれたんです。この競技を紹介してくれた選手をはじめ、たくさんの方が協力してくれたおかげでクライミングを始めることができました。

ーー最初にクライミングを体験した時、どのような感想を持たれましたか。

「あ、これだ!」と思いました。それまでやっていた自転車競技は長距離に近い性質なのですが、クライミングはどちらかというと短距離に近いんです。僕はもともと短距離走が好きだったし、ずっとやっていた筋トレに通ずるものもあったので、性質的にも自分に合っていると感じました。それに、登っていった先のどうしても届かない場所、「もう少しで届くだろう」と感じているところに手が届いた時の達成感が楽しいんです。常に自分の限界を超えていくという面もとても魅力的に感じました。



障がいの内容やレベルは関係ない。参加者全員が仲間でありライバル



ーーパラクライミングの大会はどのくらいの頻度で開催されているのでしょうか。

日本での大会は年2回、世界大会は年4回。世界選手権は2年に1回開催されています。日本での大会を主体となって運営しているのはパラクライミング協会ですが、協会の方だけでなく、たくさんのボランティアの方々にも支えていただいています。

ーークライミングコースは大会ごとに作られるのですか?

そうです。基本的にルートはその大会のためだけに作られるルートなので、二度と同じルートを登ることはできません。だから選手にとっては常に初めての壁なんですよ。常に最初で最後、いちどしか登れない壁をいかに上まで登っていくかという部分がクライミングの楽しさでもあります。

ーーということは、毎回試合会場で初めての壁を目にして、その場でどう登っていくかを考えるんですね。

予選の際はいくらでも見られるのですが、本選では壁を見られるのは全選手最初の6分間だけと決まっているんです。6分間壁を見た後は全員控室に隔離されて順番に本選に挑むので、他の選手が登っている姿を見ることができないんですよね。だから聞こえてくる声だけで「あっ今落ちたのかな」とか「結構時間が経っているからこれくらいは登れたのかな」など、いろいろ想像しながら待っています。

ーー登るルートを長く考えられる方が有利に働くからこその、独特なルールですね。

他のスポーツとちょっと違うのところとして、ライバル選手同士がルートについて相談するところも挙げられます。「あそこはどうやって越える?」「どういう登り方でいく?」といった感じで、作戦を話し合うんです。

ーーそれは控室で待っている間に?

控室でも話しますし、参加選手全員で最初に壁を見る6分間でも話しますね。ライバル選手に早く落ちてほしいというよりも、自分がどこまで登れるかの方が重要なんです。あくまで自分にフォーカスする競技なので、ライバル選手も全力を尽くしたうえで自分がそれを超えていきたいとみんな思っているんです。だから他の選手のクライミングを見られる予選の時は、みんなライバルのことも本気で応援し合っています。

ーー必死で登っている最中であっても、声援は聞こえてきますか?

聞こえます。練習中もそうですが、応援してもらえている時の方がいつもより登れるように感じます。しんどいと思っているところに応援の声が届くと、背中を押されているような感覚になる。「いけるよ!」って言われると「まだいける!」って思えるんですよね。クライミングを行っている選手の中には、片足や片腕が無い人もいれば、目が見えない障がいを持つ人もいます。だけど大会の場では障がいの内容やレベルは関係なく、全部含めて仲間だしライバルでもある。障がいによる区別なく全員がお互いを応援しあえる環境なので、個人競技ではありますが、ライバル選手含めチームのような感覚なんです。

ーーちなみに競技中って、どんなことを考えながら登っているんですか?

「一手でも上へ」しか考えていないですね。登っているうちに、必ず限界は来るんです。「もうどれだけ頑張ってもこれ以上は進めない」と感じる時もありますが、それでも最後の最後まで、力尽きるまで諦めずしがみついてやろうという思いで登っています。実際早く落ちた方が楽なんですけど(笑)、でも自分に甘えたらそれ以上登れないし落ちて行っちゃうだけなので。「限界を超える」という思いの繰り返しが成長に繋がっていく競技だと思います。

ーーパラクライミングを始めてからの目標設定は、どのように考えていたのでしょうか。

始めた時から「1番を目指す」と決めていました。何でもなんとなくやっていた頃の自分とは変わりましたね。スポーツを始めたことで前を向けたし、パラクライミングがあるから今の自分がある。クライミングが無くなったら空っぽになっちゃう気がするくらいです。なので、やるからには1番を目指したいと常に思っています。だけど、1番を目指してはいるもののやっぱり結局は自分との戦いなので、他の選手の成績よりも自分がどうだったかがすべてなんですよね。仮に他の選手が早い段階で落ちて僕が上の順位になれたとしても、そこで自分の記録が良くなければ勝っても悔しいんです。順位よりも、自分自身に勝てたかどうかが重要な種目なのかなと思います。

ーーそうすると、きっと辛さを感じるのは自分を超えられない期間が長く続く時ですよね。そんな時はどう自分に向き合うのですか?

「継続していれば超えられる」と信じます。あとはライバル選手に相談もしますね。調子が悪いことを話した時に「俺もそういう時はあるけど大丈夫だよ」と言って貰えると「ここで諦めずに続けることが大事なんだ」と改めて思えるので。これまでも続けることで過去の自分を超えてきたので、それを思い返して「諦めなければ目標に届く」と信じて頑張っています。

ーー現在の平井さんは何を目標にしていますか?

今の目標は、世界大会でメダルを獲ることです。

ーー目標に向けて、どのようなことを行っているのでしょうか。

実は、今の日本にはまだ車椅子クライマーの先駆者と言えるような存在の方がいないんです。パラクライミング自体がまだ歴史の浅い競技なので、それこそ僕たちがパラクライミング第一世代のような感じなんですよ。だから今は、自分の弱点は何なのかを考えてひたすらトライアンドエラーを繰り返しています。持久力が弱いと感じたらそこにフォーカスしたトレーニングを多くしてみたり。自分の弱点を見つけていかに改善していくかを日々考えて練習しています。



絶望が希望に変わったのは「なりたい自分になるため前に進もう」と決めた時





ーーパラスポーツの選手は言葉を選ばずに言うと「悲劇のヒーロー」のような見られ方をされることも多いのではないかと思います。それに対して、違和感を感じる部分はありませんか?

たしかにそういった見られ方をすることは少なくないと感じています。ただ、競技を行っている立場からすると「障がいを持っている人が頑張っている」という目で見られるよりは、ひとりのアスリートとして見て貰えると嬉しいです。僕以外の選手達もみんなひとりのアスリートとして取り組んでいるし、障がいがあってもなくても何かひとつのことを本気で頑張ってる人はかっこいいと思うんですよね。でもこれは僕個人の意見で、パラスポーツをやっている人全員が同じ考えでは無いとも思うのですが……。僕自身もですが、障がいを持つ方ってきっと健常の方よりも競技を始める時大変だったと思うんです。さまざまな症状を抱えたうえでスポーツを始める第一歩はきっと普通よりも重めの一歩だったはずですが、でもその一歩を踏み出した先では、障がいの有無は関係ない。僕はクライミングをやっている時、自分が障がい者であるという自覚が無くなっちゃうんです。僕自身も、ただ自分がかっこいいと思える人になるためにこの道を進んでいるところです。

ーーひとりのアスリートとして見る時に、パラスポーツかそうでないかは重要視していないと。

基本的にはそう考えています。ただ、障がいを持つ方の中には新たな一歩を踏み出したいと思いつつできずにいる方もたくさんいらっしゃると思うんです。そういう方に対しては、あえて「僕はパラスポーツをやっています」と伝えたい気持ちもあります。「パラスポーツかそうでないかを重要視していない」という言葉とは矛盾してしまいますが、今踏み出せずにいる方々に対しては、「障がいを持つ僕もパラスポーツで頑張っているから一緒に頑張ろうよ」と同じ立場からのメッセージを届けたいんです。

ーー現在の平井さんと、いろいろなことをなんとなく決めて生きていた過去の平井さんとでは、内面が大きく変わったような印象です。

変わりましたね。病気を発症した頃の僕は、失ったものの多さに絶望していたというよりは、この先の希望がひとつも見えないことに絶望していました。その絶望が希望に変わったのは、スポーツを始めて「なりたい自分になるため前に進もう」と決めた時。僕自身もまだ完全に乗り越えたわけでは無いし今も戦っている最中ですが、思い切って一歩踏み出したことで人生が変わる体験をしたからこそ、今度は僕が誰かの希望を見つける手助けをしたいんです。



応援とは「お互いを元気づけられる力の源」



ーー今、将来の夢はありますか?

まずはクライミングで世界のメダルを獲って成績を残すこと。そして次の世代を担う子供たちが僕を見て「クライマーになりたい」と思ってもらえるような競技者になることです。それにはやはり結果も必要なので、努力を続けていかなくてはいけません。僕は身体が動く限り、クライミングを辞める気は無いんですよね。でもお爺さんになっても壁に挑み続けるのは無理かな……(笑)。だからもし登れなくなったら、その時は子供達にクライミングの指導をしたいです。障がいを持っている子もクライミングできる指導環境を作っていけると良いなと思っています。

ーー引退を考えずに続けていこうと思えるほどの競技に出会えたことで、平井さんの人生は本当に一変しましたね。

病気になって失ったものばかりを数えていた時期もありましたが、病気になったから出会えた人もたくさんいるし、日本代表を経験することもできたし、今は得たものもたくさんあったなと思います。

ーーSNSでも多くの応援が届いているそうですね。

SNSを通じて応援メッセージを送ってくれるということは、僕の活動がその人の心を動かしたり力になれたりしたということだと思うので、とても嬉しいです。同じ病気を持つ子供の親御さんからメッセージをいただくことも多いんです。副腎白質ジストロフィーは珍しい病気なので病名で検索しても同じ病気と戦っている方を見つけるのって結構大変で、恐らく今SNSで副腎白質ジストロフィーを検索すると、僕が検索結果に出てくることが多いと思うんです。だからこそ、SNSでも積極的に発信するようにしています。僕が頑張る姿を見た人や同じ病気を患っている子供達、その家族の力に少しでもなれれば。「同じ病気だけどこんな人もいるんだ」と前を向くきっかけになれたらと思っています。

ーー平井さんはきっとすでに誰かにとってのヒーローだと思います。

僕の考えるヒーローは「人に力を届けられる人」なので、もしそうなれていたら嬉しいですね。僕はきっと、応援されるよりも応援したいんです。だから「頑張ってください、応援しています」といったメッセージは、僕にとって「もっともっと頑張ってより力を届けていきたい」と思える力になります。誰かに力を届けられる人になることは、選手としてのもうひとつの目標でもあります。

ーー最後に、平井さんにとって応援とは何でしょうか。

「お互いを元気づけられる力の源」です。それが無いと頑張れないし、それがあるから頑張れる。力を届けられたり、届けたりできるもの。それが僕にとっての応援です。